8
「せ、セドリック……? どうしてここに?」
言いながら、私は自分の声が震えていることに気がついた。
胸に当てた両手を、知らずぎゅっと握りしめている。
「今日は神殿に用事があったから。ついでに、君の顔を見たいと思ったんだ。祈祷室にいないと聞いて、探し回っていたんだよ」
セドリックは、少し照れたように頬をかく。いつも通りの、見るだけでほっとするような、優しい表情だ。
でも、今の私はいつも通りではないようだ。
「用事って」
――ジャンヌを迎えに来たの?
言葉を吐き出すことはできなかった。
喉の奥から感情がこみあげてくる。これ以上言葉を吐けば、一緒にあふれてしまいそうだった。
「野暮用だよ。君が気にすることはない」
「そ、う……」
「それよりリディ、薔薇の花が咲いたんだ。枯れる前に、またお茶会をしよう。日取りの返事を、まだ返してくれていないだろう?」
「え、ええ…………」
声の震えを押し殺し、私はどうにかして答える。セドリックの顔は見られず、視線は伏せたまま。握り合わせた両手に力がこもる。
――ちゃんと聞かなきゃ。
ジャンヌと前夜祭に行くって、本当?
ジャンヌのことをどう思っているの?
もしも彼女に好意を持っているのなら、彼女をいじめたとされる私のことを、どう思っているの?
私が聖女でなければ、ラフォン家が格下であるフロヴェール家と繋がる意味は薄い。伯爵家の跡を継ぐ、という利益はあるにはあるけど、それならもっと格式の高い他家がいくらでも待っている。
――セドリックルートでの私は、どうなるのかしら。
ふと浮かんだその考えは、私の思考を泥沼に引きずり込む。
ここは乙女ゲームの世界。セドリックはジャンヌに惹かれていく。リディアーヌは――私はセドリックと結ばれない。
聞くのが怖い。こんな不安、はじめてだった。
もしもジャンヌに惹かれていると言われたら。そうでなくとも、言葉に詰まらせ、目を逸らされただけでも疑ってしまう。
「……リディ? どうかした?」
黙り込む私に、セドリックは困惑しているようだ。
「なにか困りごとでも? …………いや、実は君の心配事には、想像がついているんだ。僕たちの方でも噂になっていて」
僕たち、とは、セドリックにとっては宮中のことだ。城に仕える上流貴族たちが、噂をしている。いったい、どんな――――。
「根も葉もない噂というのは、困ったものだね。流した人間には責任を取ってもらわないと」
セドリックはそう言って、はははと冗談めかして笑った。
本当に冗談なのか、それとも嘘を隠しているのか、私にはわからなかった。一度疑惑を持つと、なにもかもが怪しくて、頭の中で渦を巻く。
ただうつむき、両手を握りしめる。唇を噛みしめる。きつく、きつく。
「リディ…………リディ?」
セドリックの声に、少しだけ驚きがあった。
うつむいた私の前に、彼の手が伸びてくる。頬に触れるほど近づいた時。
ぱた、と水のしずくが神殿の床を濡らした。
セドリックは私に触れることなく、はっとしたように手を引っ込める。その隙に、私は地面に落ちた一滴を足で隠し、ついでに顔も引き締める
――自制心がなっていないわ!
なんたる恥。なんたる不覚。聖なる神殿で、自分の悩みに気を取られるなど。たるんでいるとしか言いようがない。
こんな弱い人間に、誰が導かれるものか。聖女は力強く、決して折れない強さがなければ。
「なんでもない。なんでもないですわ!」
――大丈夫、顔も見られていないはずだし、一瞬だし! なにも! なかったわ!
両手は握りしめたまま、私は勢いよく顔を上げ、セドリックを睨んだ。
セドリックは――様子がおかしい。私から距離をとり、周囲を警戒するように、何度も見回している。
見回したところで、神殿にいる人間は神官くらいなものだ。あとは、聖女候補につけられた世話係が数人。私の世話係も、もちろんいる。世話係と言っても、例によって父の監視なのだけれど。
と、考えたところで、都合よくその世話係――フランソワがこちらへ向かってきているのが見えた。いつまでも祈祷室に来ない私を、探しに来たのだろう。
セドリックが、フランソワを見て苦い顔をする。まあ、彼にとっても監視されているようなものだし、気分も悪くなるだろう。
「リディ、それじゃあ僕はこれで。…………辛い思いをさせてすまない」
忙しなくそう言うと、彼は立ち去りかけ――ふと、思い出したように付け加える。
「君は本当に、なにも心配する必要はない。大丈夫、なにもかも――――今日までだ」
〇
「お嬢さまあ! 大丈夫ですか! 傷物にされていませんか!?」
「傷物ってなによ!?」
セドリックが去った後は、フランソワが私に駆け寄ってきた。彼女はセドリックの去った方向を一瞥すると、慎重に私の全身を確認する。
「まったく男というものは、油断も隙もありません! お嬢様、あなたはフロヴェール家のたった一人のお嬢様なのですから、もっと毅然とした態度でいらっしゃらないと!」
フランソワの叱責に、私は口をつぐむ。
神殿での情けない姿を、フランソワに見られてしまっていたらしい。たしかにこれは、フロヴェール家の令嬢として恥ずかしい。聖女にふさわしくないと思われても仕方がない。
「……お父さまに報告するのね」
「もちろんでございます! お嬢様の行動を逐一伝えるようにと、旦那様からの厳命ですから。このことは、旦那様からしっかり注意していただきますわ!」
「……そう」
「フロヴェール家に傷をつけるわけにはいきませんからね。旦那様からは、後ほど適切な沙汰が下ることでしょう」
フランソワの言葉に、私はため息を吐いた。
父は苦手だ。いつも仕事で忙しく、直接顔を合わせることはほとんどない。というのに、こうして四六時中監視されている。たまに顔を合わせても、交わす言葉はほとんどない。ただ、「お前はフロヴェール家のただ一人の娘なのだ。自覚を持て」と念押しをされるばっかりだ。
でも、聖女になることを期待されているとだけはわかる。幼いころから金と人脈を湯水のように注ぎ込まれてきたのだ。母が事故で亡くなり、唯一の血筋となってからは、監視にも膨大な人員を割くようになった。
聖女になることが、フロヴェール家にとっての私の価値。だから人前で弱みを見せてはいけない。誰よりも優れた人間にならなければいけない。
「…………お祈りしましょう。明日の聖星節の無事を祈らなくちゃ」
明日は、天と地が最も近くなる日。
――ゲームでの聖星節のイベントは、なんだったかしら?