故意に恋
「つまり、この薬を飲むだけで、生理的に受けつけない夫に恋することができるということなんですね?」
私がもう一度確認の質問を投げかけると、向かいの席に座るスーツ姿の男が満足げに頷いた。
「ええ、もちろんです。……ただまあ、こんな薬に頼らないのが一番だとは思いますけどね」
「何度もお伝えしましたが、夫のあの醜い顔だけはどうしても無理なんです」
お金持ちだからという理由で結婚してからというもの、自分なりに一生懸命夫の良いところを探そうと努力はしてきた。しかし、クレーターのようなニキビ痕、突き出た頬骨、絵の具で塗られたかのような青ひげ。これらは何回見ても慣れるものではなかった。夫は別に性格が悪いわけではないし、ユーモアや優しさを兼ね備えた人間だ。ただ。控えめに言っても、私は世の女性の中でも上位にランキングできるだけの美人だと思っている。それなのに、自分の夫がそうした醜男であることがどうしても許せなかった。
「恋に身を焦がした昔を思い返すたびに、胸がぎゅっと締め付けられるんです。あの頃みたいな幸せを感じることは一生できないんじゃないか。そう考えただけで目の前が真っ暗になるんです。実は不倫を考えたこともあります。それでも……やっぱりバレたときのことを考えるとどうしても踏ん切りがつかなくて」
「お気持ちお察しします、奥様。さぞ、大変だったでしょう」
見え透いたおべっかだと知りながらも、自然と頬が緩む。こういう悩みをもつ奥様方は多いんです。そして、あなた方を助けるためにこの薬が開発されているんですよ。営業の男が饒舌に語る。私は自分の手元に置かれた、小瓶に入った錠剤へと目を落とす。
「旦那様の顔を思い浮かべながら、この薬を一日一錠だけ飲んでください。それだけであなたは旦那様を好きになることができます。俗な言い方をすると、惚れ薬のようなものです。効果は……この薬を奥様に紹介したお知り合いの方のご様子からすでにご存知でしょう。まあ万が一効果がなければ、即返品可能ですから」
「買うわ」
間髪入れずに返事をする。その場でお金のやり取りをし、男は市販の目薬と見かけが変わらないケースに入れた商品を、私に手渡す。男の顔にはビジネスマンらしい、作られた笑顔が張り付いていた。
「お買い上げありがとうございます。ただ、くれぐれも用法用量をしっかり守って、服用なさってくださいね」
***
帰宅後。私はすぐさま薬を取り出し、一錠だけ水で胃に流し込む。もちろん営業の男に言われた通り、醜い夫の顔を思い浮かべながら。瓶の説明書きによると、効果は十分ほどで現れ初め、人によって違いはあるものの、およそ十時間ほど持続するらしい。
薬を飲んで十分。しかし、何の変化もない。もしかして、体よく騙されたのではないだろうか。そのような考えがふと頭をよぎったその時、ふと自分の身体が少しづつ熱くなっていっているのに気がつく。上着を脱いでも、窓を開けても熱は治まらない。それに自分の胸に手を当てててみると、激しい運動をした後のように鼓動が高鳴っているような気がする。頬がほてり、視界が白く薄くぼやけていく。私はいつもは下に倒している写真立てを手に取り、新婚旅行時の2ショット写真を見る。そして、夫の顔が目に写ったその瞬間、自分の胸の中で火花が散る音がした。
頭の中が夫のことでいっぱいになっていく。愛嬌あふれるニキビ跡が、可愛らしい頬骨が、男らしい青ひげが、今までの嫌悪感が嘘であるかのように魅力的なものに思えてくる。彼が自分の夫なんだ。その事実を噛みしめると、言いようのない多幸感が湧き上がってくる。今すぐにでも、愛しいあの人の声が聞きたい。居ても経ってもいられず、私は携帯を取り出し夫へ電話をかけた。
呼び出しコールが鳴るたびに切なさで胸がはちきれそうになる。携帯を持つ力が強くなる。そして、気の遠くなるような長い呼び出し音の後、夫がようやく電話に出てくれた。
「何かあったのか、美鈴。こんな時間に電話をかけてくるなんて」
「お仕事中ごめんなさい……。でも、どうしてもあなたの声が聞きたくなって」
「それだけの理由で……?」
「ごめんなさい。迷惑だった?」
夫は少しだけ間を置いた後、感極まった声で返事をした。
「とんでもない……! すごく嬉しいよ。君からそんな言葉が聞けて!」
夫の言葉に体温が上がっていく。今日は早く帰ってきてくれる? もちろんだよ、ささっと仕事を片付けて来るからさ。それから一言二言愛の言葉を交わし、電話を切った。
私はすぐさま買い物にでかけて食料を買い足し、夫の大好物を作り始めた。以前はこっそり手を抜きながらやっていた料理も、夫の顔を思い浮かべるだけで自然と手に力が入った。テーブルをお洒落に飾り付け、夫の帰宅時間に合わせてタイマーをセットする。そわそわした気持ちのまま部屋の中を歩き回り、しばらくしてようやく玄関のチャイムが鳴る。私は駆け足で玄関へと向い、ドアを開けた。玄関の前に立っていたのは花束を携えた、愛しい愛しい私の夫だった。
激情に突き動かされるがまま、私は夫の胸に飛び込んだ。夫は戸惑いながら、嬉しそうに顔をほころばせ、そっと私の腰に手をまわす。そのまま私たちは身体を密着させながらリビングへと戻り、食卓へと腰掛けた。
それからの時間はとても言葉では言い表せられない。夫の仕草一つ一つが、言葉一つ一つがいちいち私の胸をざわつかせた。食事を終え、洗い物を終え、私はソファに座る夫の横に座る。夫が私の手をそっと握りしめる。私の身体が反射的にこわばる。夫は私の頬に軽い口づけをした後で、愛しているよと耳元でささやく。
「……私も」
私は少しだけ間を空けて答える。夫のゴツゴツとした手からぬくもりが伝わってくる。私にはこの人しか居ない。靄がかった頭の中でそんな言葉が虚ろに響く。夫と私はそのまま寝室へと向かう。薄暗い照明の灯る部屋で、私と夫はベッドの縁に横並びで腰掛けた。夫の手が腰からお尻へ、それから胸へと這っていく。私はくすぐったさと快感が入り混じった吐息を吐きながら、夫の首へと手を回す。夫が私の右頬に手を当て、目をつぶる。そのまま夫は顔を近づけてくる。私も夫と同じように目を閉じようとしたその瞬間、一瞬だけ夫の口先に注意が向く。そして、唇の端にできた白いできものに気がついたその瞬間。心の奥でせき止められていた様々な感情が一気に溢れ出していく。
「嫌っ!!」
私は叫び声とともに夫の身体を強く押しのける。不意をつかれた夫がベッドの縁から滑り落ち、困惑の表情を浮かべてこちらを見てくる。腫れぼったいまぶた、黒ずんだ肌。生理的な嫌悪感が身体を包み込む。
「どうしたんだ美鈴。顔が真っ青だぞ。どこか体調が悪いのか」
夫が立ち上がり私に近づいてくる。私は反射的に寝室のドアへと走り、「ごめんなさい、すぐに戻るから」と震える唇でなんとかそれだけつぶやいた。そして慌てて薬が置いてある自分の部屋へと向かって走り出した。私の頭の中で、さっきまでの自分の振る舞いがフラッシュバックする。たるんだ頬を緩めた夫の表情。夫のいやらしい手が自分の腰を這っていく感触。そして、甘えた声で夫に身体を寄せる自分の姿。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! 私は引き出しの奥から薬を引っ張り出し、乱暴に瓶の蓋をこじ開けた。夫が不審がって後を追ってくるかもしれない。それまでに早く薬を飲まなければならない。夫に怪しまれないために、そして何より、このどうしようもない嫌悪感を一刻も早く消してしまうために。
震える手で瓶を振ると、何錠も錠剤が私の手のひらにこぼれだす。私は無我夢中のまま、手のひらに乗った錠剤をすべて口の中に放り込んだ。水も使わず、唾液だけでなんとか吞み下す。早く早く。私は自分の身体を急かす。
私は吐き気を抑えながら頑張って汚らしい夫の顔を思い浮かべる。しかし、熱が上がり、視界が徐々にぼやけていっても夫への嫌悪感は一向に静まらなかった。それどころか、先程よりもなんだか視界のぼやけ具合が強くなっている気がする。どうして? そんな疑問と同時に私は男の言葉を思い出す。
「お買い上げありがとうございます。くれぐれも用法用量をしっかり守って、服用なさってくださいね」
恐怖感が嫌悪感を上書きしていく。私は震える手で携帯を取り出し、画面と目をくっつけ、記憶と感覚を頼りに男の携帯へと電話をかける。間髪入れずに男が電話に出て、間の抜けた声が聞こえてくる。私が薬を誤って何錠も飲んでしまったと伝えると、男はまるで他人事のようにため息をついた。
「あーそれはどうしようもないですね。きちんと注意したはずなんですが」
「私はどうなってしまうの……?」
「まあ、死にはしませんよ。ただ副作用として目が見えなくなります。ほら、恋は盲目ってよく言うでしょう?」
男が乾いた笑い声を上げる。目が見えなくなる。携帯を持つ手が震える。部屋の外から慌ただしい足音が聞こえてくる。
「まあでも、よかったんじゃないですか?」
部屋の扉が開く。私が音がする方向へ目を向ける。真っ暗な暗闇の中で、男のニヒルな声が聞こえてきた。
「これで旦那さんの醜い顔を見ずに済むんですから」