12 失踪
12
山おろしが吹き下ろす土手の通学路を猛スピードで自転車を走らせながら、初めてのキスを何度も頭の中で繰り返していた。恋の終わりに初めてのキスをしたのは、世界中で自分くらいのものだろうという自負に酔いしれた。家に帰って誰もいない密室に身を置くと、今度は失恋の実感がやってきた。次に本当にあれで恋は終わりなのかという疑問が湧き、彼女が僕に話してくれなかった秘密の関係について妄想が駆け巡った。いたたまれなくなり、父の部屋へ行って意味もなく本棚の背表紙を指でなぞった。何気なく手に取ったCDに「my first kiss」という題名の曲があり、ノートパソコンで聞いてみると激しい曲だった。母が夕飯の買い出しから戻るまでの間、ノンストップで曲に身を委ねて滅茶苦茶に体を揺らした。
岬は僕を二人目の恋人として浮気をするつもりではないか。翌朝、揺れる心を抱えながら自転車を漕いでいる時にはそう考えた。岬は女友達の楓を好きになった。二人は僕の知らないところで進んだ関係になったのは間違いなさそうだ。岬は僕に「友達としてできることなら何でもする」と言った。僕はキスして欲しいと言った。そして僕らはキスをした。岬はその後こう言ったのだ。「本気で友達で居たいってこと、信じてくれる?」
異性の友達に普通はキスをしない。岬の言う友達とは何かの暗号ではないだろうか。たとえば浮気相手のような。全然分からない。この後クラスに行って、岬と楓にどんな顔をして、何を話せばいいのだろう。心配は杞憂に終わった。二人とも学校を欠席していた。僕は休み時間と昼食を一人で過ごし、放課後の教室を無感動に立ち去った。
それは翌日も続いた。さらにその翌日、翌々日と続き、僕は悟った。二人は僕に黙って失踪してしまったのだと。
二人の女友達がいなくなった学校生活は、恐ろしく空虚だった。他の乗組員が全員死亡した宇宙船にただ一人でいるようなものだ。楓も岬も、僕へ連絡を寄越さなかった。一言も発する事のない休み時間の間、僕は同性を好きになった岬の愚かさを思った。僕の恋を応援していた楓が、僕に黙って岬と失踪した裏切りに憤った。そして、行き場のない同性愛の果てとして失踪を選んだ二人を心から軽蔑した。僕らは三人で仲良くやっていた。僕だけが何も知らなかった。クラスには他に仲良くしている友達はいなかったから、とめどなく巻き起こる悪意を誰かに吐きだすこともできなかった。夕方になると「my first kiss」を聴いて夕方の通学路を自転車で走り、夜にはひたすら自慰に耽った。深夜には演技じみた希死念慮に襲われた。
早朝に目が覚めると、凪のように思考は落ち着いた。考えてもみれば、楓も岬も僕に一応の筋は通している。楓は「私に先を越されてどうする、もっと岬を振り向かせようとしろ」と僕を叱った。その後で「私は言ったぞ、いいな」とまで言ったのだ。岬は「友達として何でもする」と言って、僕の要求通りキスに応じた。それは僕が永久に岬の友達であると認めた印だった。岬は言った。「本気で友達で居たいってこと、信じてくれる?」。友達にキスをするのはおかしいと思ったが、冷静に考えれば何のことはない。楓と岬はそれ以上の事をしているから、岬にとってはキスくらいやってやれなくはなかったのだ。僕だけが何も知らない。
一番最悪なのは、僕と岬は、楓の前では恋人同士だと演技していたという事だった。素直に僕らの恋を応援していた楓を僕らは騙していた。ちょうど岬と楓が、いまの僕を裏切ったように。僕に二人をとやかく言う資格は何もないように思われた。
同性を好きになる事がどれほど人を悩ませるのか僕は知らない。岬と楓は、その不安や罪悪感を全て僕の裏切りに注ぎ込み、擦り付けるようにして去って行ったように思えた。頭の中では、二人はすっきりとした顔で鈍行電車に揺られていた。遠くの街のフェスティバルへ行くのかもしれない。そこでは男が男を愛し、女が女を愛している。
初めてのキスをした後の数日間、なぜ僕だけが苦しまなくてはならないのかと嘆き続けた。同時に、憎しみに染まる心の中で命綱になったのはキスの感触だった。もし岬があのとき握手や抱擁でごまかしていたら、僕は岬と楓へとつながる糸を断ち切っているだろう。岬が僕にキスをしたという事実だけが、無感動な日常の繰り返しと沸き起こる悪意の嵐から僕を繋ぎとめていた。




