第五章 異形の血闘
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「遅かったか……」
島瀬の屋敷に到着すると、凄まじい光景が広がっていた。
門をくぐった時点で既に5体近い悪魔の死体が転がっており、それが広い玄関まで続いていたのだ。
佑は頭部が凹んでいる死体や、四肢を失った死体を避け、玄関へと急ぐ。
玄関から屋敷内に入ると、そこにも多くの悪魔の死体が散乱していた。どうやら屋敷内の至る場所で戦闘が行われたらしい。
中には細切れになった悪魔もあり、橘香が戦闘を行っていた事を物語っていた。
そんな光景を見て、ルゥメトギスは悔しげに呟く。
「ガライゲルに煽動されて先走りましたか……。全ての戦力をクロデリアにぶつければ勝機もあると思っていたのですが。」
いくら戦闘力に優れた悪魔でも、それぞれが勝手気ままに動けばそれはただの烏合の衆だ。組織的に防衛をしている島瀬の人間には敵わない。
惨状を目の当たりにした椿や將一兄さんは靴を履いたまま屋敷の中に足を踏み入れ、そのまま木造の廊下を進んでいく。
「おかしいですね。島瀬側の人間の死体が一つもありません……。」
「確かに、これだけの戦闘があって死者が出ていないのは異常だな……。」
普通は、死者が出なくて喜ぶ所だが、今の状況では素直に喜べない。
「とにかく、先に進むしかないでしょ。こんな所で色々考え立って時間の無駄だって。」
椿は考えることが苦手なようで、足を止めることなく屋敷の奥へずんずん進んでいく。
佑たちもその後を追った。
(いったい、何体いるんだ……?)
通路を歩いて行くと、その間にも悪魔の死体を確認できた。
今も戦闘が行われているかどうか、慧眼のクロクラフトで調べたい所だが、あいにくそれはできそうになかった。
魔女の眼を失い、クロフト能力の効果が激減してしまったからだ。
周囲2,3メートルであれば辛うじて把握できるが、それ以上になると何も分からない。改めて魔女の眼の効果の絶大さを思い知らされる。
また、今はクロフト能力の低減効果も失っているため、攻撃されれば普通に死んでしまう。いつも以上に慎重に行動した方がいいだろう。
……佑、椿、將一、ルゥメトギスの4名は無言のまま薄暗い屋敷内を進んでいく。
やがて奥の部屋に到着すると、その中から誰かの話し声が聞こえてきた。
その声につられて佑は部屋のふすまを開ける。
ふすまの先には広い座敷が広がっていた。床一面に畳が張り巡らされており、天井には無数の蛍光灯が取り付けられている。まるで大規模な柔道場のようだ。
そんな座敷の中に、三つの影を確認できた。
まず目についたのが大きな体を持つガライゲル。そして黒装束に身を包んでいるクロデリア、最後に、日本刀を腰に下げて立っている橘香だった。
座敷の中央でガライゲルは倒れ、クロデリアに足蹴にされている。その様子を橘香が遠くから観察しているという状況だった。
クロデリアは足の裏でガライゲルの頭を踏みつけながら、言葉を放つ。
「――魔女の眼を手に入れれば私に勝てると思いましたか?」
「クソ……」
ガライゲルはもう抵抗もできないのか、されるがままになっていた。
その有り様を見て、佑は思わず呟いてしまう。
「どうなっているんだ……。」
あれだけ自信満々にクロデリアを殺すと息巻いていたのに、この有り様である。
苦戦どころか、闘った気配すらない。多分、クロデリアに触れることなく敗北したのだろう。
声を発したことで存在に気付かれたのか、クロデリアはガライゲルから足を離し、こちらに目を向けた。
「佐玖堂佑、無事でしたか。ガライゲルが魔女の眼を持っていたので殺されたのではないかと心配したのですが、健在で何よりです。……椿も、よく来てくれましたね。」
クロデリアは俺と椿に話しかけただけで、他の二人には何も言わない。
將一兄さんやルゥメトギスを見ればもっと反応があると思うのだが……。
そのことが気になった佑は、背後に目を向ける。しかし、そこに存在しているはずの人物がいなくなっていた。
(將一兄さん、ルゥメトギス……?)
どちらとも、跡形もなく消えてしまっていたのだ。
その事実にほんの少し驚いたが、すぐに佑はこの現象の原因を突き止める。
(隠匿のクロクラフトか……)
下手に姿を晒すよりもずっといい。この場にあっては最適な判断だ。將一兄さんのクロフト能力はクロデリアの目を欺けるほど強力なのは実証済みだし、これなら不意打ちを行えるかもしれない。
クロデリアは離していた足でガライゲルを軽く蹴り、冷酷に告げる。
「ガライゲル、確かあなたは50年以上も前に造られた第2世代型の悪魔でしたね。ノックノウやルゥメトギスのような第3世代型の悪魔ならまだしも、何の能力もない、ただ体が頑丈なだけの貴方が私を殺せるわけがないでしょうに。」
もはや作り物であるということを隠すつもりもないようだ。
その言葉の後、クロデリアはおもむろに右腕をガライゲルの胸元に突っ込み、いとも容易く魔女の眼を取り出してしまう。
綺麗な光沢を放つその眼を眺めつつ、クロデリアは不思議そうに呟く。
「それにしても、どうやって魔女の眼を手に入れたのでしょうか。あの通り、佐玖堂佑は生きていますし、謎ですね。」
その呟きに、畳に転がっているガライゲルが答えようとする。
「誰がお前なんかに教え……」
しかし、その言葉は途切れるどころか、二度と聞けなくなる。
「目障りです。消えなさい。」
クロデリアは畳に横たわっている巨体に対し腕を軽く振る。すると、瞬時にガライゲルの体が内側にべコリとへこみ、一点に向かって猛烈に収縮し始めた。
そして、悲鳴すら聞こえないままガライゲルは消滅した。
(……!!)
まさにあっという間の出来事だった。慈悲なんて言葉は彼女の中に存在しないのだろう。
ガライゲルを呆気無く片付けたクロデリアは、魔女の眼を指先でくるくると回し、橘香の目前へ移動させる。
「さあ橘香、魔女の眼を持って残りの悪魔を駆逐しなさい。魔女の眼を持った貴女なら、何の苦労もなく殲滅できるでしょう。そして、貴女が最強唯一無二の悪魔となるのです。」
「おい待て!! 何のつもりだ!?」
佑はクロデリアの言葉に対し、即座に突っ込みを入れる。
しかし、クロデリアはこちらにも目をくれず、ただただ橘香を見ている。
「おい橘香、まさか悪魔になるつもりじゃないだろうな……」
こちらの言葉に対し、橘香は虚ろな目を向ける。
「当主様から全部聞いたの。私は悪魔の素材になるために一生懸命稽古をさせられていたって。今までずっと当主様の言う通りにして、全部うまく行っていた。だから、当主様の言うことは正しい。……私は間違ってない。」
橘香はゆっくりと手を伸ばし、魔女の眼を掴もうとする。
しかし、その指先が魔女の眼に届くことはなかった。
なぜなら、魔女の眼を持っているクロデリア自身が、部屋の隅に向かって吹っ飛んだからである。
それを行ったのは今の今まで身を潜めていたルゥメトギスだった。
ルゥメトギスは既に黒い角を持つ悪魔の姿に変化している。また、その傍らには將一兄さんが立っており、彼女の肩に手を載せていた。
部屋の隅の漆喰の壁に体をめり込ませているクロデリアに対し、將一兄さんは珍しく声を荒げる。
「クロデリア……お前、人を何だと思ってやがる!!」
「……何とでも言いなさい。そのたぐいの言葉は聞き飽きました。犬の鳴き声ほどにしか感じません。」
殴られたばかりだというのに、クロデリアはすぐに將一兄さんの言葉に応じ、漆喰の壁からその身を剥がす。
黒装束は所々破けていたが、ダメージを受けた様子はない。
「言っておきますが、私に大義名分なんてものはありません。純粋にこのクロクラフトを用いて最強の生命体を創りたいだけなのです。貴方達はただの実験装置であり、暇つぶしの玩具というわけです。」
クロデリアのこのセリフはその場にいる人間を激怒させるのには十分だった。
「……ただの暇つぶしのために、人の命を奪ったと言うんですか……っ!!」
ルゥメトギスは奥歯を噛み締めながらそう告げると、部屋の隅にいるクロデリアに向かって勢い良く拳を突き出す。
その拳は直接クロデリアに届かない。しかし、拳の先から発せられた蒼炎は瞬く間にクロデリアに到達し、その体を焼き始めた。
クロデリアは青い炎に全身を包まれ、姿が見えなくなってしまう。
しかし、クロデリアの声ははっきりと聞こえていた。
「命を奪ってはいません。現に、貴女は生きているでしょう? 木佐貫茉弓。」
「私が言っているのは、そういうことではないんです!!」
「……残念です。結局は貴女もガライゲルと同じく、物事の本質を理解できない者だったようですね。……構いません橘香、殺ってしまいなさい。」
クロデリアから橘香という名が発せられ、佑は今更ながら橘香がいた場所を見る。
橘香は丁度、畳に落ちていた魔女の眼を拾い上げた所で、その眼を固く握りしめていた。
「……はい、当主様。」
橘香は短く返事をすると、クロデリアに言われるがまま日本刀をルゥメトギスに向ける。
魔女の眼を所持していると、所持した人間は絶大な力を得る。クロフト能力も極限までその力を高めると言われている。
島瀬の中でも最強の部類に入る橘香の『切断のクロクラフト』が魔女の眼の効果を得てどれほど進化しているのか……考えるまでもない。
「駄目だ茉弓さん、隠れるよ!!」
將一兄さんは即座にルゥメトギスの肩を強く掴み、隠匿のクロクラフトを発動させる。
瞬時に將一兄さんとルゥメトギスに姿は消え、居場所が全く分からなくなってしまう。
「……。」
だが、橘香は構うことなくその場で日本刀を一振りした。
すると、何もない空間から鮮血が吹き出し、先ほど消えたはずのルゥメトギスと將一兄さんが姿を現した。
血を流していたのは將一兄さんであり、その背後にはルゥメトギスの姿があった。
傷はかなり深いようで、赤かった血の色はやがてどす黒いものへ変化していく。
「將一くん……。」
ルゥメトギスは自分を庇った將一兄さんを背後から抱きとめ、その場に崩れ落ちる。
肩から腰にかけての刀傷は明らかに致命傷であり、これ以上戦闘を行えないのは明白だった。
橘香はそれでも攻撃を止めることなく、二人に刃を向ける。
それを間一髪で止めたのは椿の叫び声だった。
「やめろ橘香ぁー!!」
椿は畳の表面のい草が宙に舞うほどの力で室内を走りぬけ、橘香に肉薄する。
さすがの橘香もこの接近には対応できないようで、刀の柄から左手を放すと、何かを振り払うかのように腕を真横に振り抜いた。
すると、橘香の周囲にある畳に鋭い切れ込みが無数に発生した。
「ぐっ……」
かまいたちのような技によって椿は足を負傷し、橘香の目前で畳の上に倒れこむ。その足の怪我が痛むのか、椿はそれ以上橘香に近寄れない様子だった。
(すごいな……)
圧倒的な力を目の当たりにして、佑は素直に感心してしまう。
ただでさえ強かった橘香は魔女の眼を手に入れたことでほとんど無敵の存在になってしまった。
今、彼女を止められる者はこの地上に存在しないだろう。クマでも、ライオンでも、サメでも今の彼女には赤子に等しい。
力では絶対に敵わないと判断した佑は、すぐに気持ちを切り替えて説得に移る事にした。
「橘香、もう止めにしないか。」
佑は床にうずくまっている椿に歩み寄りながら、橘香に語りかける。
しかし、橘香は首をブンブンと左右に振って、聞く耳を持たない。
「止められるわけないよ。だって、私は島瀬の使命を全うするために生きてきた。当主様の言いつけを守って、敵とたくさん戦った。当主様が悪魔になれって言うのなら、私はその通りにする。その通りにしないといけないの……。」
「もういいんだ橘香。」
「何がいいのよ。私は島瀬の人間として、使命を全うしないといけないの!!」
相変わらず頑固な女の子だ。
椿の怪我がそんなに深くない事を確認すると、佑は椿から離れて更に橘香に近寄る。
さすがの橘香も俺には攻撃し難いのか、日本刀を構えたまま動かない。
そんな橘香に対し、俺は咄嗟に思いついた効果的な一言を告げる。
「……そんなこと言っていると、嫌いになるぞ。」
「えっ?」
脈絡のないセリフに驚いたのか、橘香から間の抜けた声がでた。
佑は同じ言葉を繰り返す。
「いいのか橘香。これ以上こんな馬鹿げたことを続けるなら、お前のことを大嫌いになると言っているんだ。」
「え、その、それは……」
とうとう橘香は刃を下に向け、狼狽え始める。効果は絶大なようだ。自分でも思っている以上に橘香の俺に対する気持ちは強いらしい。
自分の日頃の行いに感謝しておこう。
そんな問答をしていると、クロデリアが焦りのセリフを投げかけてきた。
「橘香、そんな男の事は無視しなさい。今の佐玖堂佑には戦闘力は皆無です。早くこちらに来なさい。そして、悪魔に……最強の存在になりましょう。」
部屋の隅、クロデリアは両腕を広げて橘香を待ち構えている。
橘香は反射的にクロデリアのいる方向へ足先を向け、そのまま歩き始める。
佑はその進路を遮るべく、橘香の正面に立った。だが、橘香はこちらを見ることもなく、クロデリアに向けて歩を進める。
そんな橘香に、佑は活を入れる。
「俺から目を逸らすな橘香。」
佑は橘香の肩を強く掴み、無理やり動きを止める。
今の橘香なら、クロフト能力を使えば簡単に俺の腕を切断できるし、俺をバラバラにすることだって可能だ。……だというのに、橘香はその場に立ち止まり、恐る恐る俺の目を見ている。
当然、俺も橘香の目を見ていた。
「……お前はどうなりたいんだ。悪魔になって力を手に入れたいのか?」
諭すように告げると、橘香は力なく首を横に振った。
「ううん。そんなわけない。」
「じゃあ、どうしたいんだ。」
橘香はこの言葉を受けて俯く。
それから数秒後、橘香はこちらの制服の袖をぎゅっと掴んできた。
「私は……ずっと佑くんと一緒にいたい。」
そう言って橘香は日本刀を畳の上に放り投げ、抱きついてくる。
そして、今まで溜め込んでいたであろう感情が、言葉となって溢れ出した。
「……本当はお稽古も嫌だった。毎日毎日特訓させられて、佑くんと会える時間が少ししかなかった。本当は島瀬の使命なんて無視して、佑くんといちゃいちゃしたかった。」
「……。」
予想を上回る衝撃の告白に、佑は何も言えず固まってしまう。
固まっている間も、橘香は強くこちらの体を抱き、想いの丈を告げる。
「これだけ長い時間一緒にいるのにデートも録にしたことないし、手を繋いだのも数回だけだし、いつもいつも適当にお喋りしてそれ以上の進展はないし……。將一お兄ちゃんが失踪して佑くんと二人きりになれたのに、佑くんは今まで通りだし、私もなかなかアクションを起こせなくて、結局前と全然変わらないし……。でも、もう高校生になったんだから、これからはキ、キスだっていっぱいしたいし、それ以上のことだって……!!」
もう十分だと判断した佑は、橘香の頭の上に手を置き、橘香の想いに応える。
「“もう”じゃなくて、“まだ”高校生だ。……と言うか、そんなに大量の煩悩を抱えていたんだな。意外だぞ橘香。」
「うぅ……。」
橘香はもう戦うつもりはないようで、自分の言ったセリフを後悔するかのように、顔を真っ赤に染めて恥ずかしげに唸っていた。
このやりとりに対し、クロデリアは一言で感想を述べる。
「くだらない……。」
「お前のやっていることの方がもっとくだらないぞ、クロデリア。」
「……興が冷めました。」
クロデリアはうんざりした様子で片手を前方に持ち上げる。すると、橘香の手にあった魔女の眼が浮かびあがり、空中を浮遊してクロデリアの手に収まった。
魔女の眼を手にすると、クロデリアは壁伝いに部屋の奥へ移動し始める。
「逃げるのかクロデリア!!」
佑は橘香から離れ、クロデリアを追うべく走りだす。
逃げるというワードに反応したのか、クロデリアは壁に手を当てたまま立ち止まり、律儀に応える。
「まさか、この私が逃げるわけがありません。橘香がダメなら他の人間に魔女の目を埋め込み悪魔を創り出すだけです。」
「何だと!?」
このままだとまた茉弓さんのような被害者を生み出してしまう。
それだけは何としても止めなければならない。
室内を走っている間、佑の目には椿や將一、そしてルゥメトギスの姿が映っていた。
椿は足を押さえたまま畳に横たわっており、將一兄さんは仰向けになってルゥメトギスにもたれ掛かっていた。既に意識を失っているようで、目は閉じられている。
將一兄さんを支えているルゥメトギスは、將一兄さんの傷口に指先をあてがい、傷を焼いて塞いでいるようだった。今のところは任せていても大丈夫だろう。
それにしても一体誰を素材にして悪魔を創るつもりだろうか。
この室内にクロフト使いは椿と將一兄さんしかいない。順当に考えるなら、次に狙われるのは椿だ。
しかし、クロデリアは椿に近づく気配はない。
(まぁ、いいか。)
とにかく、今は魔女の眼を取り上げるのが先だ。あのクロデリアから物を奪えるとは思えないが、何らかの作業を妨害するくらいはできるはずだ。
佑は壁際に近付くと更にスピードを上げ、クロデリアが持っている魔女の眼に手を伸ばす。
……と、急にクロデリアがこちらに顔を向けた。
「佐玖堂佑、悪魔になるのは貴方ですよ。」
「!!」
クロデリアは笑みを浮かべ、魔女の眼をこちらに向けて突き出す。
魔女の眼は再びこちらの体内に侵入した。
(しまった……)
まさか、クロデリアの狙いが俺だとは考えていなかった。魔女の眼に適合する人間が少ない事を考えればその可能性は十分にあったのだ。もっとルゥメトギスの警告を真面目に聞いておいたほうが良かったかもしれない。
佑はその場で足を止めてこれからどうすべきかを瞬時に考える。
(こうなったら無理やりにでも……)
佑は大きく深呼吸をすると、意を決し、自らの胸元に指先をあてがう。こうなったら皮や肉を剥いででも魔女の眼を取り出すしかない。
しかし、佑はその指をすぐに体から離れてしまう。
佑の行動を止めたのはクロデリアでもなければ恐怖心でもない。
……稲妻のように体を駆け巡る激痛であった。
「……ッ!!?」
いきなり襲い掛かってきた激痛により、佑は悲鳴を上げることすらできず、その場に膝をつき、頭を畳に擦り付ける。
まるで全身に鋭い刃物を捻り込まれているかのような激痛だ。
体を少しでも動かすと脳天を貫くような傷みが走り、佑はとうとう動けなくなってしまった。
「早速始まりましたね、変化が。」
クロデリアは実に楽しそうな口調で話している。今どんな表情をしているのか、全く見えないが、簡単に想像できる。
「どう……なって、いるんだ……?」
佑は何とか口から言葉を紡ぎ出し、クロデリアに問いかける。
クロデリアは尚も笑いの混じった言葉で応える。
「どうもこうもありません。貴方の体が悪魔の力を有するに相応しい器となるべく、その形状を変化させているのです。……生きたまま変化させるのは初めてですが、なかなか面白いですね。骨格どころか内臓ごと全く別の物に生まれ変わるのです。想像を絶する傷みが貴方を襲うことでしょう。」
既に俺は悪魔へと変貌しつつあるようだ。
今すぐにでも中止させたいが、そんな策を考える時間もなければ、余裕もない。
クロデリアはこちらに近づくとその場にしゃがみ込み、頭を撫でながら話を続ける。
「すぐにでも気を失わせてあげたいところですが、そういうわけにもいきません。変化の途中で意識を失うと自我を失いかねませんからね。頑張って傷みに耐えて下さいね、佐玖堂佑。」
「クソッ……!!」
佑は痛む体を何とか動かして、頭からクロデリアの腕を振り払う。
少し動かしただけでも激痛が走るのに、腕を振り払うほどの動きをすればどうなるのか。結果は言うまでもない。
「……。」
佑は耐え難い痛みのせいで何も思考できなくなり、その場にうずくまる。
割れるほどの力で奥歯を噛み締めて痛みに耐えていると、やがて体に違和感を覚えた。
違和感に導かれ、佑は何気なく自分の手を見てみる。……と、肌の色がドス黒く変化していた。
変化は肌の色だけにとどまらない。明らかに骨も太く、長くなっており、それに合わせて皮膚も千切れながら伸びていく。その皮膚の合間からは、鋼と見紛うほど硬質化した筋肉が見え隠れしていた。
もう、俺は人間でなくなりつつある。
……ただ、今はそんなことはどうでも良かった。
佑の脳内に入ってくる情報の9割9分は激しい痛みであり、既に佑はそれ以外の事を考える事ができなくなっていたのだ。
感情を痛みに埋め尽くされ、佑はまさに生き地獄を味わっていた。
(誰か、どうにかしてくれ……。)
たったの1秒が1分にも1時間にも感じられる。
考えた所で誰もこの痛みを和らげてはくれない。いったい俺はいつまでこの痛みに耐えなければいけないのだろうか。
――そう思うと、心の奥底から怒りがこみ上げてきた。
怒りの感情は先ほどから延々と続く痛みによってさらに増大され、出口を求めて体の中で暴れ始める。
(限界だ……!!)
佑はその怒りをぶつけるべく、両腕を床に叩きつける。
……すると、一瞬だけ痛みが和らいだ気がした。
(そうか、こうすればいい。怒りを叩きつければ、痛みを消すことができる……)
もはや、佑は痛みから解放されることに必死だった。
何も考えることなく佑はひたすら怒りを暴力という形で開放し、周囲に存在するもの全てを破壊していく。
何を壊すかなんて考える必要もない。目の前にあるもの全てが破壊の対象であり、怒りをぶつけるための存在なのだ。
(痛い……痛い痛い!!)
怒りをぶつける度に痛みは和らぐが、それも一瞬だけだ。
そのため、佑は絶え間なくありとあらゆる物を攻撃し続けていた。
……その後も一心不乱になって無差別に力を開放していた佑だったが、不意に視覚や聴覚などが遮断され、その動きを止める。
「……!?」
先ほどまで感じていた痛みも引いている。まさに静寂そのものだ。
「どうなったんだ……?」
何気なく呟いてみるも、その声は音にならない。何も聞こえない。
不可解な現象に戸惑っていると、やがて頭の中に直接男性の声が響いてきた。
「大丈夫かい佑くん。」
「將一兄さん……。ということは、これは隠匿のクロクラフトによるものか……」
「そういうこと。たった今、痛覚を含めた君の五感を遮断して、僕の声だけが届くようにしたんだ。」
將一の声を聞き、佑は現在の状況を何となく理解できた。
「多分、今俺は悪魔となって暴走している……。無差別に周囲の物を攻撃しているに違いない……。」
俺の予想は正しかったようだが、実際にはそれよりもっと酷いらしく、將一兄さんは重い口調で現状を教えてくれた。
「うん。文字通り、怒りのせいで周りが見えてないみたいだけど、大変な事になってるよ。佑くんが悪魔に変貌してから3分くらいしか経っていないけれど、既に島瀬の屋敷は原型を留めていない。それに、橘香や椿ちゃん、そして茉弓も君を止めるべく戦っているんだ。」
「3分!?」
全く気づかなかった。それどころか、自分が屋敷を壊したことや橘香たちと戦闘をしている事すら知覚できていない。
「俺はどうすれば……」
佑は將一に助けを求めるように心のなかで呟く。將一はその想いに応えるように、的確なアドバイスを佑に行った。
「とにかく冷静になって、自分の感情を、自分の体をコントロールするんだ。このまま痛覚を抑えておくから、その間に自我を……」
その言葉は途中で聞こえなくなり、すぐに自分の体に五感が戻ってきた。
同時に、周囲の状況も完璧に把握できるようになった。
「佑……くん!!」
早速耳に届いたのは橘香の叫び声だ。
目の前には橘香の顔があり、その白い肌には無数の擦過傷が認められた。
それだけでも驚きだというのに、今の自分は橘香に馬乗りになって地面に押さえつけ、首を絞めている状態にあったのだ。
「……!?」
橘香はクロフト能力を使ってこちらの手のひらを分解し続けているが、それよりもわずかに再生速度のほうが優っている。すばらしい抵抗方法だが、このままだと絞め殺してしまう。
佑は慌ててその手を放し、橘香から距離を取る。
そして、周囲に目を向けた。
(まさかこんなことに……)
將一兄さんの話通り、屋敷は豪快に破壊されており、庭園の木も半分が無くなっていた。
ルゥメトギスは外周の壁面の瓦礫と共に地面に崩れ、椿は自らの肩を押さえた状態で何とか立っている。クロデリアは付近の空をフワフワと浮遊していて、將一兄さんは相変わらず地面に倒れていた。呼吸もつらそうだし、隠匿のクロクラフトで俺の痛覚を遮断できるのも長くはないだろう。
何としても早急にこの体をコントロールする必要がある。
(悪魔になったのか? 俺は……。)
佑は手始めに慧眼のクロクラフトを用い、自分の体を詳しく調べる。
背の高さはあまり変わっていないが、その外見は禍々しく変化していた。
頭や顔面は硬質化した頭髪によって綺麗に覆われ、まるでマスクを被っているかのようだ。その合間からわずかに見える目は真っ黒に染まっており、異常な殺気を放っていた。また、額からは斜め上方に向けて長くて平たいツノが突き出ていた。
続いて体に目を向け、佑は胸を撫で下ろす。ある程度人の形を保っていたからだ。
しかし、肌は黒いペンキを浴びたかのように黒く染められていた。また、体の至る所からこれもまた黒い骨が飛び出ており、骨に筋肉が付いているのではなく、筋肉に骨が付いているような状態になっていた。
これだけ見てみると、悪魔というよりはむしろ鬼に近いような気もする……。
とにかく、佑はそんな体を観察しつつ、制御すべき力の源を探し続ける。……その根源を見つけるのに、さほど時間は掛からなかった。
(やはり、魔女の眼か……。)
どうにかしてこれをコントロールせねばならない。
そして、コントロールする為には魔女の眼の仕組みを理解せねばならない。
……慧眼のクロクラフトは、物事の本質を見抜くための能力である。
佑はそのクロフト能力を最大限に使い、魔女の眼を調べる。すると、溢れ出んばかりの情報が頭の中に入り込んできて、容赦なく頭の中を埋め尽くした。
(何て情報量だ……)
普通の人間の脳であれば理解は適わないが、現在の人間離れしたこの体であればその情報を理解するのは容易い。
魔女の眼の内部に秘められていた情報は湯水のごとく溢れ出し、それは、水を吸い込むスポンジのごとく頭の中に吸収されていく。
その情報はクロデリアの持つ知識であり、同時に彼女の歴史でもあった。
「そういうことだったのか……。」
……やがて佑は全てを理解した。
クロクラフトと呼ばれる根源的な力の仕組みを。そして、その力の使い方を。
魔女の眼を持っている今なら、慧眼のクロクラフトのみならず、クロクラフトを用いてあらゆる現象を簡単に起こせるだろう。
それを試すべく、佑は早速軽くジャンプし、そのまま宙に浮かび上がる。
体は地面を離れ、空高くまで舞い上がっていく。
……意識ははっきりとしているし、どこも痛くない。とても清々しい気分だ。
「これが完成された生命体……。私が長年追い求めていた究極の力を持つ人工生命体……。」
空に浮かぶと、クロデリアが嬉々として近寄ってきた。
クロクラフトを自在に扱える今の俺なら、クロデリアと対等に戦えるだろう。
しかし、佑ははやる気持ちを抑え、魔女の眼から得た情報に関して話す。
「……3000年か。よくも一人きりでこの長い時間を過ごせられたな。」
「なるほど、魔女の眼を通して見ましたか。私自身のことを。」
「ああ。世界各地で行われているえげつない実験についてもな。」
この3000年間、クロデリアは錬金術に飽き足らず、あらゆる生命を用いた実験を行っている。そのどれもが倫理観を無視した物だった。
昔は人の間でも当たり前のように行われていたらしいが、ここまで躊躇なく行うとなると、その精神を疑ってしまう。
「えげつないだなんて、酷い表現ですね。私は次の時代に相応しい生命体を作ろうとしているだけです。島瀬に関してはまだ死人は100人以内ですし、最小限に抑えられていると思います。むしろ、高尚な活動と言って欲しいくらいですよ。」
単に実験をするだけならまだ許せる。それが危険なものであっても許せる。だが、人間をモルモットのように扱うのだけは許せない。
「全部止めさせる。お前を殺してでもな。」
クロデリアに対し宣言すると、クロデリアは腕を組んで小さく笑った。
「私を殺す? 大きく出たものですね佐玖堂佑。力を手に入れて調子に乗っているんじゃありませんか?」
「その通りだな。だが、力を手に入れたのは事実だ。」
その言葉の後、佑はクロデリア目掛けて急接近し、骨太の脚でキックを放つ。
キックはクロデリアの目前で透明な盾によって塞がれてしまったが、周囲の空気を震わせるだけの威力を持っていた。
「……いいでしょう。テストがてら少し遊んであげます。」
クロデリアは余裕たっぷりに告げて、こちらの足を跳ね除ける。そしてお返しと言わんばかりに手のひらを勢い良く付き出し、俺を地面に向けて吹っ飛ばした。
「くっ……」
クロデリアによって突き飛ばされた佑は空中を錐揉みしなから地面へ落下していき、そのまま屋敷の瓦礫の中に突っ込んだ。
しかし、痛みはそんなに感じられず怪我もしていなかった。本当にこの体は頑丈らしい。
5分前までの俺なら全身複雑骨折で内臓破裂を起こし、穴という穴から血や臓物をまき散らして死んでいただろう。
クロデリアが俺のことを最強の存在と呼ぶのも頷ける。
(……と、感心している場合じゃないな。)
佑は反撃を行うべく、付近に転がっている瓦礫……綺麗に裂けた梁に手を触れる。
手で触れた瞬間、瓦礫同士が繋ぎ合わさっていき、空に向けて高速で伸びていく。瓦礫の連なりはすぐにクロデリアまで到達し、その足に絡みついた。
「お返しだ。」
佑は瓦礫の連なりをロープのように使い、クロデリアを空から引き摺り下ろす。
落下の速度に瓦礫のロープによる遠心力が加わり、クロデリアは先程の自分よりも速いスピードで地面に激突する。
しかし、俺と同じくクロデリアも無傷で悠々と立っていた。
「おいたが過ぎますよ、佐玖堂佑。」
「余裕ぶっこいていられるのも今のうちだぞ。」
強気に発言してはみたが、正直クロデリアを制すことができるか不安だ。強大な力を手に入れても、元々はクロデリアが生み出した力に過ぎない。それでも、退くという選択肢は有り得なかった。
相手が油断している今だからこそ、勝機があるというものだ。
佑は瓦礫の中に立っているクロデリア目掛けて飛びかかる。
尋常ではない膂力によって生み出されたジャンプ力は佑自身の体を高速で運び、刹那の間にクロデリアに到達させた。
佑はクロデリアと衝突する瞬間、足を前に投げ出して蹴りを放つ。
クロデリアは回避することなくこちらの蹴りを手のひらで受け止めた。
蹴りの衝撃はクロデリアの体を伝わって地面へ到達し、地面を大きくへこませる。クロデリアの足も地面にめり込み、その衝撃は周囲に瓦礫の破片を撒き散らせた。
クロデリアは一瞬動きを止めたが、すぐにこちらの脚を掴んで反撃に移る。
クロデリアに掴まれた脚は瞬く間に膨張し、空気を入れ過ぎた風船のごとく破裂した。
「……!!」
皮膚は勿論肉や骨も綺麗に四散し、膝から下が完全に消失してしまう。しかし、血は全く出ておらず、痛みも全く感じられなかった。
支えを失った佑は片足だけで地面に降り立ち、クロデリアから距離を取る。
離脱している間に脚は再生されていき、10メートルも離れると、再び二本の脚で立てるようになっていた。
……自分で言うのも何だが、もはやこれは人間同士の戦いではない。俺やクロデリアが全力を出せば、この市どころか国一つを破壊できそうだ。
クロデリアは地面に埋まった足を抜きながら、こちらに告げる。
「……これ以上遊んでいると折角の作品を破壊しかねません。このくらいにしておきましょう。それにしても素晴らしい出来栄えです。まさに最高傑作と呼ぶに相応しい。」
本当にクロデリアは嬉しいらしい。こちらを惚れ惚れとした様子で眺めている。
「しかしまだまだこれからです。今回の実験を糧にすれば、さらなる高みへ行ける気がします。」
俺という存在が生まれたばかりだというのに、クロデリアにはまだ物足りないようだ。
その飽くなき探究心と実験に対する執着心は褒めてやりたい所だが、やはり、その方法には賛同できない。
「非道な実験を止めるつもりはない、ということか……。こうなったら何がどうなってもお前を止めてやる。」
もう考えている暇はない。今すぐにでもクロデリアを倒さねば、また多くの人間が犠牲になってしまう。
佑は再生されたばかりの足を前に踏み出し、クロデリアに向かって突き進んでいく。
クロデリアはこちらから逃げるように、軽く地面を蹴って宙に浮かび上がった。
「そうですか。それでは私は逃げることにします。これ以上作品に傷を付けたくはありませんし。」
先ほどまで嬉々として戦闘していたのに、クロデリアはあっさりと俺に背を向けて飛び上がろうとする。
しかし、少し浮かんだ所でクロデリアは再度地面に激突することになる。
「クロデリア!!」
威勢のいい少女の声が聞こえたかと思うと、目前にいたクロデリアがトラックに衝突されたのではないかと思うくらいの衝撃によって真横に吹っ飛び、代わりに制服をラフに着こなしている女子高生……椿が視界に飛び込んできた。
怪我のせいで動けなくなっていたかと思っていたのに、この様子だと元気そうだ。また、闘志も萎えてはいないようで、視線はクロデリアに向けられていた。
「邪魔ですよ木佐貫椿、出来損ないは退場してもらいましょう。」
飛ばされたクロデリアは無理やり地面に足を突き刺して制動をかけ、吹き飛んだ時以上の速さで椿に接近する。
しかし、その途中でクロデリアの体から炎が生じ、クロデリアは椿まであと数メートルという所で立ち止まった。
「どこにも行かせませんよクロデリア。あなたはここで死ぬんです。」
その青い炎を生じさせたのはルゥメトギスだった。
クロデリアは炎を纏わせながらも動じることなく、ルゥメトギスに言い返す。
「やはり反抗的な性格をしていますね木佐貫茉弓……。姉妹揃って邪魔をするつもりですか。」
苛立った口調でそう言うと、クロデリアは簡単にその炎を消し去り、改めて椿に向かって進んでいく。
だが、その動きはまたしても止められることになる。
……歩くために必要な足がクロデリアの体から切り離されてしまったからだ。
綺麗に足を輪切りにされたクロデリアは、呆れた様子でその犯人の名を告げる。
「次は橘香ですか。ここまで反抗されると悲しくなっていきますね。」
「佑くんをあんなにして……絶対に許さない……。」
橘香は日本刀を腰の位置で構えていて、今にもクロデリアに斬りかからんとしている。
「何を言っているんですか橘香。私は散々忠告したはずです。島瀬の人間以外と関係を持たないほうがいい、と。……つまり、彼と関係を持った貴方が悪いんですよ。」
「違う!!」
「違いません。」
次は首を切り落とされるかもしれないというのに、クロデリアが動じる様子はない。
クロデリアは輪切りにされて地面に転がっている足に目もくれず、瞬時にして足を再生してみせた。
(本当にあいつは人間なのか……?)
足を得たクロデリアはその新しい足をさらりと撫で、辛うじて形を保っている門に向けて歩いていく。
「とにかく、私は貴方達をどうこうするつもりはありません。……と言うか、構っている時間が勿体無い。私は一秒でも早く次の研究を行いたいのですから。」
「まだそんなことを……!!」
とうとう橘香はクロデリアに飛びかかり、構えていた刀を振る。
刃はいとも容易くクロデリアの体に命中し、その体をバラバラに崩していく。……だが、崩壊する端からその体は再生され、全くダメージを与えられていない状態だった。
「無駄です。ただのクロフト能力はこの私には通用しません。」
そう告げられても橘香は攻撃をやめようとしない。
「戻してよ……佑くんを戻してよ!!」
橘香はやがて涙を流し始める。また、日本刀による攻撃も切れ味を失っていく。
そして、とうとう橘香は日本刀から手を放し、地面にへたり込んでしまった。
「ようやく諦めましたか。」
「……。」
橘香はもう何も喋らなかった。ただただ俯いて嗚咽を漏らしている。
やはり、俺を島瀬に巻き込んだことを後悔しているのだろうか。それとも、単にクロデリアに敵わないことが悔しいのだろうか……。
しかし、橘香の攻撃が全て無駄というわけでもなかった。
(何だ? あの部分だけ……)
去りゆくクロデリアを観察していると、体の一部分……破けた黒装束の隙間から覗いている背中の中央付近だけ、再生する速度が著しく遅いことに気がついたのだ。
早いことには変わりないが、他の部分に比べて怪我の治りが遅い。
(これは……)
これは間違いなくクロデリアにとっての弱点だ。本人は気にも留めていないだろうが、だからこそ付け入る隙があるというものだ。
佑はこの事実を発見するやいなや、再び体に力を込め、クロデリアへの攻撃を再開する。
「橘香、刀を借りるぞ!!」
「……佑くん?」
橘香は不思議そうな表情でこちらを見ていたが、すぐに手に持っている刀を差し出した。
佑は、給水所を走り抜けるランナーのごとくその刀の刃部分を強引に掴み、右手に持ち直す。
クロデリアはこちらの動きに気付いたのか、足を止めて振り返った。
……その時にはこちらの刃がクロデリアの背中に達していた。
「貴方もしつこいですね。佐玖堂佑。」
背中に触れた瞬間、日本刀の刃は異様なほどにぐわんと歪み、張力に耐えられなくなって、ガキンという音を響かせて割れてしまう。
やはり、ただの刀ではクロデリアの体に傷を付けることすらできないようだ。
(それならば……!!)
佑は刃の折れた日本刀を投げ捨て、右手の指先を綺麗に揃える。そして、再度クロデリアの背中目掛けて貫手を放った。
勢い良く放たれた貫手は音速を超える速さでクロデリアの背中に到達し、その指先を体内にめり込ませる。
「な……!?」
攻撃が通ると予想していなかったのか、クロデリアは慌てた様子でこちらから距離を取ろうとする。しかし、背中に突き刺さった指が、離れることを許さない。
佑はそのまま自らの指をクロデリアの体内へ侵入させていく。
「や、やめ……あぁッ!?」
クロデリアは痛みを感じているのか、顔を苦痛に歪めて叫び声を上げる。先ほどまでの余裕のある態度が嘘のようだ。
例によってクロデリアの背中は再生していたが、こちらの指が邪魔をしている上に再生速度が遅いため、全く意味を成していない。
佑の指はやがて背骨を通り過ぎ、クロデリアの内臓へ到達する。
ぬるりとした生暖かい感触を得て、佑は勝利を確信した。
「終わりだ、クロデリア……。」
体内に指を突っ込んだ状態で、佑は橘香の切断のクロクラフトと似た能力を発動させる。
発動させた瞬間、クロデリアは体を仰け反らせた。
「……!!?」
切断の力はクロデリアの体内で暴れ回り、臓器という臓器をめちゃくちゃに切り刻んでいく。ジューサーに放り込まれた果物でも、ここまでぐちゃぐちゃにはならないだろう。
クロデリアの口からは大量の血液が吐き出され、舌や歯を真っ赤に染めていた。
勿論、これだけの破壊に対し再生が追いつくわけがない。攻撃を加えてすぐにクロデリアの体から力が抜けた。
心臓他、重要器官を完璧に破壊されたクロデリアはあっという間に生命活動を停止させ、その場に崩れ落ちる。
その際、クロデリアの背中から指先がずるりと抜け、大量の血液をまき散らしながらうつ伏せになって地面に倒れた。
……まさに一瞬の出来事だった。
「勝った、か……。」
クロデリアが倒れると同時にその場に静寂が訪れる。
そんな静寂の中、各々がこちらに向かってゆっくりと歩いてきた。
まず始めに佑の体に触れたのは橘香だった。
「佑くん……ごめんなさい……。私のせいで……。」
橘香の声は既に震えていた。目元にも涙が溜まっており、折角のきれいな顔が台無しになっている。
佑は橘香を慰めるべく、その柔らかそうな頬に触れる。
こちらのゴツゴツとした黒い手に橘香はビクリとしたが、すぐに両手で手を優しく包んでくれた。有難い事この上ない。
「気にするな橘香。俺は生きているし、自分が自分だと自覚できている。それだけで十分だ。」
「何が十分だよ……。何のことだかさっぱり分かんないわ。」
続いて足を引きずりながらやって来たのは椿だ。
椿はこちらの硬い体を叩きながら呑気そうに言う。
「しかし、ものの見事に悪魔になっちゃったなー。……あ、写メ撮っていい?」
一方的にそう言うと、椿はポケットから携帯を取り出す。
だが、その携帯は粉々に砕けて壊れていた。あれだけ激しく戦闘をしたのだ。壊れないわけがない。
そんな椿の空気の読めなさっぷりに、橘香は怒りの篭った口調で告げる。
「椿ちゃん……、冗談で言ってるんだよね?」
「そ、そうそう、冗談冗談。そのカッコもなかなかサマになってると思うよ。私は。」
椿は橘香から少し距離を取ると、壊れた携帯電話を素早くポケットに仕舞い、苦笑いした。
「……心配することはありません。姿なんて、簡単に変化させられますから。」
椿の次にやって来たのは黒角の悪魔、ルゥメトギスだ。
ルゥメトギスは何を思ったか、その手をうつ伏せに倒れているクロデリアに向けると、業火のクロクラフトを発動させる。
瞬く間に青い炎がクロデリアの体を包み、その体を数秒足らずで炭に、そして灰に変えてしまった。改めて見るととても強力なクロクラフトだ。それを簡単に防いでいたクロデリアも凄かったというわけだ。
クロデリアを焼却処分すると、ルゥメトギスは改めて会話に混ざる。
「すみません。あのクロデリアのことです。完璧に処分しておかないと不安でして……」
「そんな事はいいから、さっきの話……人の姿に戻れるって本当!?」
橘香はクロデリアの死体を灰にしたことをスルーし、ルゥメトギスに詰め寄る。
急に接近した橘香に狼狽えながらも、ルゥメトギスはこくりと頷く。
「ええ、そうですよ。実際に見せてあげます。」
ルゥメトギスはそう言ってすぐに自分の体を人の形状に変化させていく。
革製のコートが破けていたため、無数に空いた穴から肌が見え隠れしていたが、ルゥメトギスは特に隠す様子もなく腰に手を当てポーズを取る。
その姿を見て橘香は素っ頓狂な声を上げた。
「……あ、あー!! 茉弓さん!?」
「今更気づいたのか……。」
相変わらす橘香はこういう所は鈍感だ。クロデリアも彼女のことを“木佐貫茉弓”と呼んでいた気もするが、話を聞いている余裕もなかったのだろう。
「とにかく詳しい説明は後だ。厄介事に巻き込まれる前にここから離れるぞ。」
これ以上この場にだらだら残っていても仕方がないと判断し、佑はその場にいる怪我だらけの女性陣に指示を出す。
「橘香と椿はまずは病院で治療を……っと、將一兄さんは?」
治療という言葉を口にして、佑は將一が致命傷を負っていたことを思い出す。
今の今までクロフトを使って痛覚を遮断してくれていたのだし、命に別状は無いはずだ。
佑はそこまで深刻に考えず瓦礫のあたりを観察し、すぐに將一を発見する。將一は瓦礫の一部に背中を預け、足も前に投げ出してぐったりとした様子で座っていた。
佑の予想とは違い、將一は危険な状態にあるようだった。
「將一兄さん!!」
佑は急いで將一の元に駆け寄り、怪我の具合を確認する。
上半身の切り傷は焼き固められているため出血はなかったが、肌の色は蒼白になっていた。顔からは生気が感じられず、目も虚ろだ。
「血を流しすぎたんだ……。それに呼吸も浅い。すぐ病院に運ぶぞ。」
佑は橘香たちに宣言すると、軽々と將一を抱き上げ、屋敷の外へ足を踏み出す。
……太陽は西に傾きかけていた。