桜の花の咲くころに
短いのですぐに読めると思います。オチは2つありますので、探してみてください。
桜の花びらが舞い散る頃、彼は毎年、あの恩師のことを思い出す。自分の人生を救ってくれた、高校時代の恩師。
目の前を通り過ぎる満開の桜が、あの頃の自分と重なり、記憶の扉が静かに開かれていく。
彼が通っていたのは、地元の定時制高校だった。
病弱な母は働くことができず、妹はその家の厳しい現実を理解するにはまだ幼すぎた。
彼は家族を支えるため、昼間はアルバイトに明け暮れ、夜は学校へ通った。
高校卒業の資格を得るため、疲れた体に鞭を打ちながら、毎日をなんとか乗り切っていた。
だが彼一人の収入では、家族の生活を賄うには到底足りず、生活は限界ギリギリまで追い詰められていた。
特に給料日前には、空腹に耐えながら、妹には気づかれないよう食べ物を譲る日々が続いた。
そんな彼の人生を揺るがす出来事があったのは、ある日のことだった。
給料日前のその日、彼はアルバイトを終え、空腹を抱えたまま授業を受けた。
授業が終わり、宿題を提出するために職員室に立ち寄った時、ふと机の上に一つの饅頭が置かれているのを見つけた。
甘い匂いが空腹の彼を誘うようだった。
彼は無意識のうちに手を伸ばし、気がついたときには饅頭を頬張っていた。
食べ終わった瞬間、彼は現実に引き戻された。自分が窃盗を働いてしまったことに気づき、冷たい汗が背中を伝わるのを感じた。
さらに悪いことに、その饅頭が置かれていたのは、生活指導の武藤先生の机だった。
武藤(無糖)の名の如く、彼には一片の甘さもなく、規律に対して異常なほど厳しかった。
生徒の些細なミスを見つけては、退学に追い込むことを楽しんでいるかのようにすら見える、恐れられた存在だった。
そして、彼が饅頭を食べ終えたその瞬間、武藤はすでに彼の背後に立っていた。
「お前、何をしているんだ?」
低い声で問いかけられ、彼は震える声で言い訳をしようとしたが、言葉が出てこなかった。自分がしたことの重大さに震えていた。
他人のものを盗んだ。それは退学を意味する。それまで積み重ねてきた全てが無駄になる。その絶望が彼の心を覆った。
その時、静かに一人の教師が現れ、彼と武藤の間に立ちはだかった。
「すみません、その饅頭、私が食べちゃったんです」
教師は穏やかに微笑みながら言った。
それは担任の加藤先生だった。
加藤(加糖)の名の通り、性格は大甘で、授業中に居眠りしてもおしゃべりをしても、ほとんど注意をしない。
彼を含めた全生徒が、内心でこの先生を馬鹿にしていた。
武藤は眉をひそめ、詰め寄るように言った。
「いや、加藤先生。こいつが私の饅頭を食べたんです。人のものに手を付けるなんて、人として絶対にあってはならないことです。しっかり指導します」
しかし加藤先生は毅然とした態度で返した。
「私が食べたと言っているんです。それでいいでしょう。明日、同じものを買ってきますから。」
その言葉は柔らかかったが、決して揺るがないものがあった。
武藤は加藤先生の目をじっと見つめ、何も言わずその場を去った。
退学の危機を免れた安堵からか、彼の目には涙が溢れていた。
「先生…」と、感謝の言葉を絞り出そうとしたが、声にならなかった。
そんな彼の肩に、加藤先生はそっと手を置き、静かに言った。
「何も言わなくていい。いつも家族のためによく頑張っているな。その苦労は必ず報われる。だから今は頑張れ。」
その言葉を聞いた瞬間、彼の涙は止まるどころか、さらに溢れ出した。
いつも無関心に見えた加藤先生が、自分をしっかり見てくれていた。
その事実が胸の奥深くに突き刺さった。
そして彼は、普段は優しく穏やかな加藤先生が、いざという時には毅然とした態度で問題に立ち向かう姿を見て、大人としての本当の強さとは何かを知った。
そして彼は無事に高校を卒業した。
今ではぎこちないスーツ姿ではあるが、立派な社会人として家族を支えられるようになった。
自転車で会社へ向かう朝の桜並木を走るたび、卒業式の日の記憶が蘇る。
あの日、恩師に向かって、涙を流しながら歌ったあの歌が、自然と口をついて出た。
「仰げば尊し、和菓子の恩…」
桜の花びらが風に舞い、頬にそっと触れる。
その瞬間、恩師の温かい微笑みと、優しさの裏に秘めた強さが、尾藤の胸の中で再び舞い散るのだった。
<おわり>