異世界学院の頂上を目指そう6
本当に僕は何も持っていなかった。
異世界に持ち込んだものと言えば、その身体に纏った衣服とポケットに入った小物くらい。
お金がなく、食べるものがなく、住む場所がなく、戸籍もなく、当然のように生活の保障なんてなかった。
しかし、もう違う。
副業に近いものとはいえ、僕は職を得たのだ。
仕事があり、対価として報酬を得られるようになった。
それは人間らしい生活を取り戻したということであり――今日も僕は、僕を雇ってくれている主人カラミア・アレイス様のために全力を尽くす。
「カナミ君、飲み物を頂けますか?」
「はい、ただいま」
エルトラリュー学院の敷地内にある中庭の一つ――高位の貴族しか踏み入ることのできない空間で、僕はテーブルに座って勉学に励む主人のために、持ち込んだ魔石造りのポットを使って熱い紅茶をカップに注いでいく。
「カラミアお嬢様。本土から取り寄せた紅茶です」
勉強の邪魔にならないように、そっと後ろから主人の手元に置く。
「相変わらず、早い。……カナミ君は本当に器用ですね。この一ヶ月のあなたの執事っぷりに、私はちょっと驚いています」
いかなるときもクールを信条としているカラミア様が、用意された紅茶のカップを口につけながら滅多に見せぬ表情をつくる。
しかし、彼女が言うほど器用なことをしているつもりは僕にない。
自分にできることを、ミスなく迅速に行っているだけだ。
ただ、言われて見れば、この異世界に来てから身体の調子がよく、身体がスムーズに動く気がしないでもないのだが……。
「昔、こういったことを仕事にしていたことがありましたので。ただの慣れだと思います」
「昔に? へえ、そうなのですか……。それは意外です……」
元の世界での接客アルバイトの経験のおかげだろう。
そう素直に答えると、またカラミア様は驚いた表情を見せた。
そして、カラミア様は思い出したように僕にとって最も重要なことを報告してくれる。
「ああ、前に言っていた研究開発費のことですが、すぐに増額してあげます。その器用さで、どんどん新商品を開発するように。よろしくお願いしますね」
いまカラミア様は僕の雇い主であり、僕の作る『魔法道具』のスポンサーでもある。
もう何から何まで至れり尽くせりで、彼女の下についてからお金で困った記憶がない。
三食食べられて、布団で寝られて、教科書も衣服も欠かしたことがない。
ああ、素晴らしい。
人並みって本当に素晴らしい。そりゃ、ちょっと殺し合った女の子相手でも『カラミアお嬢様』と呼んでしまう。一生様付けでもいい。
「ありがとうございます。カラミアお嬢様のため、より一層頑張りますね」
「……ええ。これからも私のため、精進してください」
お嬢様は顔を背けてから、軽く激励する。
こうして、僕たちの学院生活のお昼休みは過ぎていく。
これがここ一ヶ月の僕の生活であり、仕事風景だ。
お嬢様との決闘を終えたあと、例の契約書にサインをして、ずっとこの調子だ。
あと、僕とカラミア様の後ろ――庭の隅っこで僕の仕事ぶりを見る友人たちも、ずっと変わらない。
「うわあ、今日もですか……。アニエスさん、なんなんすかあれ……」
「ライナー君、よく見てごらん。あれがヒモって言うんだよ。いや、まさか本当に上位陣の女の子を落としちゃうなんて……。ほんと最高。助言した甲斐があったよ」
「あれがヒモですか。確かに先輩って、女たらしっぽいところありますね。最低です」
ヒモじゃねえよ。働いてるだろ。
これはアルバイト――仕事だっての。
なぜか、毎日のように謂れもない中傷を受けている僕だった。
しかし、ここは我慢だ。ここであの挑発に乗ってしまえば、友人たちの思う壺だ。
まず間違いなく、アニエスは面白半分でアクシデントが起きるのを期待して待っている。
もう、やつを楽しませる義理など僕にはない。
いまやアニエスに頼らずとも、僕は一人で生活できるのだから。
「カナミ君、どこを見ているのですか?」
そこで雇い主から注意が入る。僕が後方に集中していたのに気づいたようだ。
「す、すみません」
「仕事の間は集中するように。あなたは私の執事になると契約しました。ずっと私を見て、ずっと私のために働くのです」
「もちろん。カラミア様の安全は、僕が守って見せます。それが僕の仕事ですから」
「……そうです。それがあなたの仕事です」
その一言を最後に、急にカラミア様は立ち上がり、足早に庭から出て行く。
その後ろを僕はついていく。
――午後の授業が始まる。
授業が終わったあとは、生徒会長のカラミア様だけが任された学院運営の活動。
それが終われば、個人的な自主練習に勉強時間。
はっきり言って、年頃の少女には相応しくない過密なスケジュールだ。
そのスケジュールの中、『学院決闘序列』の仕組みを利用して決闘を申し込んでくる輩がちらほらといた。
その立場上、カラミア様は決闘を断りきれないことがある。
この忙しい中、問答無用で決闘の時間を作らなければならないのは、はっきり言って理不尽な話だ。
一ヶ月前、僕のところへ彼女が八つ当たりをしにきた理由が少しだけわかった。
ゆえに僕は、少しでも彼女の負担を軽減しようと、一歩前に出て挑発を行う。
「ここは僕にお任せを。お嬢様が出るまでもありません」
どこかの漫画に出てくるような安い台詞と共に、かれこれもう二桁に突入する決闘の代行を行う。
「ありがとう、カナミ君。それでは、お任せしますね」
そして、僕の懐事情を誰よりも知っているカラミア様は、笑顔で決闘を譲ってくれ、後ろで見守ってくれる。
代行とはいえ、勝利すれば『学院決闘序列』のシステムでお金が入る。
つまり、仕事で定期的な収入を得ながらも、決闘で臨時的な収入も得られるのだ。
もうほんと執事最高である。カラミア様最高である。
一生ついていこうと思いかけるほどである。
こうして、僕は潤沢な資金で魔法道具を使い、レベル1ながらも学院の中堅層たちを撃退していく。
勝利したあと毎度、主人であるカラミア様は執事の僕を褒める。きっちりと部下の苦労を労う有能な雇い主様だ。
「流石です。信じてましたよ、カナミ君」
「もったいないお言葉です」
それに有能な執事っぽく答えて、僕は一礼をする。
その姿を見て、カラミア様はくすくすと笑う。
これも毎度のことだ。いまや、僕たちに殺し合いをした頃の名残はない。そして、今日も執事としての一日が終わろうとする。ただ、今日はいつもと違い、別れ際に呼び止められてしまう。
「ああ、そういえば、カナミ君。今度の休日なのですが、一度実家に戻ろうと思っています。……その、カナミ君も執事として来てくれませんか? カナミ君は魔法道具の研究がしたいと思いますが、お爺様がカナミ君に興味あると言っていましたので……」
「え、休日にですか……?」
「駄目ですか?」
正直、時間がもったいないと思う。
いま僕の魔法道具作成活動は佳境に入っていて、あと少しで迷宮を探索できるほどの装備が完成するのだ。
ただ、カラミア様のお爺様――例のアレイス家の『剣聖』が僕に興味があるというのは、とても魅力的な話だ。
『剣聖』という単語に惹かれる以上に、剣術を少しでも教われたら大収穫だ。
僕が予定している迷宮探索最大の課題は近距離戦だ。
その問題が解消すれば、安全に迷宮でのレベル上げが可能になる。
そう考えると、カラミア様の実家にお邪魔するのは、そう悪い話ではない。
「いえ。喜んで、同行させてもらいます」
「ああ、よかった……。カナミ君、今度の休日は楽しみにしてください。それでは――」
カラミア様は胸をなでおろし、そそくさと走り去っていく。
今日も主人のために仕事をしたなあと、執事の仕事に満足していると、また後ろからひそひそと話し声が聞こえてくる。
「ライナー君、どう見る? あの馬鹿カナミ、気づいてないよね……」
「はい、先輩は気づいていませんね。正直、笑いを堪えるのが大変です」
「さっきからうるさい」
主人がいなくなったので、堂々と無駄に高レベルな隠遁術を見せる友人たち二人に文句を言う。
「いやあ、だってカナミが滅茶苦茶面白いんだもん」
「アニエス先輩の言うとおりです。はっきり言って、このクソみたいな学院生活で先輩は癒しですね。見てて、ささくれていた心が癒されます」
「どこが面白いんだ? 普通に執事してるだけだろ」
まるでピエロとして見られているかのような評価を得て、僕は眉をひそめる。
それに、やれやれといった様子で、アニエスが理由を答えていく。
「だってだってさ。このままだと、アレイス家に永久就職だよ? めっちゃ笑える」
「へ?」
えいきゅうしゅうしょく……?
「先輩は貴族の女の子の独占欲を舐め過ぎです。ああいう類は、手段を選ばずに欲しいものは手に入れようとします。うちの姉がそうなので、間違いありません」
「そもそも、あれだけ会長には取り巻きがいたのにさあ、最近は二人きりばっかりになってるでしょ? それを不思議に思わないの?」
言われて見れば確かに、今日も二人きりだった。
最初の頃は、他の侍女さんや学生の取り巻きが一杯いたのに……。確かに不自然だ……。
え、それはつまり……? この一ヶ月でカラミアさんが僕を好きになりかけているということなのか……? まじで?
いや、そんな馬鹿なことはあえりない。
そもそも、僕と彼女の地位が違いすぎる。
雇ってくれるとき、ただの『友人』であると念を押されたほどだ。
この一ヶ月の間、特にそう思えるようなこともなかった。
あったことと言えば――子供のような純真な目で「支配者になりたい」と学院支配計画を語り続けるお嬢様を翌朝まで見守った結果、「この話を最後まで真剣に聞いてくれたのは、カナミ君が初めてです」と嬉しそうに言われたことくらいか――という話をアニエスにすると、一歩後ずさられてしまう。
「た、たった一ヶ月で、どれだけステップ進めてんの……? そりゃ、ことあるごとに会長が真っ赤になって顔を背けるわけだ……。家にだってお呼ばれするわけだ……。これがプロのたらしかあ……。怖いなー……」
その情報で疑いが確信に変わったようだった。
慄くアニエスに、ライナーも続く。
「なるほど。カラミア様は先輩を執事として一生飼い殺すのが目的かと思っていましたが、こうなるとこれはもう――行くとこまでいっちゃいますね。あの『剣聖』様に紹介するほどですから、そりゃもう行けるとこまで行きそうです」
二人は間違いないと、うんうんと頷き合った。
「…………っ!!」
その二人の反応を見て、僕は取り返しのつかないところまで来ていることにようやく気づく。
そして、次の休日で、僕も確信するのだ。
なにせ、僕は『剣聖』様と呼ばれる恐ろしく偉いお爺さんの前で、「彼が私の恋人です」と紹介されることになるのだから――
いちゃいちゃ!