『宇宙雑音 -The Fansy Noise-』 第2号 (2015年晩冬号)
緑の帽子
今日は電車を使う。わたしの高校は自転車で三十分の場所にあるので、いつもは自転車を使っている。しかし今日は少しイレギュラーなのだ。
――校外模試、ね。
とにかく憂鬱だ。
わざわざ遠くの大学まで行って十二時間近くテストをやらされるなんて。しかも祝日に。いつもなら部屋でのんびりとテレビでも見ているのに。
改札口に切符を通す。
切符の端っこに小さな穴があいた。
模試終わったときのわたしの心もこんなんなんだろうな。
口から苦い息がこぼれる。
十二時間連続のテスト。それと、わたしを悩ませるもう一つの原因。
――志望校の記入かあ……
将来のことなんて何も考えてない。ていうか、考えるだけ不安で気が重くなる。
どうせなら、人の助けになる仕事がしたい。けど。
――わたしなんかにそんなことができるのか……?
周りに流されるまま生きてきた。高校も自分の成績で入れるところを適当に選んで、特に何も主張せず日々を過ごしている。
趣味と呼べるものも、熱心になれるものもない。
もはや、一生見つからないような気さえしていた。
――それは人としてどーなのよ。生きがいも日々の楽しみもないなんて
それはやだなあ。
そんなことを考えている間に、駅のホームにたどり着く。電光掲示板をみると、電車が来るまでまだ少し時間があるようだ。構内を見渡すと誰も座っていないベンチを発見。わたしは疲れた足を休めようと、その灰色の物体に飛びついた。
腰かけて、手に持っていた弁当と水筒をそばに置こうとした。しかし、改札口のほうから年配の女性が歩いてくるのが見える。このベンチへ向けて。
罰が悪くなったわたしは弁当と水筒をひざの上へ置いた。もし、わたしがその場所に荷物を置いたら、あの女性がベンチへ腰かけるスペースが狭くなってしまうだろう。
「いいのよ、そこに置いて」
ことの一部始終を見ていたのか、ベンチにたどり着いたおばあさんは荷物をどけたわたしに声をかけた。
そんなこと言われるだなんて思っていなかったので少し戸惑った。しかしこのあと、わたしをさらに驚かせる一言を聞く。
「その荷物、詳しくみたいのよ」
――…………?
わたしが手に持っているのは、チープなつくりの巾着に入った弁当と、貰い物の水筒カバーに入ったよくあるようなタンブラーだ。お世辞にも見ていておもしろいとは言えないだろう。
「こんなのでよければ、どうぞ」隣に腰かけるおばあさんに差し出した。
おばあさんはまず水筒を手に取った。「こういう作りになっているのね……」と妙に感心したようにまじまじと見つめる。弁当のほうは……さすがに興味がわかないのか一瞥したのみで終了。
「わたし洋裁が好きなの。このポシェットも自分で作ったのよ!」
はつらつとした声で首にかけてた青いポシェットの解説を始めるおばあさん。
「このファスナーのポケットのなかにもたくさんポケットを作って、中をきちんと整頓できるようにしているの! ここには飴を入れて、ここには定期券を。出しやすいように少し浅めに作っているのよ」
饒舌に話すおばあさんに圧倒されながらも、わたしはそのポシェットの精工な完成度に見入っていた。
「買ったものみたいで、きれいです」
「買ったものもいいけど、手作りは自分の生活にあったものを作れるから便利よ」
どこか誇らしげに言うおばあさん。
――洋裁が好き、か
わたしはふと、ある人物のことが思い出された。
「わたしの祖母も洋裁が好きだったんです」
もう、半年前に亡くなったけれど。
「祖母もカバンや帽子、ズボンとかも作っていました」
「あら、そうなの? わたしもこのズボン、手作りなのよ」
と、ズボンの布地を引っぱった。そのズボンもまた、手作りだと言われないとわからないくらい上手に仕上がっていた。
「そしてこの帽子も」
そう言いながらかぶっていた帽子をとってわたしに見せてくれた。優しい色合いの、緑色の帽子だった。毛糸で丁寧に編み込んであり、とても温かそうだ。
「すごいですね」
思わず賞賛の声が漏れる。
「洋裁をしているときとても楽しくて仕方ないの! 本当に楽しくて! 人間いつどこで夢中になれるものができるのか、わからないものね」
そう話しているおばあさんの表情は、心の底から楽しそうな――光輝くような笑顔でした。
構内にアナウンスが流れる。もう電車が到着するようだ。
「荷物、見せてくれてありがとう。もう行くわね」
おばあさんはゆっくりと腰をあげた。電車が構内へ入ってきて風が無機質な床を撫でて行った。
その瞬間からだ――おばあさんが影も形も消えてなくなってしまったのは。
「!?…………」
今までわたしは誰と話していたのだろう。これらはすべて夢だったのではないか――思わずそう考えてしまった。それほど唐突で、不思議な瞬間でした。まるで狐につままれたような……。
だけど、これはきっと夢じゃない。この心に灯った、かすかな希望。
「人間いつどこで夢中になれるものができるのか、わからない……か」
趣味とか生きがいとか何にもないわたしだけど、いつか……いや今日のうちにだって見つけることが出来るのかもしれない。
それに、『ありがとう』だなんて言われてしまった。わたしが偶然持って行った水筒カバー。それで少しでも誰かの役に立てたなら――幸せにできたなら、それは私にとっても幸せなことだ。
ふとベンチを見やると、あの緑の帽子がふんわりと残されていた。
「そういえば、この帽子……どっかで見たことあるような」
わたしが幼稚園の頃、よくかぶっていたものとよく似ている。あの帽子は確か……おばあちゃんが作ってくれた――――
「――――――!」
電車はもう、出発してしまった。
わたしは、ただ、帽子を優しく抱きしめていました。