団長の安息
訓練場を後にしたフェルナンドは一度自分の屋敷に戻ることにした。
書類仕事は片付け、夜間の哨戒まではまだ時間がある。
最近は城に設けられた自室や警備隊の拠点に出ずっぱりでなかなか自邸に帰ることが出来なかったので、時間のある内に家族と過ごさねばと考えた為だ。
「おかえりなさいませ、フェルナンド様」
「ああ、ジロ。留守の間ご苦労であった」
ジャッジ家の象徴である、両刃剣と盾と蓮の花があしらわれた家紋があしらわれた門をくぐり、出迎えたのは執事長のジロ・カッノ。
彼はフェルナンドが産まれる前からジャッジ家に仕えている最古参の使用人で、家族同然に信頼を寄せる人物でもあった。
「クレンツとトーナは?」
「御二方とも中庭に。クレンツ様はモドン老師と日課の剣術の稽古、奥様はそのお付き添いでございます」
そうか、と一言返すと足早に庭園を目指す。
「やあ!はっ!」
庭に近付くにつれ木と木がぶつかり合う乾いた小気味の良い音と、幼いながらも強く気合いの入った声が聞こえてくる。
遠目にではあるが姿もだんだんと見えてきた。
必死で木剣を振るう幼子と目を細めてそれをいなす老剣士、その様子を茶を啜り微笑みながら眺めている優雅を体現したかのような女性。
ここ暫く鎧と紙束の山の他は薄暗い城の石壁ばかりしか見ていなかったせいか、その光景がひどく眩しく美しく愛おしく、そして懐かしく映る。
まもなく4歳になる息子のクレンツは、なんとか目の前の老人に一撃を入れようとやたらめったらに木剣を振るう。
無論、そんな滅茶苦茶な剣筋では一太刀どころかかすりもしないが、それでも一所懸命なその姿が愛らしく思える。
「精が出るな、クレンツ」
稽古の邪魔をするつもりはなかったが、その様子を眺めていると、どうしようもなく胸がいっぱいになってしまい、思わず声を掛けてしまう。
「あ、ちちうえ!…いったあ!!」
「これこれクレンツ坊っちゃま、何時いかなる時も油断してはなりませぬぞ」
久方ぶりに聞く父の声に気を取られたクレンツの頭にモドンが木剣を軽く落とした。
自分も昔よくやられたものだと苦笑しながら、痛みに悶え、べそをかく息子の頭をさすってやる。
「よしよし痛かったな。モドン爺、もう少し手加減してやったらどうだ?」
「お戯れを。これでも坊っちゃまの成長に合わせて稽古をつけておりまするぞ」
ほっほっと蓄えられた口髭を揺らすモドン。
若かりし頃は『クィアの猛虎』と呼ばれ、フェルナンドの亡父であり先代騎士団長ジェイル・ジャッジの副官として辣腕を振るった男も、今ではすっかり好々爺。
老年の為に一線を退いてからは、フェルナンドの頼みでクレンツの剣の師としてジャッジ邸に出入りしている。
「おかえりなさいませ、あなた」
「ああ、トーナ。留守中、大事なかったか?」
「ええ、こちらは恙無く」
肩に息子を担ぎ上げ、妻の元へ歩み寄る。
美しい金髪に吸い込まれそうな大きくつぶらな瞳。
飾り過ぎず質素過ぎもしない服に身を包み、優雅に立ち振る舞う女性。
世の美貌を独り占めしたかのような彼女こそ、フェルナンドの伴侶、トーナ・ジャッジである。
「…また少しお痩せになりましたか?」
痩せこけたフェルナンドの頬に右手を当てる。
元から線が細かったとはいえ、最後に屋敷を出た時よりもフェルナンドは更にやつれたように見えた。
「ああ、この所立て込んでいてな。最低限の食事は摂っているのだが」
実際は激務故に、最低限どころか一日にパンを一切れ食べられればいい方であるが。
心配かけてすまん、と当てられた手を握り返し、見つめ合う2人。
「ちちうえ、おなかすいてるの?」
そんな両親に、きょとんとした顔でクレンツが問い掛ける。
幼いが故に会話の委細までは分からなかっただろうが、何となく父が痩せたこととあまり食事を食べていないということを直感的に理解したのであろう。
我が子ながらなかなかどうして聡い子だ、とフェルナンドは笑みを浮かべる。
「そうだな。ジロ、少し早いが夕食の準備を」
「かしこまりました、お部屋までお持ち致しましょうか?」
「いや、今日は2人と食べることにしよう」
承知の礼を返し、屋敷へと踵を返すジロ。
「やったー!ちちうえとごはんー!」
「ああ、久方ぶりに一緒に食べよう。だがその前に…」
無邪気な声を上げるクレンツを降ろし、少し意地悪げな笑みを浮かべる。
「モドンと稽古の続きをやらなくちゃだな!」
「えー!」
「あらあら」
庭園に高らかに笑い声が響く。
彼らはまだ知らなかった。
これが一家全員で過ごす、最後の晩餐となることに。