Ⅱ
幸い鋼鉄の自動ドアは機能していたようで、私が触れるまでもなく扉は開いた。
しかし問題はその後だった。
『……きゅるるるるる』
暗闇の中で揺らめく紅い輝き。
しかしそれは夜光虫のそれとは明らかに違い、不規則で、より生物的な動きをしていた。
そして鼓膜を擽るこの声は、どう聴いても人の声帯より発せられているものだった。
一瞬、私はまだこの世界に生き残りが居るのだと期待した。
しかしその期待はそこから一秒と立たずに、風を切る音と共に打ち砕かれる。
『くる、るるるるるる……』
「……っ!?」
暗闇より飛び出した紅い閃光は、人の形をした単眼の怪物の眼より発せられていたものだった。
瞬間的に反応出来たのはそれが限界であり、次の瞬間には裸の肌に爪が食い込み、そのまま押し飛ばされ背中を鋼鉄の壁に打ち付けた衝撃が全身に走った。
胸の肉を引き裂かれ、赤く生ぬるい液体……つまり血液が流れ出ているのに気付き、咄嗟に立ち上がって怪物に向き直った。
「……」
『しゅるるるる……』
床に四つん這いになり、獣のように背筋を伸ばしてそろりそろりとこちらの様子を伺っているその姿は、一つ目こそすれ、私と同じ人間の姿に変わりなかった。
それ以外に違う所と言えば、全裸の私に対して強化外骨格とも見て取れる灰黒い密着式のスーツと、どう見ても物事を見て観測し判断する知性、理性、自我が無いと思えるところだった。
そのサイクロプスのような怪物……恐らく私と同じホムンクルス、アンドロイド、またはレプリカントであるだろう理性のない彼女は、胸を抑えて壁を支えに立つ私をまるで獲物を狙うかのように喉を鳴らしながら見据えていた。
「……っ」
意を決して私はその場から走り出す。
胸から滴り落ちた血液が黒い床に点々と痕跡を残していくがそんな事に構っている暇は無かった。
『……』
私の跡を追って単眼のアンドロイドが四つん這いのまま信じられないほどの速さで走り始めた。
どう考えても人体の構造上物理的に生じるリミッターを無視したその動きは改めて人間離れを極めていると認知するに十分だ。
未だ人類を見ていない私でも、私の記憶領域にあるデータがそう判断した。
「……っ!」
『るるるるる……』
遂に背後から組みつかれた私の上に、単眼のアンドロイドが覆いかぶさる。
武器も服も持たない丸腰の私は相手の強化外骨格を貫く手段すらも持たない。
どうするかと思考する間も無く、鋭い爪を備えた手が自分の額目掛けて高く振り上げられた。
「……っ!!」
咄嗟の判断で私は自分が何も纏わない素肌の状態である事を生かし拘束をすり抜けるようにして相手の体を蹴り、脱出を試みた。
瞬間的にアンドロイドの力が緩んでいたこともあり運よくすり抜ける事が出来た。
しかし、力負けして一瞬行動が遅れたのも事実だった。
『るるるる……っ!』
「――っ!」
軌道の逸れた相手の腕は、真っ直ぐ、私の左目を貫いた。
直後、正常な機能を喪う左眼球。
先ほどのかすり傷では一切感じなかった痛覚が、ここに来て絶頂へと達したのを感じた。
「……っ」
出血が止まらない。
応急処置する手段も無い為、地面を蹴ってとにかく相手との距離を稼ぐ。
アンドロイドの右手にはべっとりと赤い私の血液が付着し、その爪には眼球が刺さったままになっている。
もはや取り返したところで修復は出来ない。
生まれて初めて覚えた激痛に絶句しながらも、私は再び細い一本廊下を走り出す。
しかし直ぐに自分の直感が右前方に空間の気配を感じ取った。
アンドロイドの追跡をすれすれで交わした私がその空間へと転がり込むのと同時に、埃を舞わせながら扉が厳重に閉まった。
「……」
あまりの激痛に生きているはずの右目の視界まで歪む。
未だに出血が止まらない左目を抑えつつも、ようやく落ち着いたと一息ついて顔を上げ、ノイズ混じりの眼で周囲を見渡す。
しかしその落ち着きも、一時のものだったと思い知らされた。
部屋を覆い尽くす無数の黒いケーブル。
それらはうねうねと触手のように蠢き、私の体に這いずり始めているのにも気付いた。
一瞬にして私の脚を拘束し身動きを取れなくしたそのケーブルの根本は部屋の中央に位置する妙な棺桶型の装置より発せられている。
「うっ……」
腰までケーブルに覆い尽くされた体は黒く染まったようにも見え、その力によって無理矢理中央の棺桶型の装置へと引き寄せられていく。
抵抗も出来ずに首から下を全身縛り上げられた私は遂に棺桶の前に立った。
そしてその装置の中を見下ろし、残された右目を見張った。
人が居るのだ。
いや、正しくは人だったモノ、だろう。
胸元で手を組んだその裸の死体は、女性の姿をしていた。
白と黒の髪を持った死体の両目があるべき場所にはそれが無く、ただただぽっかりと穴が開いている。
右目の周囲に傷跡が確認出来、恐らく生前に潰されたと推測出来るが、左目に関してはそれよりも後にえぐり取られたと思われる。
私がまじまじとその死体を見ようと思った刹那、装置の蓋が開いた。
それと共に外気と触れ一気に風化が進んだのか、死体が灰の様に崩れ始め、観察する間も無く黒い灰となって棺桶の中に積もるばかりであった。
何が起きているのかも分からぬまま顔を上げた直後、突然何かが私の左目目掛けて真正面から飛んできた。
「っ!?」
凄まじい衝撃は頭蓋骨にまで響き渡ったのが良く分かる。
その反動を真正面から受けながらも体はびくとも動かせない為、首に酷い負担がかかる。
しかもそれだけでは無かった。
「……っ、ぐっ、あぁああああ!!!???」
消滅したはずの左目が再び悲鳴を上げるほどの痛みを走らせ始めた。
それだけではない、何かが左目の奥から頭部全体を浸食し脳まで達するかのような痛みが広がり続けるのを感じる。
肉体と思考が未だに上手く結びついて無いのか、悲鳴が抑えられない。
しかしその痛みは一定を超えた段階で全く感じなくなり、それどころか、恐る恐る目を開けてみれば視力を元通りに回復していたのだ。
「……っ?」
脳の処理が追い付かない。
しかしそれから間髪入れずに更に私の脳に負荷がかかるような出来事が起きた。
「よし……接続完了。ちゃんと見えてるみたいだし、問題無し。聞こえてるかな?」
「っ!?!?」
脳内に突如響く、自分の知らない声。
私は混乱する。
「あぁごめんごめん、このケーブルもあと少し我慢してね……あと少しで視線の同期も済ませるから」
私の混乱を他所に、脳内の声は会話を続ける。
「いやぁ驚かせて本当にごめんね。僕は……AIZ:013。アイ、って呼んでね」
「あ……い……?」
余計に思考をかき乱されているが、今初めて僕ははっきりとした言葉を発した事に気付く。
「そう、僕はアイ。君は生体アンドロイド、偽装人間Unknown:Ωタイプだね?」
「……」
「じゃあ君の名前は『アンク』って事にしよう。お互い呼び辛いだろう?」
「アン……ク……」
私は自分の名前というものの必要性が理解出来なかったが、静かに頷いた。
「よし……あーらら、僕の体は朽ちちゃってたか……まぁいいか、今更戻れるものでもないし……」
「アイ……あなたは……生存者?」
「見ての通り生存はしてない。観測する能力も無い。そもそも君がここに来るまで僕は存在すらしてなかった、君に観測されて初めて僕は僕として存在可能となって、目覚める事が出来た……といって、今は君の脳を借りる形で何とか生きながらえてるから、言ってしまえば僕は君の体の一部、デバイスに過ぎないよ」
ふむ、と私は声を漏らす。
未だに体が動かせない。
「あぁごめんごめん、やっと生成が終ったみたいだから引き剥がすね」
アイの声と共に、私を縛り上げていた拘束がほどけた。
なんとその下には、先ほどの単眼のアンドロイドが身に着けていた物と似た密着型のスーツが装着されていたのだ。
「君の身体能力補助とコンピューターの操作補助を可能にするドレスだ、急ごしらえだけど、十分な性能になるはず……それとこれを」
再び僕の真横でケーブルがとぐろを巻いたかと思うと、その中からひとつの黒い杖のようなモノが現れた。
触れて見て分かったのは、それが長身の電磁ライフルであるということだった。
「杖替わりと護身用に使うといいよ……さて……まずはここを出るとしよう」
「でも……そこにアンドロイドが」
「あぁキュクロスか……あいつらは量産されたアンドロイドだ。細かい話は後でするけど……そのライフルがあれば大丈夫だ。さぁ、行こう」
アイの言葉に僕は軽く会釈して、扉を開いた。
瞬間、目前より飛び掛かってくる黒い影と閃光。
それを瞬時に見切った私は拳を硬く握りしめ、顔面目掛けてそれを打ち放った。
『っっっ』
顔面を殴りぬかれた単眼のアンドロイド……キュクロスは身を捩じらせながら地面を転がり吹き飛んだ。
十分な距離を稼げた事を確認した私はライフルを構え、引き金に指を掛ける。
「あたれ……っ!」
『……るる』
キュクロスが体を起こそうとした瞬間、私がライフルの引き金を引くと赤黒い閃光がレール状になった銃身を迸り、赤い電撃の弾丸が一直線に相手の頭部目掛けて瞬いた。
「……っ」
『……る』
その場を満たす静謐。
しかしその刹那、突如ソニックブームの如く爆音と共に周囲の鋼鉄製の壁や床が私の目前から捲れ上がり、電子機器のショートによる爆発を巻き起こしながら先ほどの電撃の軌跡をなぞる様にしてキュクロスの方へと押し寄せ、次の瞬間、衝撃波を受けたキュクロスが頭から足先に掛けてねじれながら嵐に揉まれた新聞紙のように吹き飛ばされ、瓦礫に巻き込まれながら姿を消した。
やがて降り積もった鋼鉄の瓦礫は黒い灰となり、砂の城のようにさらさらと崩れるばかりの静けさだけが残った。
「よし……ついでに外への道が開けたみたいだ。細かい話は外に出てからしよう……さぁ」
「……うん」
私はライフルを杖のようにして床に突き、鋼鉄の遺灰を踏みしめ、蹴散らしながら自分の生まれた場所から、暗い光が差し込む外の世界へと踏み出した。




