11
「――――あいたっ」
もうすぐ路地裏から抜けられると言うところで、ジャンヌが足をもつれさせた。
彼女はその場で前のめりに倒れる。なかなかに痛々しい音がした。
「あなた、大丈夫?」
「え、ええ。ごめんなさい、リディ」
ジャンヌは言いながら、ぎこちなく体を起こす。が、立ち上がらない。地面に膝をついたまま、顔をしかめている。
「……ジャンヌ? 早くなさい。すぐに追いつかれるわよ」
黒マントの男たちは、今は近くにいないが、探し回る声は響いている。早く路地裏から離れなければ、見つかるのは時間の問題だ。
「だ、大丈夫……」
声とは裏腹に、立ち上がる気配がない。ジャンヌはうつむき、喘ぐように息を吐いた。
「どこか怪我をしたの?」
「あ、いえ、全然、ぜんぜん大丈夫です! …………さ、先に行って、すぐ追いつくから」
「先にって、置いて行けるわけないでしょう。見せなさい、どこを痛めたの」
私はジャンヌの傍に膝をつくと、彼女の体を眺めた。どうやら、足に怪我をしているらしい。
空の星以外に光のない夜。闇に目が慣れたとはいえ、傷ははっきりとは見えない。ただ、せっかくの前夜祭のために用意したであろう、可愛いドレスのフリルが破れてしまっている。
破けた箇所には、血が滲んでいた。思った以上に出血が多そうだ。
「ジャンヌ、傷口を出して」
私の言葉に、ジャンヌは迷っているようだ。しばらく思案するように沈黙してから、そろそろと体勢を変える。地面から膝を離し、尻をつけて座り込んだ。
傷を負った片足を曲げ、ジャンヌはスカートをおずおずとまくり上げる。
「傷はたいしたことないんですけど、足首が……ひねっちゃったみたいで」
暗闇の中で、むき出しになった彼女の右足に、私は目を凝らす。膝にかなり痛々しい擦り傷がある。ひねったらしい足首は、一見して様子がわからない。
――まずは傷口を洗わないと。
私はジャンヌの膝の上に、小さな魔法陣を描く。魔力を込めた指先で描く文様は、空中で微かに光ると、小さな流水を生み出した。
「……痛っ」
「染みる? でも我慢なさい、もう大きいんだから」
「えっ」
ジャンヌが驚いた顔で私を見上げる。それで、私も気がついた。
「ち、違うわ! 今のは、孤児院でよく子供が怪我をするから……似た調子で、つい」
うっかり、ぽろっと、子供に対する口調が出てしまった。もう大きいんだから、って、私がジャンヌのなにを知っていると言うのだ。恥ずかしい!
膝を洗う水は、まだ流れ続けている。魔法陣は、今もおぼろげに光っている。目を見開いたジャンヌの顔が見える。たぶん、私の恥じ入る顔も見えてしまっているのだろう。
私は慌てて視線を逸らした。空中で手を握り、魔法陣を消す。代わりに別の陣を描く。今度は、ジャンヌの足に向けて。
「な、治すわよ」
私の一番得意な治療魔法だ。このくらい軽い傷なら、ほんの数十秒ほどで元に戻せる。捻挫もあわせると、数分というところだろうか。
新しい魔方陣が光り、ジャンヌの足を照らす。ジャンヌはその光をぼんやりと見つめた。
「……治療魔法、使えるんですね」
「もちろん。聖女となる人間なら、当然だわ」
「ゲームだと使えなかったのに……」
ジャンヌがぽつりとつぶやく。
ゲーム中のリディアーヌは、苛烈な性格が災いし、攻撃魔法しか使えなかった。治療魔法が得意なジャンヌと、正対照になるよう、リディアーヌのキャラクターが設定されているためだ。別にゲーム進行に関わる話ではない。
だから、ジャンヌにとってはさほど重要ではないはずだ。
「……聖女」
ジャンヌは考え込むように、ゆっくりと瞬いた。治っていく傷をしばらく眺め――ふと、私に顔を向ける。
「リディは、そんなに聖女になりたい?」
「当り前でしょう。…………嫌味を言っているの?」
地母神に選ばれ、先代聖女や神官長を味方につけたジャンヌは、今や聖女の筆頭候補だ。
もともと聖女に近いと言われていた私は、そんなジャンヌに嫉妬していると、もっぱらの噂だ。ジャンヌが知らないはずはない。
聖女になれないくせに、まだ聖女になりたいのか――そう言われた気がしたのだ。
だが、私がジャンヌを睨むと、彼女は慌てて首を振る。
「そうじゃない、そうじゃなくて! ……やっぱり、なれなかったら嫌だよね。いきなり奪われたら、腹立つよね。ムカつくし、嫌われちゃうよね」
「嫌われちゃう? ジャンヌ、あなたなにを言っているの」
「ずっと頑張ってきたんだもんね。なりたいよね…………」
「ジャンヌ?」
「――――リディ」
私の問いかけを無視して、ジャンヌは口を開く。目は私を見つめたままだ。
不機嫌な私と目を合わせる人間なんて、セドリックと父以外では初めてだった。
「リディ、私ずっと聞いてみたかったの。どうして、そんなに聖女になりたいのか」
「どうして? 聖女には、誰だってなりたいものでしょう?」
貴族として生まれ、魔法の才能があれば、誰でも聖女を目指すものだ。それが家のためになる。誰もが、あわよくば聖女になることを期待して育てられる。
「そうだけど……そうじゃなくて。あなたが聖女になりたい理由を聞きたいの」
「私が……?」
不思議な問いだった。
聖女になりたいと思うのは当たり前だ。立派な人間になりたい。だから聖女になろうとした。そこになんの疑問もない。
父も、亡き母も、セドリックだって、『私が聖女を目指す』ということに、疑問を抱いてはいなかった。この世界では、誰でも聖女になりたがるものなのだ。
――――でも、そう。最初のきっかけ。
そもそも私は、どうして立派な人間になりたいの?
「………………私、前世の記憶があるのよ」
「えっ」
「信じる?」
ジャンヌはしばらくの間、目を見開いて私を見つめた。それから驚きの顔のまま、こくこくと頷いてくれる。
「前世の私は、今の私の年になる前に死んだわ。病気だったの。生まれつきの、治らない病気。少しずつ悪化していって、どんどん体が動かなくなっていくの」
言いながら、私は目を閉じる。今はもう遠い記憶だけれど、瞼の裏に残っている。前世の私が見て、生きて、死んでいった世界。
「小学校の卒業前に一気に悪化して、中学は学校にも行けず、ずっと病院で生活していたわ」
私の今の居室とは、似ても似つかない狭く簡素な部屋の中。両親は毎日見舞いに来たけど、ほとんどの時間を一人で過ごしていた。遊ぶ相手は携帯ゲーム機くらいしかない。誰もいない部屋で、一人ずっとゲームをしていた。だけどいつだって、飽きて投げ出してしまうのだ。
「でも、すぐに死ぬような病気じゃないのよ。きちんと付き合って行けば、五十歳くらいまで生きられる人もいるくらい。私が大人になるころには、もっと長く生きられるようになっているかもしれない、ってお医者様も言っていたわ」
息を吐き出す。私はなにを言っているのだろう。こんな、ほとんど話もしたことがない少女を相手に。そのうえ彼女にとって私は敵で、悪役なのだ。
――いや、だからこそなのかしら。
ジャンヌはゲームについての知識を持っている。私と同じゲームをしていたのならば、同年代かもしれない。小学校、中学校でピンと来ていることだろう。私もまた、同じ世界の住人だったのだと。
だから、誰にも言えなかった前世を口にしたくなってしまったのかもしれない。
「病状を悪化させないために、毎日薬を飲んだわ。家で注射もして、食事制限に、運動制限。それでも、少しずつ体がおかしくなっていることに、私自身気がついていたわ。ふとした瞬間に手足がしびれて、体が上手く動かなくなるの。食べられるものもどんどん減って、制限が少しずつ増えて行って」
それで――――。
瞼の裏、小学校時代の景色がある。卒業を目前にした冬の日、友達に遊びに誘われて、親に内緒で遅くまで遊んだ。
食事制限も、運動制限も覚えていた。薬を飲まないといけないこと、注射をしないといけないこと、全部わかっていた。
「――――私、耐えられなかったの。小学生の時に、いけないと言われていたことを全部やったわ。ケーキを食べて、ジュースを飲んで、スナック菓子も食べて、薬も飲まずに夜遅くまで遊びまわって――それから、ずっと入院生活。悪化はしても良くなることはなくて、ずっと寝たきりだった」
入院生活は、たぶん二年と少しくらい。幕引きは早かった。
私自身が早めたのだ。
「最後は、自分で薬を飲むのを止めたの。意識不明になって、そのままベッドの上で死んだわ。……でもね、私覚えているのよ」
ゆっくりと目を開く。ここから先は、過去の景色を見ていたくなかった。
暗闇の中、私を見つめるジャンヌがいる。彼女の表情は真剣で、まさに聖女みたいだった。
「死んでいく私の枕もとに、お父さんとお母さんがいて、泣いている声を聞いていたわ。小学校の時の友達も、みんな泣いていて――ああ、私、なんてひどい人間なんだろうって思ったわ。なんで投げ出したんだろう、って」
――ああ、だから。
「だから、今度は、立派な人間になりたかった。お父さまの誇れる私に、私自身胸の張れる私に、セドリックが自慢できるような私に。もう二度と、投げ出さない私になりたかった」
「リディ……だから、治療魔法が…………」
「でも、こんな利己的な自分を、神様はお見通しだったのね。だからあなたが遣わされたんだわ。結局、私は聖女にふさわしくないから――――って、どうしてあなたが泣いているのよ!」
私の目の前で、ジャンヌの瞳がみるみる潤み、涙があふれ出す。手の甲で涙を拭くが、まったく間に合っていない。
「リディ、そんな過去だったんだ……辛かったね、辛かったね……」
「前世の話よ! 過ぎたことだし、もう戻らないんだから……後悔しても、同情されるいわれはないわ!」
「ごめんねリディ、ごめんね。でも、私も聖女は譲れないの……」
「ジャンヌ?」
「私も、私の大好きな人のために、絶対に聖女にならないといけないの……!」
泣きぬれた藍色の瞳に、強い光が宿っている。ゆるぎない信念の目だ。
――大好きな人。
セドリックのことだ。
ジャンヌはそれほどまでに、本気でセドリックのことを想っているのだ。
――セドリックは幸せ者だわ。
ゲーム感覚でセドリックを狙っていたらどうしようかと思っていたけれど、このジャンヌとなら、きっと二人は幸せになれる。私も大人しく身を引ける。
心にもないことを、と胸の奥で声がする。それをぎゅっと押し込めて、私はジャンヌに手を差し出した。
「行きましょう。追いつかれるわ」
ジャンヌの傷は、もうとっくに治っている。路地裏の足音は、どんどん近づいてきている。
長話をし過ぎてしまった。早く行かなければ。
「…………リディ」
ジャンヌは私の手を取る。小さくて柔らかい、この手に掴まれたら、きっと誰もが守りたいと思うだろう。
「ごめんなさい」
だが、彼女はそう言うと、私の手を強く握った。
――だけじゃない……!?
ジャンヌの魔力が私に逆流してくる。体に合わない他人の魔力に、私自身の魔力が震え出す。
――だ、駄目!
さすがはヒロイン、流れ込む魔力は圧倒的だ。とても抑えきれない。体の中の魔力が暴れて、最悪の形であふれ出す。
爆発音がした。
私の体からあふれた魔力が光り、弾け――――ジャンヌを地面に叩きつけた。
――な、なに……!?
爆発音を聞きつけ、無数の足音が駆けつけてくる。
一つは、私たちを追っていた黒マントの集団だ。
そしてもう一つは――――。
「この祭りの日に、いったい何事だ!」
白銀の鎧の集団。
王都を守護する近衛騎士団と――――。
「…………セドリック」
騎士団を率いる――優しくない顔の、私の婚約者の姿だった。
彼は冷たい瞳で、私たちを見据える。
倒れたジャンヌと、その前に立つ私の姿を。