ありがとうと言わない男
彼は、決してありがとうとは言わなかった。
道を譲られても、何かを贈られても、ありがとうとは言わなかった。
人は男にたくさんの施しをした。
それでも彼は、ありがとうと言わなかった。
あるとき誰かが尋ねた。
「なぜ、ありがとうと言わないのですか」
男は至って平然と答える。
「ありがたいと思わないからです」
そんな男の答えに、人々は辟易とした。
男には地位も名誉も、資産もあった。
愛しい家族もいた。子供だっていた。
彼はいつも子供に言い聞かせる。
「ありがとうを軽々しく口にするな」
「お父様、しかし、それでは人は疲れてしまいます」
男は、反論した言葉を頭ごなしに否定しなかった。
しかし、それでも考えを変える様子はなかった。
そんな男の行動に、誰しもが首を傾げ、嫌味を言った。
「ありがとうさえ言えれば、いい人なのにね」
それでも男は、ありがとうを言わなかった。
そうして一人、また一人と男から人は離れて行った。
最初は子供。次に妻。使用人も二人ほどいなくなったが、男は気にも留めなかった。
ある時、男の前を通りかかった旅人が質問をした。
「なぜ、ありがとうを言わないのですか」
「ありがたいと思わないからです」
何度も聞かれた言葉に、一言一句違わず返答する。
しかし、旅人はさらに質問を繰り返した。
「では、なぜありがたいと思わないのですか?」
男は首を傾げた。
ありがとうを言わない理由を聞かれたことはあっても、ありがたいと思わない理由を、考えたことがなかったのだ。
「はて、何故でしょう」
「それは貴方が、それを当たり前だと思っているからではありませんか?」
そんなわけはない、と否定しようとして。
男は口籠った。
本当にそうだろうか?
自分は、なんでもしてもらって当然だと思っていなかっただろうか。
「しかし、本当に大切な時にありがとうを伝えるべきだ」
口から漏れ出た言葉はそんなもの。
旅人はニコリと笑って、背中の荷物を背負い直した。
「ありがとうは、幸せの魔法ですよ」
「心のこもっていない、ありがとうでも?」
「なら、すべてに感謝を持てばいいのです。ふふ、お話を聞かせてくれて、ありがとうございました」
不思議な旅人だ、と男は旅人を見送った。
しかし、どうにも旅人の言った言葉が気にかかった。
それに、旅人の残した「ありがとう」には、流石の男も心が篭っていない、とは思えなかった。
ありがとうは、幸せの魔法。
男の脳裏には、その言葉が焼きついた。
そして、物は試しに使用人を呼び止める。
「ありがとう」
「ご、ご主人様?」
眉を潜め、困惑した表情のまま、使用人は霧吹きを落とす。
あわあわとした様子に、男は心に何か温かいものを感じた。
何故だろう。今まではそんなことは思わなかったのに。
その謎は消えないまま、男は散歩に繰り出した。
空気が新鮮で、木々も風と遊んでいる。
そんな田園風景を進みながらも、男はあることに気付いた。
木々の一本に、赤い風船が休んでいた。
「うわーん、風船取れないよー!」
木の根本にはえんえんと大口で涙を零し続ける少女の姿があった。
なるほど、と男は思う。あの風船は少女の手から離れ、悪戯をしているらしかった。
男はおもむろに近づいて、そっと風船の尻尾を掴む。
「ほら、風船だよ」
「わぁ!おじさん、ありがとう!」
まただ。心の温かさ。
旅人に言われたような温かさを、男は感じて胸を押さえた。
「おじさん、大丈夫?お胸痛いの?」
「ああいや、大丈夫だよ」
ふと、疑問が頭をよぎった。
ここで「ありがとう」を言えば、この温もりは少女にも伝播するのだろうかと。
「ありがとう、お嬢ちゃん」
「うんっ!」
パァァと晴れたような笑顔。
男は直感した。きっとこの少女もまた、自分と同じくらい、温かくなったのだと。
それから男はたくさんのありがとうを伝えて回った。
ありがとうと言わない男の噂は、たちまちにありがとうと言う男として広まっていった。
やがて居なくなった妻と子供が、男の元へと戻ってきた。
男は驚いて喜び、そしてまた「ありがとう」をした。
「でも、一体どうしてありがとうを言ったのですか?」
妻の問い掛けに、男は胸を押さえて笑う。
「ありがとうは幸せの魔法だからだよ」
fin