紅月の異形
「く、来るな!誰か!助けてくれ!」
閑静な深夜の住宅街。
その静寂を破り、1人の男が叫ぶ。
ぼろと化した服を着、靴も履かず、それでも何かから逃れようと覚束無い足取りで必死に歩みを進めている。
左腕の肘から下は鋭利な刃物で斬り落とされ血が滴り落ちており、痛みを庇うかのように添えられた右腕も親指以外は既に失われている。
だが誰一人としてその悲痛な助けを求める声に応え、家から顔を出そうとする者はいないーーー否。
『無駄だ』
1人だけ、居た。
返り血を浴びたような真紅のローブと仮面、そして殺気に満ちた気配を纏い、傷付いた男を追い詰める影。
『人間のいる所に行けば逃げられるとでも思ったか。生憎と人避けの陣を張ってある』
無機質な、それでいて強い怒気を感じさせる低い声で、『それ』は男に言い放つ。
ひぃっ、と小さく悲鳴を上げ振り返る男。
次の瞬間、『それ』は男との距離を一気に詰めると、一切の容赦も迷いもなく、自身の右腕を振り下ろした。
「あがあああああ!!!」
男の右肩から先が、勢い良く吹き出す鮮血と共にぼとりと落ちる。
痛みのあまりに絶叫し倒れ込む男を余所に、舌を打つ影。
『無駄な抵抗はよせ』
これ以上痛い思いをしたくなければ、と再び構える。
「待て…待ってくれ…!もう二度とあんなことはしない…!だから頼む…命だけは助けてーーー」
『貴様は』
絞り出すような男の懇願を遮り、影は右腕を上げた。
ローブから露わになり、妖しい月光に照らされたその腕。
『同じような事を言った『人間』に、何をした?』
「ひっ…ひぃぃぃっ!!」
そこにあったのはおよそヒトの世のものではない、正に異形。
本来指に当たる部位に生えている、刀剣のように鋭く、猛獣のように巨大な5本の爪。
手首から肩にかけては体毛の代わりに傷だらけの逆立ったドス黒い鱗。
そして何よりもその腕を異形たらしめているのは、甲と掌にある、鈍い光を放ち落ち着きなく周囲を見回す禍々しい瞳。
「ば、化け物ーーー」
せめてもの抵抗のつもりか、それとも恐怖に駆られた結果として本音が漏れたか。
『フン』
どちらとて関係ないと言わんばかりに鼻を鳴らし、『それ』は異形を男に向け振るう。
『喰え、命蝕』
「ぎゃああああああああああああ!!ーーー」
男の最期を告げる叫喚は、しかして目の前の殺戮者と夜空の漆黒に煌々と輝く満月以外、誰の耳に届くことも無く虚空へと消え去っていくのであった。