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.I

 世界から観測者達が消えた。


 星空を記録する者達が消えた。

 歴史を記憶する者達が消えた。

 自身を認知する者達が消えた。


 世界を見る目は失われ、ただ真空の「無」のみが宇宙を埋め尽くした。


 もはやそこには何者も存在しない。


 いつしか星々の光も途絶え、その暗い空すらも観測する者達は居なくなっていた。


 世界から、全ての「目」が喪われていた。


 私の記憶領域にはただひとつ、その事実が観測された。


 遠く、光が見える。

 不規則に揺らめき斑模様に変質を繰り返すそのスペクトルは、私の閉じた瞼を浸透して眼球の奥、モニターレンズの表面をチラついた。


 私は目覚めていた。

 あの虹色の輝きは揺らめく人工羊水の錯覚に過ぎず、正体は夜光虫による赤い赤い光だと気付ける程度に、私の意識は覚醒していた。


 心臓はまだ動いていない。

 無の記憶が脳裏に焼き付いたからなのか、あの赤い光がもたらした人工羊水のスペクトルが不完全な状態の私に目覚めを促したのか。

 どちらにしても、私は生き始める前に目覚めてしまった。


 呼吸もまだ必要としていない。

 腹部の端子……臍に接続された動力ケーブルから必要なエネルギーは供給されている。


 脳だけが目覚めてしまったのだ。

 所謂、私は夢……胎児の夢を見ている状態なのかもしれない。

 もっとも、私に母が居ないことなど、この記憶領域に焼け付いた事実がナマナマしく示しているが。

 仮にこの記憶が母のモノだとすれば……あぁ、なんて母親の心は恐ろしい事なのだろうか、と、私は少し体を捩じらせようとした。


 そのほんの、指先の動きから始まり、たったその弱々しい力は僅かに人工羊水を震わせ、次第に増幅した振動は、私とこの命のスープ、無数のケーブル類をため込んだ薄膜の人工子宮を引き裂くには十分なモノとなってしまった。


 直後、抑える間も無く勢い良く流れ出る羊水。

 共に流されてゆく配線類に引かれて、私の体も子宮の外へと引き摺り出されていった。


 白濁色のぬらりとした羊水が次第に肌から離れてゆく。

 塔のような形状の人工母体装置の頂点、人工子宮から流れだされた私は配線類が体に絡みつき、逆さま宙吊り状態になってしまった。

 次第にケーブルがたるみ始め、私の体はゆっくり、ゆっくりと頭上の地面へと近付いていく。


 肌に纏われていた羊水が殆ど流れ落ち、ちりちりとした感覚が全身を撫でまわす。

 閉じていた瞼を薄っすらと開き、細目で周囲の機器類を見渡した。

 私は初めて、この静かな世界に生まれたのだ。


 人工母体装置の生命維持機関中腹まで降りたところで、遂に私の臍部端子に接続されていた機械仕掛けの臍の緒が切断された。

 それと共に全身に走る電撃。その衝撃は未だ目覚めていなかった心臓を圧迫し、起動を促す。

 絡まっていたケーブルが柔らかい肌を手放し、自由落下に身を任せた私は頭から地面に落下した。


 今まで一切の風すら吹かず、埃のひとつも舞わなかったこの世界に、初めて風が、小さな空気の動きが流れる。

 いや、久し振りと言うのが正しいのかも知れない。

 地面に打ち付けられた私は、未だ柔らかな手の平で鋼鉄の白い床を撫で、半身を持ち上げる。


 心臓の弱くも目覚め始めた鼓動を感じ、同時に凄まじい息苦しさが込み上げてくる。

 そのまま胸と腹部を抑え、顔を地面に向け、勢いをつけて喉の奥から呼吸機関と消化機関を満たしていた人工羊水を吐き出した。

 それと入れ替わるように、埃の混じった苦い苦い空気が気管を撫で、肺を満たす。


 私はこの世界に産まれた。

 今更、生まれたのだ。


 震える両足でゆっくりと覚束無い足取りで立ち上がった私は、全身のやわらかだった産毛が根をしっかりと張り始め、空気に触れた生肌が次第に外圧から耐えうる肌らしい硬さへと急激に、しかし段階的に変化していくのを感じた。

 透明だった体毛は外気に触れたからか銀色へと変色し、指先の爪は肌より更に硬く、肌の色も次第に色付き始めているようだ。


 両の眼球もちゃんと機能している。

 すっかり出来損なったまま生まれてしまったかと思い込んでいたが、この脳裏に焼け付いた記憶こそが、私の起動スイッチだったのかもしれない。


 より急速に外界でも耐えうる肉体へと整った私は、とりあえず周囲の機器類に触れてみる。

 ……全く機能していない。

 いや、動いてはいるようだった。

 しかしこちらの操作は全くと言って受け付けてくれなかった。何者かが介入してこの施設の操作権限を掌握しているとも考えられるが、この記憶が確かならそれもあり得ない。

 それとも操作する者がおらず、悠久なる時の流れの中で、この施設そのものが自己意識を持ったひとつの存在となったのだろうか。

 ……どちらにしても、何も得られないこの場所にはもう意味は無い。

 踵を返した私は湿った髪を手ではらい、自らが生まれ落ちた生誕の地を後にする事にした。



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