1.魔法が使えない私
「駄目ね、また失敗・・・」
王立魔法学院の実技教室で、私は小さくため息をつく。机の上に置いた花瓶は、魔法で水を満たすという簡単な課題のはずが、一滴も水を生み出せないままだ。
「花瓶に水を満たす、基礎中の基礎の魔法なのに――」
周囲では水の魔法が次々と成功している。透明な水が空中を舞い、まるで生き物のように踊りながら花瓶へと注がれていく。歓声と拍手が教室に響く。
「すごいわ・・・!」
「なんて美しい魔法」
私は手の中の杖を強く握りしめた。理論は完璧に頭に入っている。魔力を集中させ、杖を介して水の元素を具現化する。これだけのことなのに、どうして私は――。
(アレクシス様なら、一瞬でできるのに)
「ジュディ、まだできないの?」
声の主は、金色の長い巻き毛を優雅に揺らしながら、ヴィオラ・ブライトンが近づいてきた。公爵家の次女である彼女は、私の幼なじみで親友。そして、魔法の才能も社交性も申し分のない優等生だ。
「待たせてしまってごめんなさい、ヴィオラ。私、やっぱり魔法の才能がないみたい」
「まあ、そんなことないわ。ほら、こうよ」
ヴィオラは軽やかに杖を振る。透明な水が美しい弧を描いて空中を舞い、花瓶に注がれていく。まるで踊っているような優美な魔法に、教室中から歓声が上がった。
「素敵な魔法ですね、ブライトン令嬢」
教授が満足げに頷く。「セントクレア令嬢も、もう少し頑張りましょう」
私は小さく頷いた。専門課程も残り半年。卒業までに最低限の魔法は使えるようにならなければ。
それに――。
(このままじゃ、アレクシス様の婚約者として恥ずかしい)
幼い頃に決まった婚約。氷の魔法使いとして名高い、アレクシス・フロストグレイ閣下。二十歳で王立魔法学院の教授という、前代見聞きない才能の持ち主。
昔は、私の拙い魔法の練習にも付き合ってくれた。庭園で氷の蝶を作って見せてくれた、優しい婚約者。
でも今は――教授という立場で、天才という肩書で、私とは違う世界の人になってしまった。
「ジュディ、今日も放課後、図書室で勉強する?」
物思いに沈む私に、ヴィオラが心配そうに覗き込んでくる。
「ええ、ありがとう。でも今日は一人で」
ヴィオラは何か言いかけたが、結局小さく肩をすくめただけだった。
***
放課後の図書室は静かだった。
窓から差し込む夕陽に照らされて、埃が金色に輝いている。
私は魔法理論の基礎を開き、ため息をつく。どれだけ理論を学んでも、実践になると全く魔力が動いてくれない。
(このままじゃ、アレクシス様に申し訳ない)
幼い頃から、アレクシス様は私のことを気にかけてくれた。でも、それは同情だったのかもしれない。魔法が使えない婚約者への。
窓の外に目をやると、中庭を歩く人影が目に入った。
凛とした佇まい、氷のように透き通った銀色の髪。アレクシス様だ。
思わず息を呑む。
横には、いつものように側近のルーカス様が付き添っている。
(やっぱり、素敵な方・・・私では不釣り合いね・・・)
私の胸が切なく締め付けられる。
幼い頃に決まった婚約とはいえ、こんな私が相手として相応しいはずがない。
アレクシス様が顔を上げた瞬間、視線が合ってしまう。
私は慌てて本に顔を伏せた。動悸が収まらない。
「きゃっ!」
慌てた拍子に、机の上の花瓶が傾く。
水がこぼれ、開いていた本を濡らしてしまった。
(ごめんなさい、図書室の本なのに・・・)
拭き取ろうとしたその時。
本の水滴が、ゆっくりと宙に浮かび上がった。
「え・・・?」
私の魔法?でも、そんなはずは――。
顔を上げると、窓の外で杖を構えるアレクシス様と目が合った。
***
本は無事だった。
けれど、アレクシス様にまた迷惑をかけてしまった。
「申し訳ありません・・・」
誰もいない図書室で、彼には聞こえないとわかっていたが、思わず呟く。
窓の外では、アレクシス様がルーカス様と何やら話をしている。
その横顔は、いつも通り整っていて、近寄りがたいほどに凛々しい。
昔から、私の心をときめかせる存在だった。
(でも、きっとアレクシス様にとって、私なんて・・・)
「美しい花が悲しい顔をしている理由をお聞かせいただけますか?」
突然声をかけられ、私は飛び上がりそうになった。
振り向くと、見知らぬ紳士が立っていた。
黒い髪に琥珀色の瞳。どこか異国的な雰囲気を漂わせている。
その立ち姿には、生まれながらの貴族としての気品が感じられた。
「失礼、自己紹介が遅れました。クロード・アーデントと申します。隣国からの視察で参りまして」
「あ、はい・・・ジュディアナ・セントクレアと申します」
伯爵は紳士的な笑みを浮かべると、私の手を取って軽くキスをした。
「噂には聞いていましたが、本当に愛らしい方なのですね」
「え?」
突然の出来事に戸惑う私の背後で、窓ガラスが軋むような音を立てた。
振り向くと、窓の縁に薄い氷が張り始めているのが見えた。
「あの、申し訳ありません。そろそろ失礼させていただきます」
私は慌てて荷物をまとめ始めた。
アーデント伯爵は残念そうな表情を浮かべる。
「これから毎日、学院に参りますので。また、お話しさせていただけますか?」
「え、ええ・・・」
曖昧な返事をして、私は図書室を後にした。
廊下に出ると、冷たい風が頬を撫でる。
(アレクシス様の魔法?)
でも、振り返る勇気はなかった。
早足で寮へと向かう。
***
寮の自室に戻り、窓辺に立つ。
夕暮れの空が、茜色に染まっていた。
今日も魔法は使えなかった。
今日も、アレクシス様には迷惑をかけてしまった。
そして、見知らぬ伯爵にまで気遣わせてしまった。
けれど――
「私には、魔法が使えないのに」
夕暮れの部屋で、私は小さくつぶやいた。
明日も、明後日も、きっと同じ。
(このままじゃ、いけない)
胸の奥で、小さな決意が芽生え始めていた。