02 星空
「お休みなさいお姉様……」
お姉様――ヨシコ――が、かすかな寝息を立て安らかな眠りに就く。カーテンの隙間から差し込む、まるで魔法のような白銀の光に照らされたヨシコの寝顔は美しかった。その滑らかな肌はまるで白銀の光が無くてもそれ自体がまるで発光しているかの如く淡く輝いているように見える。
そして薄い掛布団の上に浮かび上がる体の輪郭は、薄明りの中でも柔らかい曲線を見る事ができた。
ヨシコが完全に眠りについたのを確認するとヤスコはそのままベッドから離れる。
そしてそのまま静かに部屋を出ようとした時、僅かにカーテンが動くのが目に付いた。
何者かが潜んでいるわけではない。半開きになった窓から柔らかな風が空気の流れを作り出していたのだ。
窓が開いたままなのに気が付き、それを閉めるべく窓際に近づいたヤスコの目には美しい光景が広がっていた。
日の光はとっくに大地の下に潜り込んでいる。
だからその光景は日の光に照らされていた風景ではない。
太陽の光と比べ物にならない月からの僅かばかりの光、しかし白銀に月に彩られるように照らされるのは美しく整えられた庭園。そして上を見上げれば、まるで宝石をちりばめたような星空だ。
ヤスコはその星空をまるで目に焼き付ける様に見上げている。
そのままどのくらいそうしていただろうか?一瞬瞼をとじ、寝息をたてるように呼吸した後で、ふと我に返ったヤスコは誰に聞かせるとも無く呟いていた。
「凄い綺麗……」
ヤスコの髪を開け放しのままになっていた窓から流れ込む心地よい風が揺らす。かすかに聞こえるのは木の葉のざわめきだろうか?しかし不自然な事に鳥や虫の鳴き声が一切聞こえてはこなかった
それはここが地上からはるか上空に突如して現れた浮遊島で有る事の証拠だ。
その心地良い風も、美しい星空もヤスコにはまるで初めて体験したように感じられる。
これをお姉様にプレゼントしたらどんなにか喜んでくれるだろう。手を延ばせば今にも届きそうだ。
しかしそのまま手を伸ばしても到底届きやしない。
〈浮遊〉
ヤスコの口からは自然と呪文がこぼれた。
その呪文を合図にヤスコの両足から重力が消える。
そしてそのまま窓枠に手を掛けると、フワリと舞い上がるように外に飛び出した。
他人が見ればその後の悲惨な未来を予想し、思わず目を背けてしまうだろうが、幸いにもその予想通りの展開になることは無かった。
窓の外に飛び出したヤスコはそのまま地面へ落下するような事はもちろんなく、それどころか浮遊したままクランハウスの壁を駆け上るようにして最も高い場所――屋根――へと目指す。
数回ほど壁を蹴り上げるようにしてジャンプするとそのまま屋根へとたどり着いた。
クランハウスは五階建ての高さがある為、その屋根から落下すれば情人であれば死は免れないだろう。
『浮遊』の呪文は決して空を自由に駆け回れる呪文ではない。飛行や上昇を目的とせず、移動時の消音や罠への落下を防ぐための自己強化魔法補助呪文の一つだ。
しかしそれを使って一足飛びに屋根に飛び移るのはヤスコのたぐい稀なる身体能力のおかげといえる。
ヤスコ自身も『浮遊』の呪文をそんな目的のために使うのは初めてのはずだった。ソルトアースオンラインでは文字通り僅かに浮くだけの呪文でしかないのだから。
もちろん壁を駆け上ったりなどは出来るはずもなかった。
しかし、この世界ではソルトアースオンラインの魔法でも現実にありえるレベルで整合性が取られるようだ。
屋根へとたどり着いたヤスコは言葉を発する事もせず、そのままこの世界を俯瞰するように辺りを眺める。
もちろん屋根に上った程度で文字通り世界が俯瞰できるわけではない。月明りしかない現状、見回せるのは精々クランハウスと浮遊島程度だ。
クランハウスの周囲は白い大理石の壁で囲われ、その白い石に白銀の光が怪しく反射し
そのせいかそれが周囲に植えこまれた庭木は何処からきた光源か分からないような複雑でおぼろげな影を描いてた。
そして壁の周囲に広がる様々なクランの施設。その姿はまるで小さな町が夜の闇の飲まれ完全に沈黙しているようだ。
それは昼間では決して見る事ができない、それでいて昼間とは違う別の一面を映し出しているように感じられる。
上を見上げれば相変わらず宝石箱のような空。思わず手を伸ばしてしまうが、あいにくと手を伸ばしても届くような事はもちろんなかった事にヤスコは少し残念そうな表情をする。そして下に目をやると上空の月や星々から届く柔らかな白銀の光が、クランハウスや庭園を幻想的に照らしていた。
ヤスコはその風景に視線を時折動かしながら、とても感動的なものを見たかというように心からの言葉を口にだした。
「本当に綺麗……。以前と同じようにお姉様と一緒に見れたらもっとよかったのに……」
チラリと自分の隣に視線をやるが、もちろんそこに部屋で休んでいたヨシコがいようはずもなかった。
本来NPCでしかないヤスコには元々人して過ごした記憶などあろうはずがない。しかし今のヤスコにはソルトアースオンラインでヨシコと過ごした日々がまるで現実世界で共に過ごしたように思い出せるのだった。
この星々の宝石箱から輝く星々を切り取り髪飾りにして、漆黒の夜空のようなお姉様の髪につけたらどんなに映える事だろうか。
自分の一人でいる事に一抹の寂しさを感じながら目を閉じてその姿を想像し、ヤスコはその神々しさに思わず身震いする。
「あら、ヤスコ?どうしたのかしら?」
不意にかけられたその声に驚き、ヤスコは当たりを見回した。
するといつの間に屋根に上って来たのだろうか、ヨシコの姿がそこにあった。
「お姉様!」
おもわず声を張り上げてしまったヤスコに対し、ヨシコが微笑みを浮かべながら軽くたしなめる。
「だめよヤスコ。そんな大きな声を出したら神様だって起きてしまうわよ?もう神様だってきっと寝ている時間なのだから」
「で、でもいつの間に……」
気配は感じなかった。もちろん装備レベルも含めた能力はヤスコよりヨシコの方がはるかに上だ。しかし肉体レベルの差はそれほど大きいとはいえない。それでこんなに近く、声を掛けられるまで気が付かないということがあるだろうか?これは寂しさのせいで自分が見ている幻ではないだろうか?
「あら?ひょっとしてヤスコは一人きりのほうが良かった?」
しかしそんな事は些末事だと言わんばかりのヨシコの言葉にヤスコは首を振った。
元々二人でこの星空を見ながら過ごすことを望んでいたのだ。それがかなうというのならば例え夢でも幻でもなんでもよかった。
「い、いいえ!お姉様と二人っきりのほうが嬉しいです……」
その言葉にニコリとするとヨシコはヤスコの傍に腰を下ろした。
そして先ほどヤスコがしていたようにヨシコも星空を見上げている。
暫く無言のまま星空を見上げていたヨシコだったが、まるで溜息を付くように空気を吐き出すとヤスコに向かって言葉をこぼした。
「それにしても綺麗ね、この世界は……。今、私達が見ている物は本当に現実なのかしら?ヤスコはどう思う?」
「もちろんです、お姉様がいる所ならどこだって……天界でも、いいえ!例え冥界だろうとそこが現実です!」
その言葉に嬉しそうに微笑むヨシコ。その柔和な笑みを浮かべた表情を見た者は、どんな人間であれ疑いを持つことはできないと感じさせるだろう。
そしてヤスコも頬を染める。
「そう、この綺麗な世界を私が欲しいって言ったら……ヤスコはどうするかしら?」
世界を手に入れる。それは普通の人が聞けば一笑に付してしまうような言葉だ。
そんな事はできるはずがない。征服するまでの武力や策謀。征服したあとの統治する手段、人心掌握。そして必ず起こるであろう反乱への対処や治安維持。
どのような世界であれ無数の国々に分けられている、よく言えば済み分けている地域を、特定の人物を頭に統治することによる様々な問題。
冷静に考えれば世界なぞ征服しても得られるメリットよりデメリットの方が多いだろう。
だが……。
「この世界が美しいのは、お姉様が手にいれてその身に飾り立てるのを待ち望んでいるからかもしれません」
だがヤスコにはそのような事など関係がなかった。もし本当にヨシコがそれを望むのであれば全力でサポートするだろう。
その言葉に嘘はない、先ほどもこの星々をお姉様の美しい黒髪に合わせたらさぞ似合いだろうと思っていたのだ。
ヨシコがそれを望むのであればヤスコには否が応でもなかった。
「本当に綺麗ね……。確かにこの煌びやかな星々を身にまとえば私にピッタリかもしれないわ。私の他に相応しい持ち主はいるのかしらね?」
ヨシコはそう言いながら先程ヤスコがそうしたように満天の夜空に向かって手を延ばす。それは本当にあと少しで星々が手に入る、そうヤスコには思えた。
「あの星々を纏うなんて、お姉様以外に相応しい方などいらっしゃいません!そしてお姉様がそれを本気で望んでいるのではあれば、私も微力ながらお手伝いいたします」
「ありがとう、ヤスコ。その時はぜひお願いするわね」
「はい!お任せください!」
ヤスコは想像する。世界、いや宇宙の星々まで手に入れて眩いばかりの光にあふれるヨシコの姿。その姿に周りにいる人間はすべからず敬愛の視線を投げかけている。そして自分はその傍に嬉しそうにしながら控えている。
それを想像するだけで胸が熱くなるのだ。
思考の渦に入り込んでいたヤスコを現実に引き戻したのは、それまで見た事もないような一大スペクタルだった。
なんと空に浮かぶ月がまるで闇に侵食されるように徐々にかけ始めたのだ。
月食だ。
徐々に闇に飲み込まれかけ始める月と引き換えに、あたりが少しづつ暗くなっていく。
それと引き換えに宝石箱をひっくり返したような星々の輝きはさらに強くなっていくのだった。
「お姉様、すごいです。私は月食なんて初めてかもしれません」
それはさしずめ伝説の月、白銀の月が漆黒の月に侵食されていくようだった。
その徐々に失われていく月の光は月の断末魔のようでもある。
そして、もう少しであたりが闇に包まれる、とその時。ヨシコとヤスコの唇が触れた……ような気がした。
「お姉様……」
そしてヤスコは潤んだ顔でそのまま身を任せ静かに屋根に横たわった。
触れ合った柔肌から伝わる体温と、背中から伝わる屋根の冷たくかたい感触の対比がヤスコの感覚をより研ぎすませているようだった。
その漆黒に照らされた屋根に、柔らかい吐息が漏れた。
§ § §
気が付くとヤスコは窓辺に体を預け倒れこんでいた。
しばらく焦点の定まらぬ目を半開きにし、何事があったかとあたりを見回すヤスコだったが徐々に覚醒するにつれ、どうやら寝ていただけらしいと気が付くと顔を赤くした。
自分の服装も確認するが特に乱れてはいない。そのまま寝てしまった為か多少シワになっている程度だ。
昨夜窓を閉めようとして外を見ているうちに寝込んでしまったらしい。
窓の外をみると、日の光が水平線から顔を出しつつある。もうしばらくしたら太陽も姿を見せるだろう。
そして部屋を見回すとヨシコがベッドでかすかな寝息を立てながら寝ている姿が見えた。
ソロリと近づきヨシコの顔に目を合わす。しかしスグにその視線を逸らすとボツリと呟く。
「なんだ……昨夜のアレは全部夢だったんだ……」
夢など、おそらくヤスコを初めて見たのだろう。
しかしゲームのNPCが夢を見ないなどど誰がきめたのであろうか?
そしてその夢の内容を思い出しながらヤスコは顔を真っ赤にする。
夢とはいえ、お姉様とアンナコトをした自分を恥ずかしがっているのだ。
そしてそれに自分の願望が一部含まれているという事も……。
「さ、さて。お姉様が起きる前に食事の準備でもしておかないとね」
自分に言い聞かすように口の出した時、ベッドから聞こえてきた声でもうすでにそれは遅きに失した事に気が付いた。
「う、うん……」
「お姉様?起きていますか?」
ヨシコが目を覚ましかけている事に気が付いたヤスコは軽くため息をつくと、ヨシコに声を掛けながらカーテンを開け始める。
そして思い出したかのように自らの唇に触れるとかすかに熱をもっている気がした。