わいるど・がーでぃあん。
神。
古来より、〈それ〉は在るものとされていた。木々に、石に、道に、生き物に。
供物を捧げれば、神は其処に降りてくる。森羅万象が依り代であり、故に其は記される。
『日ノ本ノ国ニ 八百万ノ神々在リ』と。
◇ ◇ ◇
「はぁ~あ」
私――天月姫乃は深い深い溜め息を吐いていた。というのも、帰り道の公園にて遭遇したこの――足元に落ちていた犬の糞が原因だ。
私とて花も恥じらう16歳――青春の乙女ロード邁進中の女子高生だ。普通なら大慌てで離れたり、可愛らしく悲鳴の一つでも上げるところだろう。指摘されなくても分かっている。
だけどだ。それが滅多に無い事ならばまだしも、新年明けてからまだ二週間程という間に100を超えればどうであろうか。
その倍率、某牧場を目隠しで歩く結果よりも遥かに酷い。ネットスラング的に言うなら『これはひどいw』である。
もう、ここまで来ると溜息しか出ないのだ、人間という生き物は。
「はぁ~。どうしてこう、ツイてないかなぁ~?」
初詣に行って鈴緒を揺らせば鈴が落ちてくる。おみくじ引けば、大凶の上に大凶の二重印刷。
目の前で欲しいものが買われてなくなる。財布を落とす。電車に寸前で乗り遅れる。黒猫の大群に横切られる。靴紐が連続7回切れるete……。
余りにも余りにもなのでお祓いに行けば、坊さん巫女さん神主さん、尽く意識を無くして救急車騒動。
……もうね。救いないのよ。本当に。
私だって、普通に青春がしたい。今年こそは彼氏が欲しい。できればそう……ちょっとワイルドなイケメンなんか理想かも。
だけど、こんな調子じゃあ……望み薄いなぁ。
「えっと、水道何処だっけ?」
取り敢えず靴を洗おうと、私は水場を探した。水場はすぐに見つかった。
流れる水が靴底以外を濡らさないようにして水を流す。……あー、溝に詰まっているし。
「――え?」
私がこれをどうしようかと悩んでいた時だった。風が吹いたかと思えば、まるで世界から音が消えたように静まった。
そして向こう――私が来た方の反対側――から、”そいつ”はやって来た。
少し長めの白い髪はまるで獣のたてがみのように荒々しい。カットソーのジャケットによって、まだ肌寒い空気に晒されている腕は、まるで鉄柱のように太い。
裾の傷んだボロボロのデニムパンツも、彼のワイルドな印象を引き立てていた。
「………」
正直、見とれていたと思う。”そいつ”が本当に目前に来るまで気が付かなかったのだから。
”そいつ”は私の前まで来るとピタリと足を止めた。デカイ。180センチはあろうかという身長は160程度の背しかない私には壁のようだ。
近くに見て分かる。まるで鉄板のような胸板。腹筋も恐らく凄いんだろう。
そして何より――顔だ。太い眉。鋭い、獣のような瞳は赤い光を宿している。
”そいつ”はしばしの間、私の前に立ちつくしていた。あ、髪の毛……白じゃなくてアッシュグレーだ。抜いてるんだよね……?
「――姫乃」
「ふぁ!?」
などと馬鹿なことを考えていると、いきなり名前を呼ばれた。ていうか、なんで名前を知ってるの!?
「姫乃……俺は、君を守りに来た。だから、もう大丈夫だ」
「きゃ!?」
ガシッ! と、その大きな手が私の方を掴む。いきなりの事に驚いた私はその手を咄嗟に払いのけた。
「姫乃……?」
「な、何なのよいきなり!? あんた誰なのよ!? なんで私の名前知っているのよ!?」
知らず後退りしている自分。”そいつ”は酷く驚いた顔をしているけど……気にしている余裕なんてなかった。
「っ……!」
私は一目散に走った。その背中に何か聞こえた気がしたけど、全部無視した。
せっかく好みなワイルド系イケメンでも、電波系とか冗談じゃない! というか、明らかに不審者じゃない!?
あーもう! 本気で本当にマジでツイてないにも程があるわよーっ!!
ちなみに、片足が靴を履かないままだったのに気付いたのは家の前まで来てからだった。……足が痛い。
◇ ◇ ◇
空は青く、風は穏やか。太陽は頂点から傾き、あと少しの時を於けば黄昏へと落ちる。
とあるビルの屋上では、アッシュグレーの髪を吹く風に任せながら、夕闇に染まる町並みを見下ろす人影があった。
「姫乃……どうしてだ?」
「どうしてだ、じゃない」
ごちーん!!
「痛ってぇええええ!?」
唐突に頭に響いた衝撃に悶絶する男。いつの間にか、後ろには別の人影が降り立っていた。
「いきなり現れて『君を守りに来た』などと言って、通じると思っているのか?」
「通じないのか? だって俺と姫乃は――」
「通じない、と言っている。そもそも、今の姿を知らないのだから不審者にしか思われないだろうに……もうちょっと考えてから行動しろ」
「っ!? そ、そうだったのか……だから姫乃は逃げてしまったのか……!」
わなわなと震える男。後ろの影は深々と溜め息を吐いた。
「幸い、まだ”二凶星”の輝きは弱い。今日、明日で事が起こることはないだろうから、今は影に徹するべきだ。警戒されないように……な」
「むぅ……分かった」
渋々承知したと、男は頷いた。そのポケットから、薄汚れたハンカチを取り出す。
魔法少女のイラストが描かれた、女の子向けのキャラ物ハンカチだった。
◇ ◇ ◇
長野。崖の間に設けられた山間道路。生い茂る木々が陽光を遮り、昼間でも薄暗く、空気が冷たい。
その道を走る一台の車。細い道だけに慎重に、速度を上げ過ぎないようにそれは進んでいく。
しばらく順調に進んでいた車だったが、甲高いブレーキ音と共にその進行を止めた。
停車した車中から慌てた様子で降りてきたのはメガネを掛けた細身の男性と、ワンピースを着た小さな女の子だった。二人は慌てた様子で車の前に駆け寄った。
そこには一匹の仔犬が倒れていた。白に近い灰色の毛並みの、生後数ヶ月だろう。その毛は流れ出た血で赤く染まり、だらりと出しっぱなしの舌と、弱々しい吐息が、命の終りが近いことを告げていた。
女の子は自分の服が汚れることも構わず、仔犬を抱き上げた。車に戻ると急いで元来た道を戻る。
「がんばって……しんじゃだめ……!」
女の子は涙をポロポロと零しながら、必死に仔犬を励まし続けた。うっすらと開いていた仔犬の瞳にそれが映る。
車はひたすらに、動物病院を目指して走り続けた。
◇ ◇ ◇
「………ぅん」
カーテンから覗く光が、私を微睡みから引き摺り上げる。ベッドから出れば、冷えきった部屋の空気が温まっていた体を容赦なく冷やしてきた。ぬくもりが残っている間にさっさと着替えよう……うぅ、服が冷たい。
それにしても懐かしい夢を見たものだ。私はつい、机の上の写真立てを見た。
そこに写っているのは小さいころの私――妹が産まれる前の頃だ――に家で飼っていた白い犬。
当時、私は長野に住んでいた。お母さんが出産するために入院する事になり、その前にと二人で行った日帰り旅行の帰り道。私は道路に倒れている一匹の仔犬を見つけた。
車に勢い良く撥ねられたんだろう。全身がボロボロで、今にも息絶えそうだった。
私とお父さんは直ぐに動物病院に向かったんだ。そこで何時間も手術して……なんとか一命を取り留めたんだけど……。
「最初は全然、懐いてくれなかったんだよねぇ。手を出しても直ぐに噛み付こうとするし」
そう。私はあの仔犬に”シロ”と名付けて引き取ったのだ。だけども怪我のことを覚えているのか、ちょっと近づくだけで唸るは吠えるわ。
だけど根気よく……本当に根気よく接して、やっと仲良くなれたんだよね。
雑種らしいけど真っ白い毛並みがフワフワで、大きくて、動物病院の先生曰く「まるでオオカミみたいだ。先祖返りか?」と首を傾げるような身体つきだったっけ。牙とか凄く大きかったし。
あと、すごく頭も良くて、こっちの言葉を解ってるみたいにしてたっけ。
そんなシロはある日、突然いなくなった。お父さんの仕事の都合で東京に引っ越す事になって、でもその引越し先ではペットが飼えない……みたいな話をしていた翌日、いきなりいなくなってた。
泣きじゃくりながら毎日探したけど……結局、見つからなかったのよね。
「おねーちゃん。何、ぼんやりしてるの?」
「え……あぁ。ううん。なんでもない。ちょっと昔のことをね」
キッチンで朝食を取りながら、ぼんやりとシロの事を思い出していた私は、妹の若菜の声に我に返る。いけない、いけない。シロのことになると何時もこうだ。
それにしても、どうしてシロの夢なんて見たんだろう? ここ最近、めっきり見なかったのに。まぁ、見ちゃったものは仕方ないか。どうせただの夢なんだから、さっさと忘れる!
「今日は土曜日だし、午後からちょっと駅前まで出かけてみようかな?」
そんな事を考えながら、私はトーストを齧った。
◇ ◇ ◇
ビルの屋上。太陽が天頂を過ぎ、寒風吹く中で二人は真剣な面持ちでいた。
「星詠盤の様子はどうだ?」
「今のところは問題な……いや、待て。これは……?」
手の中の水晶体。その中に収められた金属板が激しく光る。
「ついに来た……”二凶星”だ!」
「っ――! 姫乃!」
◇ ◇ ◇
………。今日は何という日だろう。学校帰りに黒猫に横切られなかった。
それだけじゃない。財布も落とさないし、犬の糞も踏まなかった。信号も引っかからなかったし、売店で目前で売り切れることもなかった。
恐ろしい……余りにも恐ろしい。何なのだろう、この幸運は。今までの不運が全て消えてしまったかのようだ。
あぁ、これが普通の……あるべき時間だ。やっと、私の日常が帰ってきたんだ。
「そう思ってた時期がね……私にも在りましたよ」
「おい! そこのガキ、黙ってろ!!」
「っ……!」
でかい声と共に拳銃を突きつけられ、私は口を閉じる。目の前には四人組の強盗犯。それぞれ、ピストルや散弾銃を持っている。顔は覆面で見えない。
そんな物騒極まりない連中がショッピングモールに乱入してきたのだ。殆どの人は悲鳴を上げて狂乱のままに逃げ出したのだけど……。
「おねえちゃん……」
「大丈夫。大丈夫だから」
私はぎゅっと裾を握る女の子に笑いかける。逃げようとする人の波に巻き込まれて転んだ女の子。この子を助けたせいで、私は逃げ遅れ、人質にされてしまった。いや、助けたことは後悔していないんだけど。
人質になった私達は一箇所に集められていた。
それにしても……普通に買い物にショッピングモールに来たら、いきなり逃走中の強盗犯に遭遇して人質とか……特大の不幸すぎるんですけど!?
これはあれ? 今日半日が普通だったのは特大不幸のためにチャージだったって事!?
外にはパトカーが入り口を包囲しているし、犯人が逃げられる可能性はない。……無いよね? なんだろう、まだ特大不幸は続いてそうな気がするんですけど?
「兄貴! 車が在りました!!」
「よーし。これで足は確保できたな! くく……こりゃツイてるぜ!」
うわっ! なんでショッピングモールに車があるの!? ……車の展示販売!? なんでこんな時にそんなのやってるのよ!
隣でスーツ姿の人――車メーカーの営業担当者だ。苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「くっ……! 何時もなら搬入用にガソリンを少ししか入れないのに、試乗キャンペーンのせいでガソリンが満タンなんだ!!」
ちょっと、何よその説明じみた台詞は!? というか、ガソリン満タンで何キロ走るのよ!?
「ガソリン満タンということは、最低でも1,000キロは走れる! なんというタイミングの悪さなんだ!!」
本当にね! 1,000キロとか冗談じゃないわよ!? それと、本当になんでさっきから説明ゼリフなの!?
「っ――!?」
などと軽い現実逃避をしていた私の頭に、ゴリッとした物が当てられた。冷たくて――重い。見なくても分かる……拳銃だ。
「立て。お嬢さんには、ドライブに付き合ってもらうぜ?」
「キャンセルは……出来なさそうね?」
「はっ。冗談言える余裕があるたぁ、大したもんだ」
冗談じゃない。恐怖と緊張で頭おかしくなってるだと思う。まるで他人事みたいな感じだ。現実感がまるで無い。
強引に腕を捕まれ、引き上げられる。腕に走った鈍い痛みが少しだけ現実の息を吹き返させた。バクン、と心臓が跳ねた。
「……いやっ!」
「っと……暴れるな!」
嫌だ。このまま連れて行かれるなんて怖い! 誰か……お願い!
「誰か――助けて!!」
――ガシャアアアアアアアアアアアアアン!!
「「っ――!?」」
突然、ホールの天井――ステンドグラスが砕け飛び、その向こうから人が飛び込んできた。そして数メートル下のフロア目掛けて真っ直ぐに落ちていった。
ドォン! という地響きを上げて、エスカレーター下のフロアの石畳が砕け散る。――って、ちょっとちょっと!? なんであんな所から人が落ちてくるのよ!? いや、そもそもどうやってあんな上に登ったの!? いや違うそうじゃなくて!
あんな高さから落ちて……死んじゃった?
「……っと。足がめり込んだ」
なんか普通に、何事もなかったみたいに出てきたんですけど!? ていうかあの人……何時かのワイルド系イケメン不審者じゃない!!
「ふー。どうやら間に合ったみたいだな。おい、そこのお前ら」
ワイルド系不審者君は、エスカレーターの下からこちらを指差した。
「今直ぐ姫乃を離せ。俺に殴り飛ばされる前にな」
そう言うと、獰猛な瞳を輝かせ、牙をむき出しにする彼。もしかして……私を助けに来た?
「あー? 何言ってんだこいつは? 天井ぶち破って出てきたと思ったら、いきなり頭のおかしいこと言いやがって……お前ら、やっちまえ!」
言うや、男は腕を掴んだまま強引に引っ張った。このまま車に連れ込むつもりだ!
必死に抵抗する私。でも、力の差は歴然で……! この男の部下もさっきの人に向かって銃を向けている。
「キャア――ッ!!」
鼓膜を激しく叩く破裂音。あっという間に火薬の匂いがフロアに充満する。
身を竦ませた私を、犯人は強引に車内に押し込んだ。ドアが閉められ、犯人も乗り込んでくる。
あの人はどうなった? あんな一斉に撃たれたら……。
「ぐぎゃああ!?」
いきなり悲鳴が上がった。顔を上げると、強盗犯の一人が天井近くまで何故か吹っ飛んでいた。そして彼が――拳を振り上げた姿で立っていた。
「コイツ!!」
一人が散弾銃を構える。引き金が引かれ、耳をつんざく音が響き、植木を吹き飛ばした。だけど、そこに彼はいない。
一体何処にと視線を動かせば、犯人の左側数メートルのところにいた! あんな所に一瞬で移動したの!?
「ふん!」
「ぶへぁ!?」
そして彼は一瞬でその間を詰めて、犯人を殴り飛ばした。その速さはまるで神風だ。
「なっ……何だあいつは!?」
あっという間に二人を叩きのめされた犯人に動揺が走る。慌ててエンジンを掛けると、アクセルを一気に踏み込んだ。グォン! という音を立てて車が走りだした!
「あ、兄貴!?」
「どけ! バカヤロウ!!」
犯人は真っ直ぐに、自分の仲間と彼目掛けてスピードを上げた。二人は横に飛んで躱し、車は勢い良く下のフロアへと落ちていく。
「ひっ!?」
突然の浮遊感に息が詰まる。遅れてドスン!という衝撃が走った。
車はそのままガラスを突き破って、外へと躍り出る。前の植え込みを踏み台にして、ジャンプ。そのまま真下のパトカーをクッションにして着地したようだ。
”ようだ”というのは、後から振り返って潰れた植え込みと潰れたパトカーが見えたからだ。頭を強かに打って凄く痛い。
直ぐにパトカーが発進して追いかけてきた。
「っ……」
私に出来るのはただ、助かることを祈る事だけだった。
◇ ◇ ◇
「くそっ、姫乃! 黒雨、車の行き先は分かるか?」
「問題ない。そのために上で張っていたのだからな」
男は上に飛ぶ烏に叫んだ。烏はそのままスイ、と飛んで行く。
「このヤロォ! 動くんじゃねぇ!」
見れば残る一人が幼い少女に銃を突きつけていた。しかし、男は全く興味もないとばかりに、犯人に背を向ける。
「こ、このやろぉ! 人の話聞いてんのか!? 動いたらこのガキの頭がぁ!?」
犯人の頭に石つぶてがぶち当たった。其の衝撃たるや、一瞬、男の頭が吹っ飛んだかのように見える程だ。
「お前、うるさいから黙ってろ。”二凶星”が輝いている以上、人間には姫之を助けられない……姫乃、待ってろ!」
言うが早いか、男は一気にジャンプしてエスカレーターを飛び越え、そのまま外へと飛び出す。
「な、なんだ!?」
未だ残る警官たちの上を軽やかに飛び越えると、地面を強く蹴り抜く。踏み足がアスファルトを砕き飛ばし、そして弾丸のように、男は走りだした。
野次馬も振り返る時には既に男の姿はなく、代わりに一匹の白い犬が猛スピードで走っていったのが見えた。
◇ ◇ ◇
おかしい。ぜったいにおかしい。道路には車がそれなりに走っているのに、この車はすごいスピードを出しているのに……どうして全然ぶつからないの!?
少しぐらい、コントロールミスしたりとかするものじゃないの!? なのにコントロールをミスするのは他の車ばかりで、その結果、これの前には一台の車もいなくなっていた。
ガシャアアン! ドガァアアン!
「なに……っ!?」
思わず後ろを見る。……ウソ。パトカーが……全部事故ってる!? 抜き去った一般車がまるでバリケードみたいにパトカーの行く手を塞いで、それにぶつかってしまってる。
「アハハハ! なんだよありゃあ! 傑作だぜ!!」
つまり、警察は追っかけてこれない……? そんな……じゃあ、私はどうなるのよ!?
絶望に目の前が暗くなる。パトカーはどれもひしゃげて、黒煙を上げているものまである。
どうしてこんな……ひどい。
「ひひ……ヒヒヒヒ……! なんでだろうなぁ……全然捕まルキガシネェゾォ……!?」
な、何? 今度は何なの!? なんか……コイツから黒い霧みたいなのがユラユラと上がって来ている!?
怖い、気持ち悪い、嫌だ! さっきまでの怖いとは全然違う。もっとこう……廃墟なんかで感じる、足元から這いずり上がってくるような怖さだ。
黒い霧は徐々に大きくなっていく。そして何かの形を――。
ドスン!!
「今度は何!? 何なの!?」
振り返れば、さっきのイケメン不審者が後部トランクの上に乗っかっていた。ていうかどっから来たの!?
「姫乃、頭を下げてろ!!」
彼は腕を振り上げて、そう叫んだ! 私はとっさに頭を下げる!
「ッ……!!」
直後、金属を引き裂く耳障りな轟音とともに、突風が吹き込んできた。思わず耳をふさぐ私の体が、グイッと持ち上げられる。
「大丈夫か、姫乃!」
「あなた……どうして?」
どうして彼は、自分を助けようとするのか。さっきだってあんな無茶をして……いや、そもそもあんな高さから飛び降りてくるのが常識外れ甚だしいんだけど。
すると、私の内心を読んだみたいに、彼は笑った。
「黒羽! いいぞ、やれ!!」
「きゃああ!!」
彼はいきなり私を抱えてジャンプした! ていうか、車すごい速度出てるんですけど!?
アスファルトに着地すると、足元から盛大に煙が上がる。勢いを力尽くで殺しながら、彼は私をかばうように抱きしめる。力強い腕が苦しいぐらいに体に絡みついてくる。
そして、車はそのまま走り続け――なかった。いきなり真ん中から真っ二つになって、左右に流れていったからだ。
その分かれ目には黒ずくめの細身の男性。束ねた長い黒髪を揺らしながら、その手の真っ黒な刀をヒュンと翻して鞘へと収めていた。
「お見事。流石は黒羽だ。夜郎にも負けないんじゃないか?」
「兄さんのことはどうでも良い。それより士狼……来るぞ?」
「おう! 姫乃、アイツの傍から離れるなよ?」
そう言うと、彼ら――シロウとクロウが入れ替わる。そばに来たクロウさんは……なんというか、中世的な美形だった。トップモデルとか言われたら絶対に信じちゃうレベルだ。
シロウ……さんは、何に警戒しているのか。車のほうを注視している。………あれは、さっきの強盗犯? うわぁ、無事だったんだ。
でも、さっきより様子がおかしい様な……そうだ、さっき見えた黒い霧みたいなのが消えているんだ。
「グギギギ……禍星の贄ェ……!」
「ひっ……!?」
いきなり黒い霧が盛大に吹き出して、巨大な影を作る。あれは……ネズミ!?
「生憎だが、やらせねぇよ。二凶星の手下《闇干支》のネズミ風情が!」
「ギキャアアア!!」
バケモノはそのまま、地面をえぐりながらシロウさんに迫る! 危ない!!
「心配無用だ。実体化しているならまだしも――」
「オラァああああああああああっ!!」
「――影程度では話にならん」
一閃。シロウさんが振り上げ――そして振り下ろした一撃が、バケモノを引き裂いていた。
そして私は見た。シロウさんの腕が……まるで獣のそれに変わっていたのを。
◇ ◇ ◇
その後。盛大に暴れまくったせいで、その場を急いで後にした私達は、なんでか高層ビルの屋上にいた。
……どうやって来たって? そりゃあれですよ。空中をですね、こう……バイン! バイン! と、ジャンプしてですよ。……おかしくない?
しかしそんな違和感を吹っ飛ばすぐらい、とんでもない事実をサラリと告げられたわけですよ。
「〈二凶星〉……? 〈禍星の贄〉……?」
「二凶星とは計都星と羅睺星。禍星の贄とは、二凶星の影響を受ける者のことだ」
クロウさんが説明を実に簡潔にしてくれた。
「去年の神無月にて、天の星を観測していた月読尊様が、二凶星の輝きを視られた。二凶星の輝きはこの地に大いなる災いをもたらす。しかし、地上は天照大御神の守護下にあり、そうそう厄災に塗れはしない」
……何だかややこしい話だな。
「だから、二凶星の輝きは地上の人間を通して厄災をもたらそうとする。言うなれば厄災の門。それが禍星の贄と呼ばれる存在だ。禍星の贄は常に凶事を好むものに狙われる。星が動く一年間……ずっとな」
「俺達は姫乃を守るために、高天原から派遣されてきたんだ」
高天原……聞いたことがある。確か、日本中の神様が集まる場所……的ななんかだったっけ? て言うことは……?
「二人って……もしかして神様?」
そう尋ねると、二人は頷いて返した。
「私は八咫烏。風守黒羽という」
「俺は……シロだ」
シロ? シロウじゃないの? それとも白?
そう聞き返すと、シロウは懐から四つ折りの布を取り出して、私に見せた。
「こ、これ……! どうしてこれを持っているの!?」
私はそれを見て驚いた。だってこれは……私のハンカチだからだ。
正確に言えば、”小さい頃の私”の物だ。絵柄の裏に大きく〈ひめの〉と書いてあるし、間違いない。でも、これは……昔、あの子にあげた物………まさか!?
そう過った時、シロウさんの体は光に包まれていた。
「もしかして……”シロ”なの?」
私は呆然としていた。だって、目の前にいたシロウさんが、今は大きな犬の姿になっていたんだから。
「――あぁ。本当の名は大神志狼。あまねく日ノ本山麓の王たる〈大口の真神〉の眷属にして……姫乃のシロだ」
いなくなった時よりも、より大柄になったの体躯。しゅっとシャープな顔立ちは犬よりも狼だ。
「姫乃。俺はお前を守るために来た。二凶星の災いは何度も姫野を襲うだろう。だけど心配はいらない」
ペロッと私の手をなめるシロ。そして再び、人の姿を取る。
「姫乃。俺が絶対に……お前を守る」
「っ……!!」
ニッと邪気のない笑みを浮かべて、私の手を取るシロ。ちょ、何で今ドキッとしたの、私!?
「取り敢えず、説明も終わったことだし……帰ろうか?」
「そうね………え?」
ちょっと待って。なんでシロは私を抱え上げているの? いや、こっから一人で降りるのは無理だけどね!? でも何か私とちがうニュアンスが含まれてる気がするのよ!?
「ねぇ。二人は何処に帰るの?」
と、尋ねると二人は「何をバカな事を」という顔をした。
「帰るって姫野の家に決まっているだろ? だって、俺の家でもあるんだし」
「そもそも護衛対象と離れる意味が無い。今までは様子見していたが、これからはそうも言っていられないからな」
オウ……やっぱりですか。
「じゃ、行くぞ姫乃! しっかり掴まってろよ!!」
「ちょ……ちょっと待って!? シロ! ステイ!! ステーイ!!」
止めるも聞かず、シロは屋上の縁を蹴って、空中にその身を躍らせた。
「イヤッホォオオオオオオオオオオ!」
「キ……イャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
こうして、私――天月姫乃の日常は完全に終わりを告げ、非日常の一年が幕を上げた。
二人の居候をいきなり抱え込み、この身に背負ったのは世界の厄災。
だけど――ちょっとだけドキドキしたのは、内緒である。