終わらない地獄
今日で全てが終わり、新しく始まる。
彼女はベッドから起き上がると、自室の机の上に置いてある一冊のノートを手に取った。そして、ノートをぱらぱらと無造作にめくる。
半分も埋まっていないノート。けれど、彼女にとってそれは、人生そのものだった。
彼女はノートに何かを書いた。そして、ノートを机の上に戻すと家を出た。手に持つものは何もなく、着ている服は必要最低限の簡易なものだった。
彼女は黙々と人の少ない夜道を進んでいく。目的地は、忌まわしい思い出がつまった場所。幸せな思い出もあったはずなのに、思い出すのは忌まわしいものばかりになってしまった所。
それは、彼女の通っている学校だった。
学校に着くと彼女は校門をよじ登り、校舎へと向かった。夜でも鍵が開いている場所はすでに確認している。
ずっと前から決めていたことだった。この忌まわしい学校で死ぬと決めていた。そして、部屋に置いてきたあのノートが今までの苦しみや悲しみから救ってくれる。その為に、彼女は計画を事前に立てていた。
校舎の中に入り、階段を上り、彼女は屋上へとたどり着くと、ゆっくりと空を仰いだ。空には町の光に邪魔されて見えていなかった星たちが、光に邪魔されずに力強く瞬いていた。
風が頬をくすぐる。夏の終わりを告げる風は生暖かくも少しだけ涼しげで、彼女は気持ち良さげに目を閉じた。
少し経ってから、彼女は屋上の柵へと向かっていく。彼女の心は恐ろしいほどに落ち着いていた。躊躇なく屋上の柵を越え、下を見下ろす。下は暗く、夜道を照らす街灯の灯りがほんのりと見えるくらいだった。
「あの子に届くかな。」
彼女は小さく呟く。その疑問にこたえてくれる者は誰もいない。
「ずっと信じてた。大切だった、大好きだった。…幸せだった。なのに、どうして?何がいけなかったの?…もう何も信じない、信じられない、何もいらない。幸せなんて、もうどこにもない。でも…、何でかな。やっぱり、少しだけ怖いや。」
そう言いながら、彼女は涙を流した。
震える足を一歩前へと踏み出す。そう、何もない空中へと。身体の重心が前へと移動していくのがわかった。
身体が宙を舞った。
風を切る音がする。暗闇の中を落ちていく感覚が心地良い。
「私は今日で終わりだ。でも、地獄は終わらない。終わらせない。今日から新しく始まるの。」
彼女は微笑んでから、ゆっくりと目を閉じた。
死後の世界があるのなら、私はきっと地獄なのだろう。
そんな事を思っていた。
死への恐怖など、もうどこにもなかった。
彼女はどんどん落ちていく。
そして小さくもはっきりとした、重くて鈍く、また哀しさに包まれた音が、静寂に包まれた夜の学校に響き渡ったー。
『このノートは私の苦しみを記したもの。
私の地獄のような日常を記したもの。
私には縋るものがこれしかなかった。これに思いや出来事を綴るしかこの苦しみに、悲しみに、耐える方法がなかった。
もうどうすれば良いのかわからない。
ただ一つ、わかることは「人間はこんなにも脆く、些細なことに苦しみ、悲しみ、傷ついて壊れてしまう」ということ。
私は壊れてきている。もう、無理なのかもしれない。
誰でも良い。誰でも良いから、私をこの地獄から助けてー。』
嫌悪感と吐き気がする。息が苦しい。
彼女はノートを置き、ゆっくりと深呼吸した。
彼女の頭の中は、今までの出来事が一斉にフラッシュバックされていた。
呼吸が落ち着き、彼女はノートを再び手に取ると続きを読み進めた。
『新学期が始まった。私の最悪な日常が戻ってきた。クラスは去年と変わらずそのままで、私の日常を変える事はきっとできない。このクラスには私を嫌う人々と巻き込まれたくないと私を見捨てた人々だけだ。
一人で過ごすのはもう慣れた。ただ、少し寂しいけれど。
私に残されたものは「苦しみ」と「悲しみ」だけ。
私は自分の席から動かず、誰にも気づかれないように、静かに過ごしていた。できればこのまま時が過ぎ、一日を終えてほしい。
そう思っていた。
ふとした時、クスクスと笑い声が聞こえた。そして、声を潜めて出した声。
「キモい。」「ウザい。」「死ねば良いのに。」
そんな言葉が聞こえた。
私を嘲笑う声、侮蔑する言葉が楽しげな会話に混ざって聞こえてくる。
苦しくて、心が重く痛くて、たまらなかった。
そして、何も言い返せない自分に腹が立った。
私はただただ涙を堪えて机を見つめていた。』
『これは、「いじめ」なのかもしれない。けれど、些細な悪口はどこにでもある。これを「いじめ」といって納得してくれる人がいるのかわからなくて私は誰にも相談できずにいる。
違うクラスに仲のいい友達はいた。けれど相談はできなかった。
重たいと思われたくなかったのだ。この悩みは私にとっては深刻で、この悩みを話したら嫌われてしまうのではないかと、不安で今も話せずにいる。
私はこの溜まった悩みや苦しみを誰にも話せず、自分の中に溜め込んだまま過ごしている。私は徐々におかしくなり、一人になると涙を流し、すぐに癇癪を起こすようになっている。
このままでは、友達や家族にバレてしまう。それが一番怖い。』
『私は辛かった出来事や私の気持ちをこのノートに書く事にした。このノートは書く時以外、見つからないように隠している。書く時も家族が寝てから書くようにしている。
このノートに思いや出来事を書くと、心に溜まっていたものが少しだけ軽くなった。けれど、学校に行くとまた心は重くなる。
どうすれば良いのだろう。そろそろ限界だ。』
ノートには今までにあった出来事とその苦しみや悲しみが複数に分けられて綴られていた。
ノートには涙を流したのか文字が滲んでいるところもある。
彼女はノートに書かれた出来事を読み進めていく。そして、彼女はあるページで手を止めた。
「何これ…血?」
最後のページには『ユルサナイ』と赤黒い文字が書かれていた。文字からは少しだけ生臭い匂いがする。それは、この文字が血で書かれたことを証明していた。
頭がズキズキと脈を打つ。彼女は震える手でページをめくった。
『儚菜へ
このノートはあなたに届きましたか?あなたがこのノートを読む時、私はきっとこの世にいません。
私はずっとあなたに伝えたいことがあった。聞きたいことがあった。
あなたはいつから私の事が嫌いだった?私はずっとあなたの事を信じていた、大好きだった。
なのに、あなたに裏切られて私はもう何を信じれば良いのかわからなくなった。
あなたが私の悪口を言って、周りはすぐそれに賛同した。あなたは友達が多いし、私はあまり友達が多くなかったから、私はすぐに居場所をなくした。
私は、なぜあなたに嫌われてしまったのかわからなかった。気づかなかった。
私は辛くて辛くてたまらなかった。死にたいと、何度も思った。
けど、その時に死ななかったのはあなたをまだ少し信じていたから。
きっとあなたに謝れば昔のように幸せな日常に戻れる。あなたとまた仲良くやっていける。
そう思っていた。
でもあなたに謝ったとき、あなたはこう言った。
「最初から好きじゃなかった。友達だとも思ってなかった。謝罪なんて求めてない。私が求めるのはお前が私の前から消える事。」
この瞬間、私の中にあった一粒の希望がなくなった。
ああ、私は死ぬしかないんだ。そう思った。
そして、私は死んだ。
けれど、死ぬだけは嫌だったの。私はあなたに全てを壊された。だから、私は死んであなたの全てを壊してあげる。
私が受けてきた苦しみを、悲しみを、痛みを。
同じくらい、いやそれ以上に受けるといい。
これを読んでいる時、あなたは後悔しているでしょう。
私を死なせてしまった事、私と関わってしまった事。
だって今、あなたはー
私の復讐を受けているのだから。』
儚菜の手からノートが落ちる。彼女の目からは涙が溢れていた。
ノートを書いた夏花、死んだ彼女の言った通りだった。
そう、儚菜は今絶望の中にいる。夏花と同じ、地獄のような日常を過ごしていたのだったー。
一人になるのが怖かった。常に周りの目を気にして行動して浮かないように必死で自分を取り繕っていた。
それなのに、彼女は…夏花は自由で、自分の意思を持っていた。彼女といると、自分が馬鹿らしくなった。私はいつも怯えて過ごしているのに、彼女はいつも笑顔だった。
彼女は自分勝手ともいえる性格なのに、常に周りには人がいた。彼女の事を嫌いという人はいたけれど彼女を好む人もいた。それに、彼女は自分を好いてくれる人がいるならそれで良いという考えを持っていた。
私は羨ましかった。彼女の事がとても。そして、同時に妬ましかった。
だから、私は彼女を嫌う人を味方につけて彼女の悪口を言う事にした。一人で彼女を嫌っては意味がない。彼女を絶望に導く為には彼女を孤独にするしかない。
この作戦は見事に成功した。人間は簡単な生き物だ。誰かが悪口を言い始めればみんながそれに加担する。夏花への悪口はあっという間に広まって、彼女はすぐに孤独になった。
正直、快感だった。いつも笑顔だった彼女から笑顔はなくなり、彼女に近付く者は誰もいない。
私は彼女よりも優れている。
そんな優越感に浸ることができた。
ある日の事だった。
「儚菜、何で私の事を悪く言うの?私何かしたかな?何かをしたなら謝る。だから、私を一人にしないで…」
夏花はそう言ってきた。ここで彼女への嫌がらせをやめてもいい。そう思っていた。
けれど、今更元に戻ることなど不可能だった。
今、この嫌がらせをやめてしまうと私は一体どうなる?周りはまだ快感を求めている。主犯人の私がいきなりこの悪口に参加しなくなってしまえば結末は見えている。
次のターゲットは私になる。
そんな恐怖が私の頭の中から離れなかった。
「最初から好きじゃなかった。友達だとも思ってなかった。謝罪なんて求めてない。私が求めるのはお前が私の前から消える事。」
完全な本心ではなかった。彼女を好んではいなかったが、彼女を完全に嫌っていたわけではなかった。
最初はただ、彼女が羨ましかっただけだったのだ。
けれど、それは徐々に妬みに変わり、彼女を貶めたくなってしまった。
それが今、こんな事態を引き起こしてしまっている。
しかし、私はこれよりも最悪な事態を想定してはいなかった。
夏花が自殺した。
衝撃だった。彼女はそこまで脆い人間だったのかと。
いや、それほどまでに私が彼女を追い詰めてしまったのだろう。言葉は心に突き刺さるものがある。彼女の心は限界だったのだ。
私は彼女が死んでしまった後悔より、これから起こる悲劇を恐れていた。
夏花が死んだ。それはつまり、私が彼女を殺した事になる。直接的に殺したわけではない。けれど、いじめの主犯人の私は明らかに一番に責められるべき存在だった。
ああ、人間とは何で非情な生き物なのだろう。
人間は番狂わせが起これば主犯人を一気に責め立てる。そして、自分に被害が被らないよう逃げるのだ。
恐れていた通り、私は夏花の後を継ぐことになった。
昨日まで私の周りにいた人間は次々に私に非難の言葉を浴びせる。
「儚菜のせいで夏花が…」
「あんなに言うことなかったのに」
どれもこれも全て、自分を守る為の言葉。自分の地位を下げない為の言葉。しかし、どれも私の心に突き刺さった。
人をいじめるというのは相応の覚悟がいる。
周りに人がいないだけで、悪口を聞くだけで、こんなにも心は削られていくのか。夏花はこんな思いをしてきたのか。
私は何もかも遅過ぎたのだ。もっと早く気付けていればこんな事にはならなかったかもしれない。夏花は死なずに済んだのかもしれない。
彼女のように自分の意思を持っていれば。
私は彼女のようになりたくて。彼女と仲良くなるたびに彼女の凄さを思い知らされて。
結果的に私は彼女を妬み、傷つけた。
今更後悔しても遅い。私はいつまでこの地獄を耐えればいいのだろう…。
夏花が死んで、ひと月ほど経った頃だった。
私の心はすでに限界で、学校に行く事も少なくなった。幸い親は私が夏花の死を悲しんでいると勘違いしてくれたようで、詳しい事は聞いてこなかった。
そんな時、ある電話がかかってきた。
「はい、もしもし」
「もしもし、桐ヶ崎儚菜さんのお宅ですか?私、遠山夏花の母です。儚菜さんに用があって電話をしたのですが」
その言葉を聞いて、どくんと心臓が鳴った。
夏花の部屋から何か見つかったのか。私がいじめていた主犯人だとバレてしまったのか。
そんな思いが頭の中を埋め尽くした。
「はい、私が儚菜です。」
震える声で何とか答える。
「ああ、儚菜さん。あなたに渡したいものがあるんです。夏花の部屋からあなたにって書いてあるものが見つかって。」
「…え?」
思わぬ言葉に少しホッとする。しかし、まだ気は抜けなかった。
夏花が私に?良い予感はしなかった。だって、彼女とはもう縁を切ってしまっているのだから。
しかし、ここで断ってしまっては疑われてしまうかもしれない。私は彼女の母が言っていたものを受け取る事にした。
「今から取りに行っても良いですか?」
「もちろんよ、待っているわね」
電話を切り、私はゆっくりと深呼吸をする。彼女が私に渡してほしいと書き残したもの。何かはわからないけれど覚悟していかなければならない。そう思った。
私は身支度を済ませ、夏花の家へと向かった。
インターホンを押すとすぐに彼女の母が迎えてくれた。彼女の母は昔遊びに行った時とは打って変わって痩せ、少し老けて見えた。
「いらっしゃい」
「こんにちは、あの電話で言ってたものって…」
「ああ、これよ。このノート。」
彼女の母は一冊のノートを私に手渡す。何の変哲も無いノート。これに一体何が…?
「机の上にノートがあって、その脇にメモが添えてあったの。『儚菜に渡して。中は読まないで』って。渡すのが遅くなってしまってごめんなさいね、色々バタバタしてたから…」
「いえ、ありがとうございます。まだ、忙しいですよね。私はこれで失礼します。」
もう少しゆっくりしていってと引き止める夏花の母に挨拶済ませ、私は足早に彼女の家を後にした。
家へ帰り、私はもらってきたノートを見てみる事にした。ノートは表紙には何も書いてなかった。しかし私にはそれがただのノートとは思えなかった。
ノートをゆっくりとめくる。その手が震えるのを感じていた。
ノートの一ページ目には地図のようなものが書かれていた。その地図はどうやら学校の地図のようで、夜に学校の中へ侵入し、屋上までたどり着く方法が記されていた。
今思えば、私は愚かだったのだと思う。
何故か私はその地図に惹かれるようにして、夜にその地図の通りに学校へ侵入し、屋上へと来てしまったのだからー。
夏花は全てわかっていたのだ。
これからの私の運命を。私が夏花の後を継ぐ事になると。
だから彼女は死んだ。夏花が死ねば私は地獄へと堕とされるとわかっていたから。
そうか私は今、彼女に復讐されているのか。私はそれほど彼女を傷つけていたのか。恨まれるほど。こんな計画を企ててしまうほど。
冬の始まりを告げる風が私の身体に痛いほど突き刺さる。まるで私を責めているように風は吹き続けていた。
風にあおられたノートがぱらぱらとページをめくる。すると、あるページが私の目にとまった。
「まだ、何か書かれてる…?」
私はノートを拾い上げ、ぱらぱらとページをめくった。
『地獄から解放されたいのなら、そこから飛べば良い。これで全て終わり。』
夏花の計画は完璧だった。
私は彼女の思惑通り、屋上へ来た。そして私は今、地獄から解放されたいと思っている。
今の私に選択肢など残されていなかった。
私はノートを床に置くと、ふらふらと柵へと向かっていく。そして、柵を乗り越えると
「夏花、ごめんね。」
そう言って、私は空中へ身を投げ出した。
ふわりと身体が浮く。信じられないほど身体が軽い。
ずっと苦しみ続けた鎖が解けていくようだった。