僕とリ・ニンホァ
今を生きている日本人が決して避けては通ることのできない問題の一つに歴史認識という問題があります。今回、私自身の歴史認識問題に対する強い思い入れをこの小説の中に叩き込んでみました。
私の意見は決してこの主人公の意見と同一のものではありません。この主人公が作中で示している態度はあくまでも「戦後責任」の一つの取り方であると私は考えています。
私個人の見解は地の文の中に、そして行間の中にそれとなく散りばめられています。汲み取って頂ければ幸いに思います。
それではしばしの間、私の雑文にお付き合いください
電車はちょうど出たばかりだった。僕たちはホームのちょうど真ん中にあった茶色のベンチに座った。
ニンホァがイヤホンのコードをぐるぐると巻き直していると、その前を、赤いリボンを付けた小さな女の子が通り過ぎた。女の子は肩車の上からお父さんの頭をぽんぽんと殴っている。足元では小さな男の子が「ぼくも、ぼくも」と言わんばかりにしきりにお父さんのズボンのポケットの辺りを引っ張っていた。そんな三人の様子を包み込むように眺めながら、若いお母さんが幸せそうにベビーカーを引いていた。丸々と太っていた赤ちゃんは、たくさんの愛情に包まれながら、かわいい寝顔を無邪気にふりまいていた。
ふと、アイフォンをいじっていたニンホァがことんと僕の肩に首をもたせ掛けてきた。僕もニンホァの方に寄りかかった。
僕がニンホァの方を見ると、ニンホァは恥ずかしそうにぐりぐりと僕の肩に顔をうずめてきた。
今でこそ、こんなことは慣れっこになったが、初めて会った時にはニンホァがこんなに人懐っこい女の子だとは思わなかった。
僕がニンホァと初めて出会ったのは四年前。
北京の中国人民大学で行われたシンポジウムでのことだった。その日、李寧花という小柄な女の子がとても大きな発言で会場を沸かせた。それをきっかけに僕たちはお互いのことを知るようになった。
あれから、もう四年が経ったのか。
僕は意識を現在から四年前の出来事に切り替えた。
四年前、北京にある大学の講堂で歴史に関するシンポジウムが開かれた。歴史という日中双方にとってデリケートなテーマが議論されている会場で、一人の日本人が空気の読めない発言をした。その発言は中国人の感情を逆なでした。それを受けて一人の女の子が中国語でやり返した。それがニンホァだった。
僕にはその女の子の中国語はほとんどわからなかった。でも、その口から発せられるRの音はちょうどドイツ語のそれと同じように、Hとの混成音のような状態で発音され、アメリカ語のような品のない巻き舌音を特徴としないというみめうるわしい特徴をもっていた。それがとても印象的だった。
彼女の発言が終わると、通訳が彼女の言葉を日本語に訳した。
「中国人民が経歴してきた屈辱の百年の中で日本軍国主義は最大の被害をもたらしていきました。華北では三光政策を、ハルピンでは生体実験を、武漢では毒ガスや細菌戦を行い、南京では三十万人もの同胞を虐殺しました。私たちは未来永劫にわたってその歴史を忘れることはありません。毛沢東・周恩来は日本に対して寛大過ぎました。日本人には歴史問題の厳重性をきちんとわかってもらいたい」
その女の子は感極まった。込み上げてくる何かを喉元で抑えながら、会場の応援を力に変えた。
「だから、そういうことは『日本人』からは言われたくない。それに、あなたたちにはそんなことを言う資格はない。それが一般の中国人の感情なんです!」
会場からは割れんばかりの拍手が巻き起こった。そのせいで通訳の日本語が若干聞き取り辛くなったが、彼女は確かにそう言った。
だが、そんなことを言われてはこっちだって黙っちゃいられない。僕は控えめに挙手をして司会者からマイクを受け取った。
「あ、あ、僕は日本人です」僕はマイクを塞いでハウリングを押さえた。
「僕には日本人としての主張があるし、あなたには中国人としての主張がある。だから、お互いが自分の価値観のみに依拠して主張を始めれば、当然喧嘩になる。喧嘩になれば双方相手のことが『自分の非を認めない悪魔』のように見えてくる。僕もそうだし、あなたもそうです。そしていつのまにか言論空間は差別と偏見に満ちた表現であふれかえる。『チャンコロは民度が低いんだ』と」
会場からは反発のこもったざわめきが起こった。僕は咳払いをした。
「もちろん、僕は中国を尊敬してます。だから、このシンポジウムに参加しました。中国人には懐の広さで相手の未熟さを包み込んでしまうような『成熟した寛容の精神』がある。僕はそこに四千年の厚みや奥行を感じます。僕はそのことで中国をとても尊敬してる。本当です」
僕はその反応を予期していなかったが、何人かの中国人が自尊心をくすぐられたような歯がゆそうな表情を見せた。
「でも、日中が衝突してる時にそういう敵意剥きだしの表現にふれると僕自身、喉に詰まっていたパンがすっと下りていくようなスカッとした気分になってしまう。民族対立になると、そういう汚い感情がたしかに僕の中にも込み上げてきてしまう。それは自然なものだからどうしても抑えられない。今のあなたもきっとそうなんだと思う」
隣の中年男性が「かつての軍国主義者が何を偉そうに」という顔で腕を組んだ。
「戦争や戦争犯罪で犠牲になった方々の無念の気持ちもわかる。軍国主義者に家族を殺された遺族の怨みもわかる。『日本が憎い』という気持ちも十分理解できる。中国は本当に悲惨な時代を経験したと思う」
「じゃあ、あなたたちはなぜ謝らないのですか?」彼女は流暢な日本語で言った。
「ちょっと待ってください! 最後まで言わせてください」僕は呼吸を整え、ふうっと息を吐いた。
「日本の敵は『暴戻支那』ではなかったし、中国の敵も『日本軍国主義』ではなかった。僕たちの共通の敵は戦争だった。毛沢東はそのことをよくわかっていた。だからこそ『今次の中日戦争は中日両国を改造するだろう』と言ったんだと思う」
「その解釈はあなたたちに都合が良過ぎる」
「……。僕は靖国神社にも参拝するし、盧溝橋や南京の歴史資料館にも行くし、行けば記帳もすれば献花もする。僕は一人の『人間』として中立の立場から戦争の犠牲者に哀悼の意を表したい。そこにはいかなる肯定も否定も宗教的な意味合いもない。ただ死者を前にして頭を垂れる。これが日本人の、あるいは僕の死生観なんです」
会場から「あいつは何を言ってる? 靖国神社は殺人鬼を祀っている神社なんだぞ」という話し声が聞こえた。僕は、一瞬ひるんだが続けた。
「でも、僕があなたに対して『ごめんなさい』を言うことはできない。なぜなら、僕は生きている日本人だし、あなたも生きている中国人だから」
「意味がわかりません」と女の子が言った。
「僕は今日、ここで『ごめんなさい』を言えないすべての日本人を代表しています。もし、あなたがそういう日本人を許せないと言うのなら……気の済むまで日本人を殺しに来ればいい。思う存分やればいい」
「!」
一同がざわついて後ろを振り返った。僕は一旦、マイクを下ろした。参加者の一人ひとりがこの若造は気でもふれたのか、いったい何を言い出すんだという顔で僕を見た。僕は再度マイクを持った。
「でも、一番初めに僕を殺しに来てください。そうすれば僕があの世で謝ります。それで気が済むんだったら、それで怒りを鎮めてください。そして絶対に未来の世代を歴史問題で責めないと約束してください。もしあなたが約束を破ったら、僕は地獄の底からでも這いあがってあなたたちに復讐するでしょう」
会場は潮が引くように静まり返った。
しばらくして、さっきの女の子が場違いな程に綺麗な日本語で言い返した。
「そんなの納得できない。あなたは、あなたの先祖が私たちに何をしたのかを知らない。だから平気でそんなことが言えるんです」
「いえ……」
「あなたは自分たちのことしか考えてない。私は悲しい。どうして……。どうしてあなたたちはいつもそうなんですか? あなたたちは私たちの恩を忘れたんですか? 私は裏切られたような気がします。どうして、どうして……。私にだって日本人との間に素敵な想い出がたくさんあります。お願いです、私の想い出を壊さないでください!」
彼女は悲しいと言ったが、それは僕とて同じことだった。自分の真意が伝わらなかったことが、僕はとても悲しかった。
「違うんです、思い出してください」
「何をですか?」
「毛沢東は言いました。『誰がわれわれの敵か。誰がわれわれの友か。これは革命の一番重要な問題である』と。僕が思うに『われわれの敵』は戦争だった。だから、僕たちは『真の友と団結して真の敵を攻撃』する必要があった。毛沢東がそう言ったように。でも……」
「黙れ! 『われわれの敵』はお前らだ! 今も昔もこれからも!」会場から罵声のような野次が飛んだ。
女の子は泣き崩れるように腰を下ろした。それから彼女の言葉は順次、中国語に通訳された。一同の静かな共感を媒介にして、彼女の悲しみは会場中に染み渡り、響き渡った。
確かに、たった一言の「ごめんなさい」でこの場の溜飲を下げることはできたのかもしれない。でも、それでは何の解決にもならなかった。だから、僕にはそのたった一言の「ごめんなさい」が言えなかった。そのことで僕は彼女を傷付けてしまった。ごめんね、ごめんね、ごめんなさい。
僕は「以上です」と言って腰を下ろした。これがニンホァとの最初の出会いだった。
結局「こいつには何を言っても無駄だ」という雰囲気のまま、この日のシンポジウムはお開きになった。
会場にはいろんなリアクションがあった。僕を指差しながら眼光鋭く睨み付けてくる人もいれば、わざわざ僕のところまで罵詈雑言を浴びせに来る人もいれば、僕と視線を合わせないようにそそくさと会場から立ち去る人もいた。シンポジウムの司会者でさえ僕とは目を合わせようとしなかった。
僕はさっきの女の子に近寄ろうと会場の前の方に移動した。その時、一人の血気盛んな若い男が意図的に僕に肩をぶつけてきた。僕はその拍子に財布を落としてしまった。僕が拾おうと手を伸ばした瞬間、その「青年将校」は僕の手ごと財布を蹴っ飛ばした。そして叫んだ。
「殺人鬼め!」
その場にいた日本人は「彼らの邪魔をしては悪い」とばかりに見て見ぬ振りを決め込んでいた。(日本で「売国奴」と罵られた僕は中国では「殺人鬼」と言われたが、日本の傍観者は、中国においても傍観者のままだった。)
僕がぽかんとして立っていると、さっきの女の子が「はい、これ」と言って僕に財布を渡した。
「ありがとう」
傍で見てみると、童顔で、とても小柄な女の子だった。化粧は(その頃から)ほとんどしていなかった。
香港人の母親とアイルランド人の父親を持つというその女の子は自分のことを寧花と名乗った。ニンホァはその日、水玉模様のワンピースを着ていた。
僕は日の暮れるまでニンホァと膝を交えて話し合ったが、結局、結論は出なかった。僕は何度も言った。人間のなかには化け物がいる。あなたたちのなかにも、そして僕たちのなかにも。あの戦争はその化け物を解き放ってしまった。英霊たちはその化け物に身も心も乗っ取られてしまった。あなたたちはそれを見て「殺人鬼」と言っているだけなのだ、と。
でも、わかってる。中国はそれ以上に何も悪くなかった。完全無欠のイノセントだった。それがある日突然侵略者に夫を殺され、娘を凌辱され、家財を強奪され、家を焼かれた。国土は蹂躙され、夥しい数の無辜の民が想像を絶するような奇行・蛮行の餌食になった。
「そいつをよこせ! 八つ裂きにしてやる!」
当然だ。僕たちだってそうなったはずだ。でも、彼らをしてそうまで言わしめたのは僕たち日本人に他ならない。僕は日本人としての自分の運命を呪った。
僕は「こういう意見もある」ということで日本共産党の意見を紹介した。それでもニンホァは「日本寄り」だという。
結局、この日僕たちが見解の一致を見ることはなかった。同じ肌の色をして、同じ瞳の色をして、同じような背丈をして、同じような言葉を操っているのに、まるで反対側のホームからお互いに手を振って「さようなら」を送り合っているかのようだった。
僕とニンホァの間には親子の年齢差のように決して埋まることのない溝が、万里の長城のように数千里にも渡って横たわっているのかもしれない。そんな気さえした。
僕はニンホァと次の日の約束をしてから一人でホテルに帰った。
部屋に戻った僕は冷蔵庫から烏龍茶を取り出し、ベッドの上でごろんと横になった。
ふと、あの女の子の言葉が脳裏を過った。
「あなたは、あなたの先祖が私たちに何をしたのかを知らない」
そうかもしれない。だから、平気であんなことが言えたのかもしれない。
「あなたは自分たちのことしか考えてない」
いや、それは違う。僕たちは自分たちのことすら真剣には考えていない。だからこそこんな事態になってしまうのだ。
そう思った次の瞬間には、(生意気盛りで頭でっかちの)僕は勝手に日本を背負い込み、中国人が「抗日戦争」と呼ぶ「あの戦争」について、当然のように、ひとり考え始めていた。
「あの戦争」は日中戦争に始まり、日米戦争に終わった。そうだ、発端は日中戦争だ。日中戦争の直接の原因は昭和十二年の支那事変で、その支那事変が起きたのは、確か近衛文麿内閣の時だ。
そうだ、近衛文麿だ。いや、間違いない、近衛文麿だ。
近衛文麿は当初こそ、事変の「不拡大方針」を決定したが、日本政府(近衛文麿)は事後に大きく方針を転換し、その後は「暴支膺懲」の泥沼に不可逆的に嵌りこんでいった。日本政府(近衛文麿)は結局、日中の本格的な軍事衝突を避けることができなかった。
事態は悪化し、支那事変は戦争化し、戦争は国際化の様相を帯び始めた。
日本との戦争には消極的だった蒋介石もようやく重い腰を上げた。だが、時の総理大臣(近衛文麿)はその蒋介石の国民政府を「相手にしない」と言い放ち、代わりに日本政府(近衛文麿)は蒋介石と袂を分かった汪兆銘を和平交渉の相手とした。だが、この汪兆銘政権は国内外の誰からも相手にされなかった。だから、支那事変は民意に反して拡大・悪化の一途を辿り、遂には泥沼化していったのだ。
戦争が始まると、時の内閣(第一次近衛文麿内閣)は体制翼賛体制を以って日本国民に塗炭の苦しみを嘗めさせ、日本国をしてファシズム国家群に与させた。
近衛文麿は大陸利権をめぐって英米アングロ・サクソンとの利害衝突を引き起こし、近衛文麿が結んだ日独伊三国同盟は英米アングロ・サクソンとの利害対立を決定的なものにした。
近衛文麿内閣(第二次)の時に行われた北部仏印進駐は英米アングロ・サクソンの警戒と反発を買い、近衛文麿内閣(第三次)の時に行われた南部仏印進駐は遂に英米アングロ・サクソンの逆鱗に触れた。
英米アングロ・サクソンは遂に日本に対して死刑宣告にも等しい過酷な経済制裁を行った。かくして日本は活路と退路を一気に絶たれた。
昭和十六年、十二月八日、遂に日本の東条英機内閣は真珠湾攻撃に踏み切った。こうして、日米戦争が始まった。「あの戦争」の「終わりの始まり」が、こうして始まった。
だが、東条英機にお鉢が回ってきた時点で日本はすでに崖っ淵まで追い詰められていた。あの時の僕たちには「このまま崖から飛び降りるか」それとも「振り返ってミッキーマウスと戦うか」の二つしか道は残されていなかった。それは「自殺」か「自殺にも等しい自衛戦争」を敢行するかの究極の二者択一だった。
そんな絶望的な状況に日本を追い込んだのは当時の首相・責任者(近衛文麿)が「蒋介石を相手にしなかったから」に他ならない。
その結果、日本は必然的に敗北した。
こうして「あの戦争」は終わった。
戦争の記憶は靖国神社に封印され、忘却の鍵をかけられ、戦争責任は東条英機らA級戦犯に象徴的に転嫁された。
「あーあ。電車行っちゃったよ」ニンホァがふと、回想を断ち切るように言った。
「焦ることないって。次のに乗ればいいんだから」
僕はもう一度言った。
「焦ることないって。次のに乗ればいいんだから」
「ねえ、わたしも飲みたい」
ニンホァは僕の手からさっと烏龍茶を奪い、ボトルを両手でしっかりと握り締めながら、小さな口をいっぱいに広げてボトルを傾けた。
「ありがとう」
「……」
僕はもう一度、あの時の回想に戻った。
戦後、戦争犯罪の処理は十分にはなされなかった。
本来ならば日本人の手で事実を検証し、日本人の目でこれに向き合い、日本人の手でこれを処罰しなければならなかった。
旧日本軍の膿は日本刀によって抉り取らなければならなかった。
だが、それはかなわなかった。
「そんなの関係ねえ」とばかりに戦後の人間はジャズやビートルズを聴きながら暢気に午後の紅茶を楽しんでいた。
だからこそ一部の文化人の間で過去の戦争犯罪を取り上げることが、まるで「正義」であるかのような錯覚が起きているのだ。
だが、そんなものが「正義」として罷り通るような状況を作ってしまったのも戦後の不作為が原因だ。現代を生きる全ての人間に責任がある。
その日の夜、シンポジウムの参加者の一人だったみず穂さんから、占領軍当局によって回収されたという近衛文麿の遺書なるものの存在を知らされた。
僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。これに対して深く責任を感じて居るが、いわゆる戦争犯罪人として米国の法廷において裁判を受ける事は堪え難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。そして、この解決の唯一の途は米国との了解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思う。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国においてさえそこに多少の知己が在することを確信する。
そして近衛文麿は最後に、戦争に伴う興奮と激情が冷め、敗者の「過度の卑屈」と「故意の中傷」や誤解に基づいた流言飛語や輿論が去ればこうなると言った。
戦争に伴う興奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に基ずく流言飛語とこれら輿論なるものも、いつか冷静さを取り戻し、正常に復する時も来よう。この時始めて神の法廷において正義の判決が下されよう。
翌日、僕はニンホァと一緒に盧溝橋にある、中国人民抗日戦争記念博物館を訪れた。
「だいじょうぶ? これは私たちの視角から見た歴史だよ? いやなきもちになったりしない?」
「えっ?」
あのシンポジウムから数年が経ち、ニンホァは国費留学生として日本に留学した。偶然か必然か、ニンホァは僕の大学に特待生として来てくれた。それから僕たちはたくさんの時間を一緒に過ごした。
そんなある日、あの三・一一が起こった。
僕は危ないから早く帰国するようにと言ったがニンホァは「残る」と言い張った。瀋陽育ちのニンホァは絶対に譲らなかった。
「だってわたし、日本っていうこの国が大好きだから」
「……」
次の瞬間、僕はニンホァを後ろからギュッと抱きしめていた。「ご、ごめん」僕は、はっと我に返って離れようとした。でも、ニンホァは恥ずかしそうに僕の両腕を軽く引っ張った。僕は無言でもう一度、今度はしっかりと正面から抱き締めた。
「ずっと一人でさびしかった」
ニンホァがそう言うから、僕は何も言わずに両の腕に力を込めた。自然とニンホァのおっぱいがふわっとお腹の辺りに引き寄せられた。水風船のようにやわらかな感触が僕の鳩尾の辺りに広がった。
「結構、胸あったんだね」
「もう、えっち。ほら、もう電車来てるよ」
「うん」
それから僕たちは付き合っているような、いないような、とても曖昧な関係を続けてきた。
その間係は日中間係が悪化した現在でも続いている。
読んで頂けましたでしょうか。気分を悪くされた方がいらしたら申し訳ありません。私の主旨は閉塞状態に陥っている日中間の歴史認識の現状に一石を投じるという点にあります。他にも、日本人の目を覚まさせるという意味で多少刺激の強い表現を取り入れてみた部分もありますので、それらの点に関しまして不快に感じた方がいらっしゃいましたら、この場をお借りしてお詫びを申しあげたいと思います。