2.氷の魔法使いの憂鬱
更新遅くなってしまいすみません。
2話は少し長めになってしまいましたがお付き合いいただければ幸いです。
朝日が差し込む執務室で、アレクシスは今日の授業予定に目を通していた。
専門課程二年生の実技指導。担当は別の教授だが、目に留まったのは見慣れた名前。
ジュディアナ・セントクレア。
「また、見守るだけですか?」
ルークが紅茶を差し出しながら、いつものように的確な質問を投げかける。
「教授という立場で、婚約者に特別な指導をするわけにはいかない」
「それにしては、毎週この時間に窓際で」
返事の代わりに、紅茶が凍りかけた。
「閣下、上級な茶葉なのですが」
「ああ」
アレクシスは杖を振り、紅茶を元に戻す。
だが、ルークの言葉は正しい。この時間、決まって中庭の教室を見つめている自分を、自覚していた。
***
(もっと、力になりたいのに)
幼い頃は、よく庭園で魔法の練習に付き合った。
ジュディが魔法を失敗するたびに、氷の蝶を飛ばして励ましたものだ。
「閣下、執務室の温度が下がっております」
ルークの声に、アレクシスは窓から視線を外した。
確かに、机の上の書類が薄っすらと凍りかけている。
「気がつかなかった」
「ジュディアナ様の実技授業をご覧になっていたのではありませんか?」
返事はなかったが、ルークには分かっていた。
あの頃は、もっと素直に気持ちを伝えられた。今は立場も変わり、距離ができてしまった。
「閣下」
「なんだ」
「ブライトン令嬢が、またお嬢様に魔法を教えているようですが」
アレクシスは再び窓の外に目を向けた。
ヴィオラ・ブライトンが、優雅に水の魔法を披露している。周囲から歓声が上がる。
その横で、ジュディが肩を落とす姿が見えた。
(ジュディ・・・)
「執務室の温度が、また下がっていますよ」
「うるさい」
ルークは小さく溜息をつく。
「お嬢様のためにも、もう少し感情を表にされたらいかがです」
「・・・午後の視察者の件を報告しろ」
「ああ、はい。隣国から火の魔法使い、クロード・アーデント伯爵がご到着されたと」
アレクシスの表情が一瞬凍りついた。
***
「アーデントが、なぜ」
「陛下のご命令です。隣国との魔法交流の一環として」
アレクシスは机の前で指を組んだ。
学生時代からの因縁。火と氷の天才と呼ばれた二人の確執を、ルークは良く覚えている。
あの頃、アーデントは常にアレクシスと好敵手として扱われた。だが、その性格は正反対。社交的で人当たりの良いアーデントと、感情表現の下手な氷の魔法使い。
「どのくらいの期間だ」
「一月ほど。学院での講義も担当されるそうですよ」
言葉が終わらないうち、インク瓶が凍りついた。
「・・・閣下?」
「分かっている」
アレクシスは立ち上がると、窓際へ歩み寄った。
ちょうど放課後の図書室が見える位置だ。
そこに映るのは、一人机に向かうジュディの姿。
夕陽に照らされた横顔が、儚く美しい。
(昔のように、そばにいられたら)
その時、ジュディが顔を上げた。
視線が合い、彼女は慌てて本に顔を伏せる。
次の瞬間。
「きゃっ!」という声と共に、花瓶が傾いた。
***
咄嗟に杖を振る。
本に落ちかけた水滴が、宙で静止した。
「さすが閣下。見事な反応速度です」
「黙っていろ」
アレクシスは慎重に水滴を操作し、花瓶に戻していく。
その仕草は、まるでジュディに触れるように優しかった。
「ところで」
ルークが窓の外に目をやる。
「あちらの紳士は」
アレクシスの動きが止まった。
図書室に入っていく黒髪の男性。間違いなくアーデントだ。
「おや、こんなところで美しい花を見つけるとは」
アーデントの声が聞こえてくる。
ジュディが驚いて振り向く様子も。
(アーデント、貴様・・・)
窓ガラスに霜が走る。
アーデントがジュディの手に口づけた瞬間、ガラスが軋むような音を立てた。
「閣下、」
ルークの声には焦りが混じっている。
「このままでは窓ガラスが」
「分かっている」
アレクシスは杖を下ろした。
だが、執務室の気温は依然として下がったままだ。
ジュディが慌てて図書室を出ていく。
追いかけるように立ち上がりかけた体を、ルークが制する。
「教授という立場を忘れないように、と仰ったのは閣下ご自身では?」
「・・・」
「まあ、アーデント伯爵の方も、お嬢様に興味をお持ちのようで」
その言葉に、アレクシスの表情が一層冷たくなる。
机上の書類が、みるみる凍りついていく。
「閣下、それは明日までに提出が必要な」
「後で解かしておく!」
窓の外では、ジュディが廊下を小走りに去っていった。
その背中は、どこか寂しげに見えた。
(俺には、何もしてやれない)
「ルーク」
「はい」
「アーデントの件、詳しく調べておけ」
「承知いたしました」
側近は小さく溜息をつく。
「ですが、お嬢様にはもう少し素直になられては?」
沈黙が流れる。
夕暮れの執務室で、アレクシスはただ窓の外を見つめていた。
「閣下は、教授就任が決まった日のことを覚えていらっしゃいますか?」
突然の問いに、アレクシスの瞳が揺れる。
あの日、ジュディは両目を輝かせて駆け寄ってきた。
「アレクシス様、おめでとうございます!」
嬉しそうに微笑むジュディ。
だが、その直後。
「私、もっと頑張らないと。アレクシス様の婚約者として、恥ずかしくない存在に・・・」
(違う。そんなことは)
言葉にできなかった。
教授という立場を意識しすぎて、大切な想いを伝えられないまま。
「閣下」
「なんだ」
「このままでは、お嬢様は本当にアーデント伯爵になびいてしまうかもしれせんよ」
「氷漬けにしてやる」
「それは立派な国際問題ですね」
ルークは肩をすくめた。
「氷の魔法使いが、まさかこんな熱いお方だとはだれも思わないでしょうね」
窓の外では、すっかり日が沈もうとしていた。
アレクシスは静かに立ち上がる。
「ルーク」
「はい」
「明日からの講義は私が担当する」
ルークは小さく微笑んだ。
「承知いたしました。では、アーデント伯爵への対応は?」
「・・・迎え入れよう。だが」
アレクシスの瞳が氷のように冴える。
「ジュディには近づけさせない」
***
翌朝、ジュディアナの寮室に一通の通知が届いた。
「専門課程二年生実技指導担当教授変更のお知らせ」
封を開くと、そこには見慣れた名前があった。
アレクシス・フロストグレイ教授。
「え?」
ジュディアナは何度も文面を確認した。
アレクシス様が、直接指導するというのか。
「どうしよう・・・」
鏡の前で髪を整えながら、彼女は不安に駆られた。
婚約者とはいえ、今や王立魔法学院きっての天才教授。
その前で、魔法の出来ない自分が恥をさらすことになる。
「ノック、ノック!ジュディ、準備はいい?」
ドアの向こうからヴィオラの声がした。
「ヴィオラ、大変!」
ドアを開けると、親友の顔が見えた。
「アレクシス様が、今日から私たちの授業を担当されるって・・・!」
「知ってるわ。学院中の噂よ」
ヴィオラは興味深そうに微笑んだ。
「フロストグレイ教授が突然、二年生の指導を買って出たって」
「どうして急に・・・」
「さあ?でも」
ヴィオラは意味ありげな視線を送った。
「昨日、図書室でのことと関係あるんじゃない?」
「え?」
「アーデント伯爵よ。今朝の講演で学院中の女子学生は彼の虜ね」
ジュディアナは昨日の出来事を思い出した。
図書室での不思議な出会い。紳士的な態度。そして、窓の外で見ていたアレクシス様。
「まさか、関係ないわ」
「そう?」
ヴィオラは肩をすくめた。
「でも、あの伯爵、あなたに特別な関心があるみたいよ」
「どうして?」
「講演の後、何人かの学生に質問されてたの。その中で、あなたの名前を出してたから」
ジュディアナは動揺を隠せなかった。
なぜ自分のことを?初対面だというのに。
「それより」
ヴィオラが腕を組んだ。
「アレクシス様の授業、どうするの?」
「どうするって・・・」
「あなた、基礎魔法すらまだなのに」
言われなくても分かっている。
ジュディアナは肩を落とした。
「でも、頑張るしかないわ」
***
実技教室は緊張感に包まれていた。
アレクシス・フロストグレイ教授の授業は、通常上級生のみが受けられる特権だった。
「今日から担当する、フロストグレイだ」
教壇に立つアレクシスは、凛とした佇まいで学生たちを見渡した。
銀色の髪、透き通るような青い瞳。その存在感に、教室中が息を呑む。
ジュディアナは後方の席で、小さく身を縮めていた。
「基礎から見直す。まずは水の具現化から」
アレクシスは杖を振った。
空気中から水が集まり、美しい球体となって宙に浮かぶ。
「水は全ての基本。これが操れなければ、他の魔法も覚束ない」
その言葉に、ジュディアナは顔を伏せた。
自分に向けられたものだと感じたからだ。
「各自試してみろ」
教室中で杖が振られる。
次々と水の球体が現れ始めた。
ヴィオラの前には、すでに完璧な水の球が浮かんでいる。
「ジュディ、大丈夫?」
ジュディアナは震える手で杖を握った。
(できるわけない。でも、アレクシス様の前で・・・)
彼女が杖を振ると、予想通り何も起こらなかった。
空気が少し揺れただけ。
「セントクレア嬢」
突然名前を呼ばれ、ジュディアナは飛び上がりそうになった。
アレクシスが彼女の机の前に立っている。
「は、はい」
「杖の持ち方が違う」
冷静な声で、アレクシスは指摘した。
教室中の視線が、二人に集まる。
「こうだ」
アレクシスはジュディアナの手を取り、杖の持ち方を正した。
その瞬間、不思議なことが起きた。
アレクシスの手から、冷たい気配が伝わってくる。
同時に、ジュディアナの杖の先から、小さな水滴が浮かび上がった。
「え?」
ジュディアナは目を見開いた。
自分の魔法で水が生まれたのは初めてだった。
アレクシスも明らかに驚いた様子だったが、すぐに表情を元に戻した。
「そう、それでいい。続けろ」
彼が手を離すと、水滴はすぐに消えてしまった。
ジュディアナは再び杖を振ったが、もう何も起こらない。
(今のは、なんだったの?)
教室の後方で、アーデント伯爵が興味深そうに見つめているのに気づいた。
いつの間に来ていたのだろう。
アレクシスもそれに気づき、一瞬目が合った。
二人の間に、火花が散るような緊張感が流れる。
「授業の見学ですか、アーデント伯爵」
アレクシスの声は冷たかった。
「ええ、隣国の教育方法も参考にしたくて」
アーデントは優雅に微笑んだ。
「特に、セントクレア嬢の才能に興味がありまして」
その言葉に、教室中がざわめいた。
魔法が使えないことで知られるジュディアナに、才能?
アレクシスの表情が一瞬硬くなる。
「授業の邪魔はしないでいただきたい」
「もちろん」
アーデントは軽く頭を下げた。
「ただ、令嬢の持つ可能性を、私なら引き出せるかもしれません」
その言葉に、教室の温度が急激に下がった。
窓ガラスに霜が走り、学生たちの息が白くなる。
「閣下、」
教室の入口に現れたルークが、静かに声をかけた。
「お時間です」
アレクシスは深く息を吸い、教室の温度を元に戻した。
「今日はここまで。次回までに基礎練習を続けておけ」
学生たちが退室する中、ジュディアナはまだ自分の手を見つめていた。
あの一瞬、確かに魔法が使えたのだ。
***
「ジュディ、あれはなんだったの?」
教室を出たところで、ヴィオラが興奮した様子で尋ねた。
「わからないわ。アレクシス様が触れた時だけ・・・」
「まるで、彼の魔力があなたを通して」
ヴィオラは考え込むように言った。
「セントクレア嬢」
振り返ると、アーデント伯爵が立っていた。
「素晴らしい才能の片鱗を見せていただきましたね」
「才能なんて、私には」
「いいえ」
アーデントは真剣な表情で言った。
「あなたの中には、誰も気づいていない特別な力が眠っています」
「特別な・・・力?」
「はい。それは魔法を生み出すのではなく」
アーデントは意味深に微笑んだ。
「増幅する力です」
ジュディアナは言葉を失った。
増幅?そんな魔法があるのだろうか。
「明日、私の特別講義があります。ぜひ参加してください」
アーデントは紙片を差し出した。
「あなたの才能について、もっとお話ししたい」
ヴィオラが警戒するように前に出る。
「伯爵、失礼ですが、なぜジュディに興味を?」
「それは」
アーデントは遠くを見るような目をした。
「彼女が、この国の未来を変える鍵だからです」
その言葉を残し、アーデントは廊下の向こうへ消えていった。
「ジュディ、彼の言うことを簡単に信じないで」
ヴィオラは心配そうに言った。
「私、あの伯爵について調べてみるわ」
ジュディアナはただ頷いた。
頭の中は混乱していた。
アレクシス様との接触で起きた不思議な現象。
アーデント伯爵の謎めいた言葉。
そして、自分の中に眠るという「特別な力」。
(本当に、私には何かあるの?)
窓の外を見ると、中庭でアレクシスとアーデントが向かい合っていた。
二人の間には、明らかな敵意が感じられる。
「どうして、こんなことに・・・」
ジュディアナの手は、まだアレクシスの冷たい感触を覚えていた。
そして、あの一瞬だけ現れた、自分の魔法の感触も。
***
「久しぶりだな、アーデント」
中庭で、アレクシスは冷たく言った。
「ええ、五年ぶりでしょうか、フロストグレイ」
アーデントは余裕の表情を崩さない。
「相変わらず、氷のように冷たい方ですね」
「何の目的だ」
「目的?」
アーデントは無邪気に首を傾げた。
「魔法交流ですよ。それだけです」
「ジュディに近づくな」
その言葉に、アーデントは意味ありげに微笑んだ。
「彼女のことを、ジュディと呼ぶのですね。意外と親しいのですか?」
アレクシスの周囲の気温が下がる。
「私の婚約者だ」
「ああ、そうでしたか」
アーデントはため息をついた。
「しかし、彼女の才能に気づいていないのは、残念なことですね」
「何を言っている」
「彼女は特別な才能を持っています」
アーデントの瞳が真剣な色を帯びた。
「・・・魔法増幅の才能です」
アレクシスは一瞬、言葉を失った。
魔法増幅。古文書でしか読んだことのない、魔法史に埋もれた希少な能力。
「でたらめを」
「嘘ではありません」
アーデントは静かに言った。
「今日の授業で、あなたも感じたはずです。彼女に触れた時、魔力が増幅されるのを」
アレクシスは黙った。
確かに、あの瞬間、自分の魔力が増幅されたような感覚があった。
「彼女の才能は、正しく導かれるべきです」
アーデントは続けた。
「そして、それは私にしかできない」
「何故だ」
「私の国には、彼女のような才能を持つ者の記録があります」
アーデントは静かに言った。
「彼女の母方の血筋に関する記録も」
アレクシスの表情が変わった。
ジュディの母は隣国の出身だった。若くして亡くなったため、ジュディ自身もほとんど記憶がない。
「彼女を守りたいなら」
アーデントは言葉を選ぶように続けた。
「彼女の才能を正しく導くべきです。さもなければ・・・」
「さもなければ?」
「制御できない力は、持ち主を滅ぼします」
その言葉を残し、アーデントは立ち去った。
アレクシスはその背中を見つめながら、拳を強く握りしめた。
(ジュディ、お前の中に眠る力とは・・・)
遠くの窓辺に、ジュディアナの姿が見えた。
彼女もまた、中庭を見つめていた。
二人の視線が交差する。
今度は、ジュディアナは目をそらさなかった。
(守ってみせる。どんな犠牲を払っても)
アレクシスはそう誓った。
だが、どこか心の奥で、自分の力だけでは足りないという不安が芽生え始めていた。