2.
タオルで一通り、上から順番に濡れたところを拭き終わると、お礼を言って定位置に移動した。
定位置というのは、六人がけテーブルの窓側の一席。そのダイニングテーブルには綺麗な緑色のクロスが敷かれていて、とても家庭的だ。一人暮らしの男性のマンションには似つかわしくない。
彼は慣れた手つきで温かい紅茶を差し出す。この場所に座ると、いつも決まってそうしてくれる。
「いただきます」と言い、私はすぐに一口飲む。変わらない何度も飲んだ味にほっとする。
なんとなく、差し出された彼の右手を目で追っていた。男の人の手というものは、なんて素晴らしいのだろうと思いながら。
特に彼は、誰よりも美しい指と爪を持っている。
長く細い指、整った爪の形、それから爪半月との割合。いつ見ても、ものすごく絶妙で美しい。
「寒くない? 暖房、強くしようか?」
遠山さんが心配そうに聞いた。
部屋は適度に暖かく、温かい紅茶を飲んだせいか全く寒さを感じていなかった。
私は横に首を振る。
「修学旅行はどうだった?」
遠山さんは、私の前の席に座ってそう聞いた。
「……楽しかったですよ」
ガサゴソと自分のバックをあさり、「どうぞ」と言って、ぎこちなくお土産を渡す。
「開けてもいいかな?」
軽く頷く。
「ふふ、ありがとう。ずいぶん可愛いストラップだね。修学旅行って言葉の響きがなんだか懐かしいな。もう、遠い昔だ」
遠山さんはご当地キャラクターのストラップを揺らしながら「ホントに可愛いね」と言って、そのストラップに負けないくらい可愛らしく笑った。
そんな歳でもないはずだ。多分(聞いたわけではないが)二十代の後半だと思う。どう見たって、三十はいっていないだろう。
「みさとさんとは会わなかった?」
彼は何故か、自分より大分年下のみさとちゃんをさん付けで呼ぶ。
そして、明るい口調で更に続ける。
「前に聞いた時、旅行の日程も場所も一緒だったから、偶然向こうで会うこともあるかと思って」
私とみさとちゃんは、幼稚園、小学、中学と一緒だったけれど、今は違う高校に通っている。
「遠山さんがみさとちゃんに会いたいんじゃないですか?」
思わず厭味のように返してしまう。
「……どうして?」
彼の目が見開かれた。
私だって本当ははっきりと分かっている。他意があって言った言葉ではないということを。
何とも思っていないからこそ、ただの質問として平気で聞くことができるのだろう。
私が幼馴染であるみさとちゃんを、密かに
友人リストから外したことを彼は知らない。
その理由は、彼女と遠山さんが別れることになった原因によるものが大きいけれど、彼はそんなことを知る由もないのだから。
わたしは、目の前の遠山さんをじっと見つめる。
「何?怖い顔して……」
彼は言った。
「私は……遠山さん、悪くないと思います」
彼は不可解といった顔をした。
私が何のことを言っているのか、分かっていないに違いない。
こういうずれているところ、知っているけれど、さすがに少しイライラする。
半年前、二人が別れたことを、私はみさとちゃん本人から聞かされた。
彼女は常に、私には隠すことなく何でも話していたから、それは至極当然の流れだった。
結果的に言えば、彼女にとって遠山さんと別れた事実なんてたいしたことではなかったようだ。例えるなら、お昼に売店で彼女の好物のチョココロネが買えなかったくらいの些細なこと。
遠山さんは多分その時、みさとちゃんの五番めあたりに位置づけられている彼氏で、彼の代えなどいくらでも居たのだ。
そんなことより、ただ彼女はプライドを傷つけられたということにいたく腹を立てていた。
どうやら彼は、迫るみさとちゃんを拒んだらしい。
病気(性的不能者)ではないかと思い、みさとちゃんは彼を押し倒し、確かめようとしたのだそうだ。まるで逆レイプ。すごいことをする。
彼は言った。「まだ、そんなことをするつもりはない」と。「君のことを良く知らない」とも。
美しいみさとちゃんは呆れて、暴言を吐いた後(そんなことを言う人と付き合ったことがないから理解できなかったのかもしれない)、二人はそれきり別れることになってしまった。
私は、その時初めて彼女を妬ましく思った。幼馴染だというのに、彼女にそんな感情を持ったのはその日が初めてで、同時にそんな浅ましい行為をし、別れるという選択をした彼女を可哀想に思った。
彼の優しさが分からない、とんだ愚か者ではないか、と。
今までだって、彼女が複数の男性と付き合っていることは知っていた。
けれど、関心なんてこれっぽっちもなかったし、正直、彼女が相手の男性を傷つけようと弄ぼうと、逆に弄ばれようと(冷たいけれど、それは自業自得だ)どうだってよかった。
でも、今回だけは違っていた。紹介されたときに、一度会っただけの遠山さんの顔を思い出せるはずもなかったのだけれど、世の中の男も捨てたものではないのだと、妙に嬉しく感じた。
そんな出来た人がこれから彼女の前に現れる可能性は極めて低く、私が「勿体無いことをしたんじゃない?」と言ったら、「そうでしょ? 変な男なの。やりたいくせに無理しちゃってさ」と、とんでもなく的はずれな答えが返ってきて、私は一層彼女を幻滅する羽目になった。
それから少しして、彼の代わりだろうか。みさとちゃんには、また一人新しい彼氏が出来たようだ。
その新しい彼が、何番目に位置づけられているのかは、もう知らない。