標本少年 佐々木の誕生日 2016
父がくれるのは数字だけだった。
「流様!そんな薄着で出歩くつもりですか?コートをお召しになって下さい」
そう家政婦の志水さんに言われて気がついた。
今日は12月23日。薄手のシャツ一枚で外に出るのはあまりに無謀すぎる。僕がぼんやりとしている間に、志水さんはさっとコートを着せてくれた。ポケットを探ると、きっちりとアイロンがけしたハンカチに、ポケットティッシュが入っていた。世話焼きの彼女らしい。僕が思わず口元をゆるめると、志水さんはどこか安心したように微笑んだ。
「お出かけでしたら車を出しますので少しお待ちください」
「いいよ。暖房に酔ったからちょっと歩きたいんだ」
「では私がついていきましょう」
「僕一人でいいよ」
「いいえ。確かに坊ちゃまは成績も優秀ですし、そこらの大人よりずっとしっかりされていますが、まだ10歳です。身体の時間が中身に追い付くまでは、この志水に付き添わせてくださいませ」
志水さんは、緩やかな皺をたたえた手で僕の肩を撫でた。
「志水さん……」
「支度してまいります。少々お待ちくださいな」
彼女が早足に部屋へ向かう。
コートの暖かさに包まれ少し気持ちが緩んだが、左手がコート下のズボンのポケットに潜んでいる物の感触を捉え、一気に体温が下がる。
「ごめん志水さん……」
そうつぶやき、僕は気付かれないようそっと家から抜け出した。
目的地の無かった僕は、何となく最寄りの駅へ向かった。クリスマス前の街はどこもまぶしい。義務感にかられているかのように、人工的な賑やかさで満ち溢れている。クリスマスの本来の意味は知らないけれど、人々はとにかく気持ちを明るくする理由が欲しいのかもしれない。今の僕のように。
頭が考え事を始めないよう、雑音の中に身を紛らせ歩く。店にも入らず、ただ人ごみの流れに進路を任せた。しばらく行くと、夫婦らしい若い男女が目の前に割り込んできた。少しむっとしたが、よく見ると男性の方は肩を落として落ち込んでいるようだ。女性が景気良く彼の肩を叩く。
「大丈夫。これだけ店があるんだからきっとどこかにあるわよ」
対して、男性の方はしょげたままだ。
「クリスマスプレゼント争奪戦を甘く見てたよ。もっと早めに買っておけばよかったなあ。せっかくテスト頑張ったのに、あのゲーム機が貰えなかったらあいつきっと気力を無くすよ……。こんな状況でも、お金持ちなら大金詰んでゲームメーカーから譲って貰えたりするのかな?いいなあ金持ちは」
男性はやがて自分のミスを金持ちへの嫉妬にすり替えぷりぷり怒り出した。そこをぱしっと女性にたしなめられる。
「もうあんたが悪いんでしょ。任せてって言ってたから任せてたのにまったく。貧乏人の私たちは歩くしかないの。さ、もう一件回るわよ!」
「はいはい……」
彼らは足を速め、人をかき分けながら進んでいった。僕はいつの間にか、コートの上からズボンのポケットを手でおさえていた。
数十分も歩いたころ、やがて広い森林公園にたどり着いた。きっと100年以上この地を見守ってきたであろう大木たちにも、せわしなく点滅する電飾が取り付けられていた。イルミネーションさえつければ利用者もぐんと増えるだろう、と見込んだ区役所員達の軽率な頑張りに、木々たちも肩をすくめて両の手を広げるしかないようだ。
単身で憩いを求めてやってきた者を拒絶するかのように、どのベンチもカップルや家族が占領していた。区役所員たちの努力が実り、満席だ。
とにかく頭を空にしたかった僕は、他力本願に公園内巡回マップをたどることにした。少し歩くと、湖面から巻き上がった冷たい風を受けて思わず身震いした。雑踏とビルの明かりに囲まれていた時は気が付かなかったが、辺りは大分冷え込んできたらしい。志水さんにコートを着せてもらってよかった。
巡回コースの中盤に差し掛かると、区の予算が底をついたのか、街灯の光が浮き上がるだけの静かな風景にたどり着くことが出来た。ここまでくると人もまばらで、やっとベンチに空きを見つけることが出来た。
「っ冷たい!」
ベンチに腰掛けたとたん思わず情けない声が出てしまった。周りに人がいないのを見て安堵する。座ると、ズボンのポケットの中にあった物が折れ曲がり、皮膚をちくっとさして痛みを感じた。僕は仕方なくそれを取り出す。
銀行の通帳だ。
ササキ ナガレ
無感情に、実用性のみを目的に印字された文字を指で擦ってみた。カタカナは曲線が少ないせいか、ことさら温度に欠ける印象をもたらす。
その無感情を自身に焼き付けたまま、僕は通帳を開き、印刷された字を最初から眺めた。
残高…ゼロがどんどん増えていく。まるでゲームのスコアようだ。この数字が、現実世界で本当に物と交換できるほどの価値があるのか疑問に思えてくる。振り込みの日付…僕の誕生日。クリスマス分とまとめて「プレゼント」という名の数字が加算されている。1歳分、2歳分と、毎年決まった日に律儀なスコア加算記録が続いた。しかし少し前から、ランダムに数字が増えることがあった。
僕が「贈り物」になった日だ。
「っ……」
僕は思わず地面に吐瀉してしまった。せっかくのコートにもついてしまっただろう汚れから目をそむけるように、僕は身体を前かがみに折ったまま地面を睨んだ。
気をゆるめると、思い出したくない男達の笑いと感触がよみがえってくる。地面の小石を数えるか?雑草の本数を数えようか?何でもいい。頭を空に。頭をいっぱいに。どちらでもいい。
身をかがめたまま、僕はまともな思考を拒否し続けた。しかし「考えない」ことを「考える」と、思考はより深く、色濃くなっていく。僕は、誰に向けるでもなく祈るように、通帳を握りしめた。
この小さなノートの様なものに、自分が削り取られた記録が刻々と印字され続ける。これからも。書ききれなくなったらまた次へ。増え続ける数字の果てに、僕の身体には何が残るのだろう。
この通帳を先ほどの夫婦にあげたら喜ぶだろうか。その代わりに僕が彼らの子供になれたなら、ゲーム機がなくても我慢する。テストも運動も頑張る。誰にも迷惑をかけないよう努力を惜しまない。ただ、こんな残酷な数字の無い普通の生活をくれればいい。子供である自分を思い出させてくれる、普通と呼ばれる時間を。
「かはっ……!!」
僕はまた嘔吐してしまった。しかし今日はほとんど何も食べていないので、酸味のきつい液体がぽたぽたと毀れるだけだ。なかなか気持ちの悪さは止まらず、何も出ないまましばらくえずいていた。すると、誰かが僕の背中をやさしくさすってくれた。
「流様 具合が悪いのですか?」
「……」
僕は声が出ず、えずきのようなしゃっくりのような痙攣を繰り返しながらも、かろうじて顔をあげた。
そこに立っていたのは、志水さんだった。彼女はポケットからティッシュを取り出し、僕の口を拭いてくれた。もう片方の手で彼女がしばらく背中をさすると、体内の不快感が少しずつ収まってきた。やがて立てるほど回復し、志水さんに肩を貸してもらって水飲み場まで歩いた。口の中をゆすぎ、やっと気持ちが落ち着く。
「さ、ハンカチをどうぞ」
志水さんがプレスのきいたハンカチをくれる。パステルカラーの小花がちりばめられたにぎやかなそのハンカチは、ふんわりと石鹸のいい香りがする。志水さんと同じ匂いだ。
僕は「なぜここが分かったんだ?」と、主人らしくしっかりとした態度で尋ねるつもりだったのに、かわりに出てきたのは嗚咽だった。明るい色のハンカチが、僕の涙を引き取り暗く染まっていく。
志水さんはまた背中を撫で、僕が声に出せなかった質問に答えた。
「私は坊ちゃまのことが大好きですから、何でもお見通しなんですよ」
優しい声に、思わずほっとしてしまいそうになる。しかし、僕の手の中には、無意識にずっと握りしめていた現実があった。それを目にした途端、体内に沸いた不快感が思わず口から飛び出してしまった。
「……うそだよ。僕のことなんか誰にもわからない!!わかる人なんて絶対にいない!いない!!いないんだ!!」
僕は通帳を地面にたたきつけ、癇癪を起した子供のようにそれを踏みつけた。こんなことしても誰の気も引けないし何も変わらない。わかっている。けれど、絶対に肯定してくれる人間の前で、みっともなく怒りをぶちまけて甘えたかった。
…そうか、僕は甘えたかったのか。
マンガのように大げさな動きで何度も通帳を踏みつける度、頭が少しずつ冷静になる。
自分の本心が透けて見えて、この先どうとりつくろえばいいか思案していると、足元に志水さんが手を伸ばしてきた。
「わっ!!危ないな!踏むところだったよ!!」
「こんな老いぼれの手、踏んでいただいても誰も困りはしませんよ」
志水さんは笑って、ぐちゃぐちゃの通帳を拾い上げた。折れ曲がりを直し、汚れを丁寧にはらい、僕に差し出して来た。
僕は顔を背ける。
「……いらない」
この小さな通帳を放棄しても逃げられるはずがない。わかってはいるが、汚れてなお強烈な現実感を放つそれを正視できなかった。
「では捨てましょうか。でもこのままでは悪人に利用されたりしかねませんね。そうだ、燃やしてしまいましょう。こんなこともあろうかと、志水はライターを持っておりますゆえ」
そういって彼女はハンドバッグをごそごそし始めた。僕は顔を背けていたが、彼女が僕の様子をちらちら伺っているのが何となく気配でわかる。僕がそっぽを向いたままなので諦めたのか、彼女は本当にライターを取り出し、通帳の角に火をかざした。
「では……」
白い炎が、少しずつ紙を焼く臭いがする。僕は思わずその光景に見入った。僕を削りこんで印字された記録が、消える。父から与えられた唯一の「プレゼント」が。
「っっ!!!」
僕は思わず通帳に手を伸ばしていた。
志水さんは驚いて万歳し、焦げかけた通帳とライターの火を僕から遠ざける。
「突然手を出したら危ないですよ流様!」
「返して……やっぱり……返して……」
泣きながら請う僕に、志水さんはいつもの優しい笑顔で通帳を返してくれた。
また、自分の手に現実が戻って来た。身体中に黒い煙が満ちていく感覚。
心から手放したいと願うのに、どうして僕は……。
志水さんは僕の顔を見て、優しく問いかけた。
「やっぱり捨てますか?」
「……」
「苦しいのでしょう?」
「……」
僕は震えながらうなずいた。
志水さんは少し考えたあと、通帳を握る僕の小さな手に自分の手を重ねた。冷え切った僕の手にとっては、クッションの様に柔らかく、あたたかく感じた。
「それでは、旦那様に一言お伝えして、私のもとで保管しましょうか。うふふ、とったりしませんよ?必要な時、いつでも流様の好きな時に見に来てもらって結構です」
「志水さん…」
「流様があのように慌てるところなんて初めて見ました。この通帳はとても大事なものなのですね。ただ、普段傍に置いておくにはきっとお辛いものなのでしょう。そういう時は、「適当」な付き合い方がわかる時まで距離を置くとよろしいのではないでしょうか」
僕は不安げに呟く。
「来るかな。そんな時が……」
「流様の外見が、しっかりものの中身に追いつく頃には、きっとその「適当」がわかるかもしれませんよ」
「志水さん……」
「さ、本格的に冷え込んできました。早く帰ってお風呂に入りましょう」
志水さんはしゃがみ、僕をおぶろうとしてくれた。しかし、先ほどあんな八つ当たりをした僕に、彼女のあたたかい背中にのる資格はない。
志水さんは、躊躇している僕を不思議そうに見つめる。
「どうしました?」
「……僕……さっきひどいこと……」
謝ろうとして声が震える。この人に嫌われてしまったら、僕は……。
怯えながら、言葉をひねり出す。
「ご……ごめんなさい……」
それを受けて、志水さんは嬉しそうに笑った。
「ふふ。いいんですよ。逆にほっとしましたわ」
「??」
「泣き言も言わずに、大人以上に大人みたいで心配していたんです。あんな風に怒って泣いている姿を見られて安心しました。流様も普通の子供なのだなって」
「……」
志水さんの目には、僕が普通の子供として映っている。そう思った瞬間、また嗚咽がこみあげてきた。
「あらあらまた涙が。うふふ。今日は泣き虫さんですね。流様先ほど渡したハンカチは……?」
「あ……」
言われて僕は握りしめていたハンカチを見たが、もうこれ以上涙を吸えないほどびっしょりと濡れてしまっていた。
「あらあら。ま、こんなこともあろうかと」
そういうと、志水さんは新たにバッグからハンカチを取り出した。
「うふふ。私は何でもお見通しなんですよ」
その後、彼女の背中におぶさりながら帰路に着いた。僕の気持ちを察してか、わざとゆっくりした足取りで歩いてくれる。
「ねえ志水さん。志水さんは預言者なの?僕を公園で見つけたみたいに何でもわかるの?」
「いいえ。私がお見通しなのは坊ちゃまのことだけですよ」
「じゃ、将来僕がどんな風になるかわかる?」
「そうですねえ……。きっと立派な男性になられますよ」
「なれる……のかな」
僕は思わず不安になった。まともに子供の時間を過ごせなかった僕が、まともな大人になれるのか。いくら勉強も運動もがんばって「普通」を取り繕っても、きっとみんなと同じにはなれない気がする。
「僕は立派じゃなくていいから、普通の大人になりたい」
「なりたいものになれますよ。坊ちゃんなら何にだって」
「えーっ?なんかいい加減じゃない?」
僕は少し膨れて見せた。志水さんが優しく笑う。
「そうですねえ……では一つだけ『流様予言』をいたしましょうか。」
「何?」
「先ほど『僕のことなんか誰にもわからない』とおっしゃっていましたね」
「……うん……ごめんなさい」
急に気持ちがしぼむ。これだけ我儘放題しても嫌味一つ言わない相手に、ひどいことをしてしまった。
「怒っているわけじゃないんです。ただ、流様が欲していれば、きっと理解者は現れるはずです」
「……本当に?」
「ええ。でも理解者を求めるなら、流様も相手を理解する努力をしなければいけませんよ」
「……難しそう」
「ええ、とても。でもそんな難しい努力をしたいと思える相手がきっと見つかりますよ」
志水さんはきっぱりと言い放つ。眉唾物ではあるが、薄暗い闇夜の中公園にいた僕を見つけたほどの人が言うことだ。少しだけ希望が湧いてきた。
「じゃあさ、当たったら何が欲しい?何でも言ってよ。志水さんになら、あの通帳の数字全部あげてもいいよ」
「滅相もない。坊ちゃまが楽しそうにしている姿が見られるのなら、志水はそれで十分ですよ」
「普通の大人と違って欲がないね、志水さん」
「ええ、志水は普通じゃありません。流様のことに関してはエスパーですからね」
コンコン
軽快な音が部屋をノックする。こんな不躾な音を出す人間は一人しかいない。
「なんだ日和」
俺はむっとした表情でドアを開けたが、日和は何事も無いように一通の手紙を差し出して来た。
「うちのおばあちゃんから手紙です」
「そういう時は「祖母からの」と言え。志水さんの孫だって言うのにどうしてこうも…」
俺がそこまで言う頃には、日和は音もなく姿を消していた。厚かましさと逃げ足の速さだけは怒りを通り越して感心してしまうほどだ。
早速ペーパーナイフで封を切り、中身を取り出す。丁寧に三つ折りされたちりめん模様の便箋と、薄汚れた通帳だ。俺は思わず眉をしかめたが、今まで意外なほどこの通帳のことを忘れていた。たぶん、志水さんが遠ざけてくれていたからだろう。あれから数年。わずかだが、自分でこの数字と戦う力を身に着けた。通帳を正視できる程度にはなったが、中を開く気にはなれない。それを机に置き、手紙の方を手に取った。筆ペンで流麗な文字が書かれている。
流様
ご無沙汰しております。
予言が当たったこと、嬉しく思います。
あの日言ったことを覚えていらっしゃいますか?
約束通り、健やかに楽しい日々を送ってください。
そして、どうか理解者の方を大切に。
短い手紙だった。
読み終わると、それをもとの形に折り封筒へ戻した。深く息を吐く。
俺はすっかり忘れすぎていた。
すでに俺は「無理矢理作り出した理解者」を修復不可能なほど傷つけてしまった。
志水さんに貰った優しい言葉にも記憶にも顔向けできない。
庭へ出ると、あの日と同じようにひんやりとした夜風が身を震わせる。
通帳を地面に置き、ライターの白い火で通帳を燃やした。揺らぐ炎は頼りないが、数字が刻まれた紙を確実に焼いていく。
あの日出来なかったことが、出来るようになったのだ。その事実が確信に変わる。
後に残った小さな煤を片付け、汚れを払うよう手を叩いた。
「ごめん志水さん。俺は立派な大人にも普通の大人にもなれなかった。でも……最後の言葉だけはやれるだけやってみるよ。俺にできる方法で……」
END