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夏、恋に落ちて

作者: 花衣紫月





「で、ホントのところコーヒーと紅茶って、どっちが売れるんですか?」



それは実に唐突な質問だった。

明日も晴れますかねえ、なんて天気の話題を出すのと同じくらい自然な流れ。

真意を探ろうと黙ったまま視線を合わせれば、ニコニコと邪気のない笑みを向けられて、途端に脱力感に襲われる。

そうだ、この子はこういう子だった。



「…その問いは、この店がコーヒーに拘っているのを知っていてのものですか?」


「そりゃあ、もちろん。マスターの淹れるイルガチェフェは、どの店にだって負けないもの。」



少女は楽しげにグラスの氷をストローでつついている。動もすると子供っぽく見えるその仕草は、目の前の彼女にかかれば思いのほか違和感を感じなくて。不思議な子だなと、何とはなしにそんなことを思った。


BGMのない店内で、シャラシャラとクラッシュアイスの鳴る音が空調と相まって、ひんやりとした心地よさを連れてくる。硝子一枚隔てただけなのに、窓から覗く燦々とした日差しの強さとはえらく対照的だ。

こんな時は、少女曰くだが、タオルケットと枕があればすぐにでも眠りにつけるだろう。



「そうですね…月並みな言い方になりますが、やはり好みによりけりでしょうか。夏は心持ちコーヒーの方が多いような気もしますが。」


「まぁ、こうも暑いと、キンキンに冷えたコーヒーの誘惑には勝てないよねえ。」


「そういう君はコーヒー派なんですか?」



考えてみれば、彼女がここで注文するのはいつもコーヒーだけのような気がする。季節や気分によってホットかアイスの選択肢はあるのだろうが、紅茶を飲んでいる姿は見たことがない。

今日とて先程から飲んでいるのは、本日のおすすめ、オリジナルのビターブレンドだ。



「やっぱり、そう見える?」


はにかんだような笑みが、少女と女性、端境期特有の恥じらいを含んだものに変わる。それは彼女の年頃には相応のもので、なぜだか少しホッとした。



「ええ。君の年にしては珍しいなと思ってました。」


「コーヒーも大好きなんだけど、最後に口の中に残るあの苦味だけがどうしても苦手で。だから、どっちかというと紅茶派なのかも。」


「そうなんですか?」


驚いた。だって、


「毎回毎回、頼むのはコーヒーだって言いたいんでしょう?」



今度は悪戯っ子みたいな目で、こちらの眼差しを受け止める。サイネージのようにクルクルと変わる表情は、飽きることを知らなくて。もっと深く、それ以上を知りたくなる。


……知り、たくなる?



「マスターのコーヒーは、酸味も苦味も含めてバランスばっちりだから。最後に苦さがくるって分かってても、つい頼んじゃうのよね。」


「それは、嬉しいな。ありがとう。」


「でも、いちばんの理由は大人に見られたかったから…って言ったら困る?」


「え…?」



三十路を過ぎたいい大人が、年端もいかぬ少女相手に応えを返すことすらままならないとは。

内心の苦笑と気づかれないほどの僅かな動揺はさておき、先程の言葉でひとつピンときたことがあった。



「もしかして、シロップ…」


「おっと。ついにバレちゃった。」


小さく舌を出して戯けてみせる。ちらりと見えた鮮やかな赤に、またしても心臓がドク、と高鳴った。




そう。

少女がシロップを入れるのは決まっていつも最後の方。それもグラスの中身がほとんどなくなってから、ようやく手を伸ばすのだ。

個々の嗜好に捉われていては客商売なんてやっていけないことくらい百も承知だけれど、ここにきてようやく分かった。


本当は苦手なのに、なかなか入れようとしないのは、きっと彼女なりの反抗心。足掻いたところで、結局最後は縋るしかないのに。

そうやって大人になりたいと願いながら、心のどこかで子どもの自分を赦して欲しいと嘆いている。


ただの甘えだと言いきってしまえばそこまでだが、そんなところが愛らしくて、純粋に好きだなと思った。



…嗚呼、だから。

この関係を変える最初の一歩は、俺から踏み出しましょうか。




「先程の答え…になるかは分かりませんが別に困りませんよ。少し驚きはするでしょうけど。」


「なーんだ。ちょっとは焦ってくれたかと思ったのにな。」


「君よりは多少、人生経験がありますからね。」


「また、そうやって子ども扱いする。今にそんなこと言ってられなくなるんだからね。オンナノコが大人になるのは、ほんと、あっという間なんだから。」



肩を竦めてみせれば、膨れた頬と共にませた答えが返ってきて、それがまた心の柔らかい場所をくすぐっていく。

同時に湧き上がるのは、とうに失くしたと思っていた嗜虐心。



「知ってる。だからはやく俺に付け入る隙を与えさせてよ。」


上質紙のごとく微笑んで、丸い頬に触れれば、弾けんばかりに飛び上がってこちらを睨めつける。



「…っ詐欺師なの?」


「失礼な。大人の余裕と言ってくださいね。」


思ったとおりの反応に、くつくつと肩が揺れた。





出会ったときの第一印象は、今時にしては珍しく相手の目をちゃんと見て話す子だったけれど。今の彼女にはそれだけではない、あどけなさと艶やかさを綯交ぜにしたような美しさがある。



それは、蛹から蝶が羽化するように。

蕾から花開いていくように。


一瞬たりとも見逃せない、刹那の世界。





季節は巡り、幾度目かの春は行き過ぎた。




夏、恋に落ちて




過去の苦味さえ浮かれた熱の内側に溶けてしまえば、最後に残るのは、彼女がくれたシロップのどうしようもない甘ったるさ。


けれど、それさえ心地良いと思う自分をもうそろそろ認めなくてはいけないのかもしれない。

認めた先に待つ何かが、二人の関係性を変えていくような、そんな気がするから。






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