始まりの出会い
翌朝
「……ま、……さま、……ラさま、ヴィオラ様!」
エマのはっきりとした声が聞こえてきた。
朝日がカーテンの隙間から差し込んできて眩しい。
昨夜、そのままアトリエで寝てしまったか、変な体勢で寝たから体が痛い……。
「エマ、おはよう」
「おはようございます。もう、寝るなら窓辺じゃなくて、ベッドで寝てくださいよ〜。しばらく仕事がないとは言えども、体が資本なんですから、大事にしないと」
重たい瞼を擦りながら、エマの小言を聞き流した。
「朝食ができましたから、後で来てくださいね」
「ん……」
やはり、昨日のことは夢だったのか。私は、凝り固まった体をほぐしながら記憶を思い出した。
たまにアトリエで寝ると変な夢を見ることがある。昔の記憶だったり、突拍子もない非現実的な夢だったり、脈絡もない夢を見るのだ。アトリエには色んな資料が集まっているから、頭の中がカオス状態になっているのかもしれない。
きっと、夢だったんだ。
私はそう思うことで、これ以上ルーカスについて考えることをやめることにした。
「ヴィオラ様、今日はどうします??」
朝食を食べ終わって、新聞を眺める私にエマが声をかけた。
「んー。そうねぇ、新しい画材でも買いに行こうかしら、戦争が終わって、交易が盛んになってきたでしょ?もしかしたら、珍しい染色料でも買えるかもしれないから、久しぶりに家を出て買い物にでも行きたいわ」
「はい!早速準備しましょう!」
良かった。エマはいつも通りだ。昨夜のことについて何も話してこない。
ん?これは本当に夢だったのでは?
疑問符が徐々にとれかかってきたように感じた。
町を歩くと昨日と一変して、人々が町を行き交い、商いをしていた。私が住んでいる街は海に近く、市場が常に盛況である。
昨日は、帰還式で町中の人が、店を閉めて大通りに出ていたから、市場は珍しく静まりかえっていたのだ。
まるで昨日と違う光景に、ますます、昨日が幻のような錯覚に陥った。海辺の風が、頬をかすめて昨日のことを忘れさせてくれるようだった。
「こんにちは」
画材屋の扉を開けて、私は馴染み顔のクルトさんに声をかけた。
クルトさんはルーカスの叔父で、私が肖像画家を始める前から私の面倒をよく見てくれた人だ。
* * *
11年前
「クルトおじさん!こいつに絵を教えてやってくれ!」
8歳のルーカスは私の腕を引いて、クルトさんの前に立った。
毎日のように遊んでいたルーカスが、私の絵を見て唐突に、知らないおじさんの前に私を連れてきた。その頃の私は人見知りが激しく、家族とルーカス以外の人とは話すことも愚か、目すらも見ることができなかった。
だから、私は初めてクルトさんの顔を見てすぐに俯いて、ルーカスの袖を掴んだ。
きっと涙目だったのだろう、クルトさんの険しい顔はより一層険しくなった。
「俺は、子守りなんかやらん。仕事も忙しいんだ、ほら、早く外で遊んでこい」
「いやだ!!!!!」
ルーカスは細く、小さな体に見合わず大きな声を出した。
クルトさんの瞳が大きく開かれた。
「お願いだ!!クルトおじさん!こいつに絵を教えてくれ!!こいつ、きっとすごい画家になると思うんだ!!お願いおじさん」
こんなに大きな声を出すルーカスを初めてみて、私はびっくりした。
振り返っても、あんなに必死なルーカスを見たのはその時だけだった。
「ほう。そんなに大口叩くなら絵を見せてくれ」
クルトさんが白い髭をさすりながら、吟味するように私を見た。
私は逆らえるわけもなく、渋々絵をクルタさんに渡した。
沈黙の時間が流れた。振り子時計の音だけが店内に響いた。私はドキドキしながら、手汗をびっしりかいた手でルーカスの繊細で、冷たい手を握っていた。
ふぅ、とクルタさんが息を吐いた。
私はびくりと肩を震わせた。
(何を言われるんだろう……つまらない絵?面白くない?気持ち悪い?)
「ほほう、これは面白い」
この言葉で心臓がバクバクしていた私はハッとしてクルトさんの目を見た。
「すごいな。これは、本当に君が描いたのかい?」
私は激しく、首を縦に振った。
「言っただろ!ヴィオラは天才画家になれる才能があるはずだ」
ルーカスが自慢気に言った。
「ヴィオラというのか!はは、こりゃすごいぞ!帝国中の美術の歴史を変える逸材だ!よし、俺が絵を教えてやる!明日からここに来い」
クルトさんは愉快そうに髭をさすった。
その様子を見てルーカスは真っ赤な私の顔に向かって「やったな」と言ってはにかんだ。
そこからクルトさんに教えてもらいながら、私の絵の技術は上達していった。
クルトさんの家にあるたくさんの美術にまつわる教科書と資料、画材を自由に使わせてもらいながら、クルトさんから直接指導してもらった。
聞くところによればクルトさんはかつて宮廷画家として働いていたそうだ。
宮廷画家は王や貴族たちから直接依頼を受けて描く言わばお雇い画家たちのことである。腕が認められないと宮廷画家にはなれず、多くの画家の中でも僅かな人しかいない。
私はそんな優れた師を持ったことでますます絵にのめり込んでいったのだ。
* * *
「久しぶりです、クルトさん。最近、なかなか顔を出せずにいてすみません」
「おお、ヴィオラじゃないか!久しぶりだなぁ。色んなところでヴィオラの噂は聞いてるよ。仕事が降るようにやってくるだろ。忙しいのも無理はない、エマも久しぶりだな」
エマは大先輩の画家であるクルタに緊張気味に挨拶をした。
「それで、今日はどうしたんだ?」
「それが、新しい画材でも入っていないかと思いまして……」
クルトさんはこの国一番の目利きの画材を取り扱っている。だから、クルトさんの店に行けば安心して画材が買えるはずだ。
「そうかそうか……そうだな……」
クルトさんが店の裏に行って何やらゴソゴソと探している。何やら私に渡したいものでもあるようだ。
「あったあった、東洋の方から手に入れた顔料なのだが、これはノリと混ぜて使うらしいんだ。この国では見られない色だろ?これをヴィオラに薦めたくてね。極秘で入手したんだ」
「これは!……ヴィオラ様、すごく繊細で美しい色ですね…」
息を止めるようにエマが色に見入っている。エマも息を呑むのも当然で、その顔料は帝国では見たことのない緑色である。
「試してみてもいいですか?」
「ああ、もちろん」
クルトさんはノリに粉末状の顔料を混ぜ合わせ、筆に馴染ませた。
私がその筆を紙に乗せた瞬間、じゅわりと色が広がり、鮮やかな澄んだ緑色に近い色が紙上に現れた。
「これは……」
かつて見たことのない顔料であるはずなのに、どこか懐かしさを感じる色であった。
少し、長くなってしまいました…が、どうしても書きたい話でした汗