Ⅲ
星の輝きも無い、薄黒い空。
鉄、コンクリート、鋼、ただただ黒く硬い質感の立方体が建ち並んでばかりのようなビル群。
そんな大都会の情景を薄っすらと覆う、暗い色をした苔、黴。
大気には常に黒と白の灰が舞っており、それはまるで霧のように靄をつくる。
その靄に反射する、ビルや建造物の頭頂部で煌々と輝く緋い夜光虫。
柔らかくも冷たいその輝きはただただ黒い空に蓋をされ静謐のみが地上を圧迫するこの世界を照らす唯一の光でもあった。
黒、白、赤……黒、白、赤……黒、白、赤……。
灰に乱反射した赤の輝きは独特なスペクトルを放ち、眼球内部のレンズを震わせるかのようだ。
そして、当然の如く感じない、気配。
何も感じない。
都市の管理機能は未だに独りで動き続けているのが、夜光虫を視れば確認出来る。
しかしそんな賑やかな筈の街なのに、生きている機械は一切ない。
人類も、アンドロイドも、機械も、動物も、植物も。
あるとすればこの苔や黴だが、これは恐らく夜光虫の影響で生じたシミのようなものだろう、これらにも全く命の息吹を感じない。
「……」
「凄いものでしょう?今この世界で生きているのは君だけだ」
アイの声が頭の中に響く。
しかしその声に私は落ち着きを感じなかった。
それはまるで自分の声だからだ。
もちろん声色は違う、しかし、自分が独りでは無い、アイが居てくれるといったものは感じず、ただ孤独に耐えきれず自問自答を垂れ流しているような気分だ。
「キュクロスは……」
「アイツらは生きてない。なんて言えばいいか……あの目が原因だ。アレは複製された人間の眼球、レプリカだ。機関の連中、鍵になると思って人間の眼球のレプリカを大量生産してCYCLOPSタイプのアンドロイドを作った。機械5割生体パーツ5割の不完全なハーフをね」
私が一歩、一歩踏み込む度にアスファルトに積もった灰が宙を舞う。
雪の様に降り積もったそれは、私の発した風により地面の素肌を現し、足跡を形作った。
「だがそれも駄目だったみたいだ。今のアンクのように、眼球に電脳回路を全部掌握されて、でもレプリカの眼に意思は無い。ただ夢遊病のように彷徨う……歩く死体、ガラクタだ。可哀想に、まだ生まれてすらいなかったはずなのに……」
アイの声はどこか悲壮的で、自責を感じるものだった。
「目が鍵になる、というのは」
「あぁ……それはいずれ分かる。だけど簡単に言えば……そうだな……」
私は正面の街を静かに見上げた。
遠方に灰の霧に紛れて薄く見える、天を貫かんばかりの白亜の塔。
夜光虫の輝きは無く沈黙したそれは、静かに主の帰還を待っているかのようだった。
「あの空を閉ざした暗闇を……再び解き放つ為の鍵だよ」
アイの言葉はどこか抽象的で、哲学的なニュアンスをわざと織り交ぜ、真実を隠すかのようだった。
私の脳裏に焼け付いた記憶も断片的なモノであり、自分の目的は鮮明には分からない。
ただ、この左目は、確かな何かを、私を導く為のモノであるかのように感じる。
私達は歩みを進める。
夜光虫の輝きを見るに、確かに都市としての機能は生きているが、機械は生きておらず、厳密に言えば夜光虫のみが生きているというべきだろうか。
灰が降り積もったネオンも僅かながらぼんやりと輝いており、苔や黴、灰さえなければ本当にこの道を往来していたはずの人や機械だけが忽然と消滅したかのような印象を感じる。
「……人工真素生成回路による有機的エネルギー永久機関から生じる疑似生命体、夜光虫の発する赤い光は破滅の光……人々や機械が気付いたり、演算するのが遅すぎたんだ。かつては希望の輝きとも言われていたこの蛍モドキも、いつしか深海の時代を呼ぶ引き金の一つになっていた……この光は、病んだ光だ」
「……分子レベルで環境を蝕み、崩壊させる輝き。黒い雨を降らせ、全てを灰に還した元凶の光」
「あぁ、そこは知ってたんだね。そう、あの光は元々人の眼には触れないはずのものだった。でも考えが甘かった、どんなに建物を堅牢にして、永久機関から汚染物質が漏れ出さないようにしようとも……」
口の中に灰が入り込み、水分を奪ってぱさつかせる。
その感覚に、私は改めて自分だけがこの世界で生きている事を感じさせられた。
「……原因は分からない。ただ、人々や機械達の病んだ思考が、その綻びが、ある種の波長を産んで、機関の破綻を呼び寄せたのかも知れない。きっとみんな、光を求めてたんだ……それがどんなに病んだ輝きだろうと、ただ縋れる神が欲しかったのかも知れない。終わりのない観測に疲れ切った自分達を休ませてくれる、絶対的な舞台装置を、ね」
「破滅の望みが……いや、ただ休みたい、安らぎが欲しいという人々の潜在的な意思が、真素の浸食に影響を及ぼした、と」
「うん……たぶんね。この物質は魔術の類だよ、それを科学で蓋をしたんだ……その共振と赤い輝きは、ひとつの世界を越えて、全てをここに集約して、共倒れさせるほどの大魔術と化していても不思議じゃない」
首筋を走るぴりぴりとした感覚が不意に走る。
私はスーツの中に灰が入り込んだのだと思い、軽く掃った。
「そして……みんな、灰になったよ。観測する目を休ませるために……」
「……」
「……もう、この星空を見上げる目はどこにもない……全て残らず、灰に果てたんだ」
アイの話を聞いた私は、体に付着した灰を掃う手を止めた。
ただ霧となってこの空間を埋め尽くす灰に、どこか私は、懐かしさと、母のぬくもりを覚えたからだ。
今となっては……ただただ冷たく、こそばゆいばかりだが。
「もう、一度燃え尽きた灰は意味を成さない……でも、その上に芽生える命だってある。その為には、空の輝きが必要なんだ、きっと」
暗く閉ざされ、灰を降り積もらせるばかりの天を見上げた。
それは、黒い雪を降らせる、冬の空のようだった。
……私は、それをこの目で観測したことは無いが。