第三章 異能者への目覚め
09
將一兄さんが島瀬の屋敷に現れてから4日が経った。
てっきり將一兄さんやガライゲルに襲われるのではないかと思っていたのだが、今日までそんな気配は一度もない。
手を出そうにも出せないのか、はたまた、敢えて手を出さずにいるのか……。
どちらにしても、魔女の眼が屋敷の外にあるこの状況は、悪魔たちや將一兄さんに取っては都合が良いだろう。
佑はそんな事を考えつつ、自室のベッドの上で寝返りをうつ。
今日は休日、現在の時刻は朝の8時だ。いつもなら島瀬の屋敷の庭で橘香と一緒に過ごしている時間である。
しかし、今日はそんな気分になれなかった。
……あれから屋敷には一度も行っていない。
それどころか、学校でも橘香や椿と会話すらしていない。橘香は1年生、椿は3年生なので、2年生の俺が二人を避けるのはそんなに難しいことではなかった。そもそもあの二人が学校にきているかどうかも把握できていない。
(いつまでも、これじゃあ駄目だよな……)
逃げても避けても状況がいい方へ転ぶことはない。俺が魔女の眼を保有している限り、常に危険がつきまとう。
悪魔もガライゲルの他にいるみたいだし、いつ襲われるか分かったものじゃない。それに、何もできないまま殺されるつもりもない。
やはり、クロデリアの言う通り、俺もクロフト能力を会得し、自衛の術を得る必要があるのかもしれない。
そうは思っているのだが、なかなか決心できずにいた。
「……クロクラフト、か。」
やはり、未知のものに触れるのは怖い。興味が無いわけではないが、あれを使うとなると、自分が自分で無くなるような気がしてならないのだ。
あの穏やかで淑やかな橘香が、何の躊躇もなく悪魔を切り刻み、挙げ句の果てには実の兄に刃を向けた。
それだけ、圧倒的な力というのは人を変えてしまうのだ。
(どうにかして、この状況を脱せないだろうか……)
ベッドの上で悶々としていると、ドア越しに誰かが話しかけてきた。
「佑ちゃん、今日は島瀬さんの屋敷に行かないの?」
それは母親の声だった。
母親には橘香との関係を打ち明けている。と言うか、佐玖堂家の中でこの交際の事実を知らない人間は少ない。
それだけ島瀬の人間というのは、この景吾市において影響力をもつのだ。
少し遅れて、佑は母親に応じる。
「……今日は家でゆっくりする。」
外出しない旨を告げると、母親は質問を重ねてきた。
「もしかして、喧嘩でもしたの?」
「どうしてそうなるんだ。……たまには家にいてもいいだろう。」
「はいはい。」
そんなやり取りをしていると、不意にチャイム音が鳴り響いた。
その音に反応し、母親は呟く。
「こんな朝早くに誰かしら……」
その言葉の後、母親の気配はドアから離れていった。これで誰にも邪魔されず二度寝ができるというものだ。
佑は改めて枕に頭をうずめ、目を閉じた。……が、すぐに母親が戻ってきた。
母親はまたしてもドア越しに話しかけてくる。
「何よ佑ちゃん、そういうことだったのね。」
「……なにがだ?」
何の話かわからず、佑は疑問の言葉を返す。
先程の来客者と何か関係しているのだろうか。
少しの間考えていると、母親は嬉しげに答えた。
「島瀬さん、玄関で待ってるわよ。」
そして、俺が何かを言う前にドアから離れていった。何が嬉しいのか、足音はステップの音を刻んでいる。
(橘香、とうとう家にまで来たのか。)
こういうことを想定していなかったわけではない。あちらから来れば、居留守を使うつもりだった。しかし、あの母親のことだ。俺のことをべらべらと喋っているだろうし、居留守に協力してくれる気がしない。
とにかく、玄関で待っている以上、放置することもできない。
「……行くか。」
とりあえず佑はベッドから降り、着替えることにした。
薄手の長袖シャツにチノパンを履き、佑は3階の自室から玄関へ向かっていた。
こうやって歩いてみると分かるが、この家は結構広い。
家に引越して来た時、父親はこの豪邸は普通の住宅の4倍の値段はすると話していたし、広さも4倍くらいあるのだろう。
ただ、こちらとしては自室にたどり着くまでに4倍の時間を要するわけであり、不便といえば不便だった。
佑は装飾の施された手摺に手を載せながら階段を降り、絵画が無数に掛けられた廊下を抜け、広い玄関に到達する。
母親の話通り、玄関には橘香の姿があった。
「どうして来たんだ。橘香。」
橘香は物珍しそうに靴棚の上においてある陶器の置物を眺めていたが、こちらが話しかけると素早く反応した。
「おはよう佑くん。ちょっと心配になって……来ちゃった。」
橘香は苦笑いしていた。それなりの気まずさは感じているみたいだ。
そんな表情をすぐに隠し、橘香は改めて室内を見渡す。
「佑くんの家に来るの、初めてだよね……。なんか緊張するなぁ。」
橘香は普段着ているようなジャージとは違い、今日はそれなりにまともな格好をしていた。
トップスは薄手の白地のブラウスで、その上には濃い色のカーディガンを羽織っている。
ボトムスは濃い緑を基調とした短めのキルトスカートだった。脚は黒いストッキングで覆われ、靴は踝丈のタクティカルブーツを履いていた。
靴がゴツい感じがするが、基本的にはなかなか似合っている。
ポニーテールの髪留めも少し明るめの色の物を使っているし、全体的に活発な少女に見えなくもない。
そんな橘香の愛らしい姿を見て褒めようとしてしまったが、佑は喉まで出かかった言葉を飲み込み、冷めた口調で告げる。
「来るなら来るで事前に連絡しろ。」
「だって、連絡したら絶対に断ると思って。」
「まあ、そうだろうな。……今日は一人で考えたいことがあるから、帰ってくれ。」
「え……。」
こちらの態度が冷たいことに不安を覚えたのか、橘香は今までの笑顔が嘘だったかのように眉尻を下げ、視線を土間に落とす。
この一連の動きを例えるなら、テンションが上がりっぱなしだった犬が急に我に返ったかのような、そんな感じに似ている。
いつもの橘香ならここで背を向けて玄関から出ていくところだが、今日は違った。
「……帰らないよ。今日は大事な用があって来たんだから。」
橘香はその場で素早くタクティカルブーツを脱ぎ、強引に家の中に侵入する。そして、俺に詰め寄ってきた。
「当主様からクロフトについて指導するように言われてるの。命を守るためにも、佑くんにはクロフトを会得してほしくて……。」
橘香はここぞと言わんばかりに上目遣いで俺を見る。
(クロフト能力の習得……)
俺も4日前にクロデリアから直接勧められた。これだけしつこく能力の習得を求めているということは、それなりの意味があるに違いない。
佑は瞬時に色々な要素を踏まえて思考し、簡単な結論に達する。
(戦うしか道はない、か。)
つい先程まで、俺は得体のしれない能力に手を出す勇気がなかった。逃げさえすればその必要も無いとすら思っていた。しかし、戦う以外にこの状況を脱する方法が見つからないのだ。
他にも手段はあるのだろうが、手っ取り早く見の安全を確保するには俺自らが力を得るのが道理にかなっている。
それに、クロフト能力を高める魔女の眼を保有しているのだし、これを使わない手はない。
佑はクロフト能力を会得する決心をし、橘香の肩に手を置く。そして軽く頭を下げた。
「そういうことなら、教えてくれ。」
そう言った瞬間、橘香の表情がぱあっと明るくなった……かと思いきや、橘香の目は潤みはじめる。
「良かった……。また出て行けって言われたらどうしようかと思ってた。この間から屋敷には来てくれないし、学校でも会えないし、電話にも出てくれないし……嫌われたら、どうしようって……。」
「大袈裟だな、橘香は……。」
しかし、その気持もわからないでもない。小学生の頃から今に至るまで、俺は一日も休むことなく島瀬の屋敷に足を運んでいたからだ。
それがいきなり4日間も音信不通となれば、不安を感じるのも致し方ない。
橘香はとうとう声を押し殺して泣き始めた。俺は橘香を抱き寄せて、背中を擦る。手慣れたものだ。
……いつも疑問に感じていることがある。
どうして橘香は俺みたいな偏屈者を好きになったのだろうか。中学生の時は一時の気の迷いかとも思っていたが、これだけ長く続いていることを考えるとそうでもないらしい。
まあ、今は深く考えないようにしておこう。
(しかし、ここまで好かれると罪悪感すら感じてくるな……)
暫く経っても嗚咽を漏らしている橘香を見かねて、佑は場所を変えることにした。
「とにかく落ち着くのが先だ。俺の部屋に上がろう。詳しい説明はその後だ。」
「佑くんの部屋?」
部屋という言葉に、橘香は食いついてきた。
佑は橘香の腕を引きながら、この家の構造について簡単に説明する。
「俺の部屋は3階にある。2階は両親の寝室とプライベートルームで、1階にキッチン・リビング・ダイニングだ。父親は昼間は仕事でいないし、母親もほとんどの時間を1階で過ごしている。つまり、3階なら誰にも邪魔されず、過ごせるわけだ。」
「誰にも……邪魔されない……。」
気付くと、橘香は完璧に泣き止んでいた。
それどころか、妙に嬉しそうにしている。耳も真っ赤だ。
本当に橘香は表情が豊かだなぁと思いつつ、佑は階段を登り始める。階段の幅は広く、橘香と並んで階段を登るのに何ら問題はなかった。
横に並んで暫くすると、橘香は手を軽く振りほどき、自らこちらの腕にしがみついてくる。
正直、ここまでやられると鬱陶しい。でも、さっきのこともあるし、このくらいは大目に見てやろう。
佑と橘香は2階を通過し、3階に到着する。そのまま長い廊下を進んで、ようやく二人は佑の部屋に入った。
「わぁ……」
中に入ると、橘香は溜息とも感嘆とも取れる声を上げる。
そんな声を出すのも無理は無い。なぜなら、この室内には生活に必要な家電や設備が全て揃っているからだ。バスルームからキッチンからなんでも揃っている。
また、部屋の広さも普通の広さではない。部屋の端から端まで歩くのに10秒弱掛かるくらいの広さなのだ。
こんな部屋を作らせた親の気が知れないが、まあそれなりに快適なので感謝はしている。
佑は驚いている橘香を放置し、部屋の中へ進んでいく。そして、窓際にあるベッドの上に腰掛けた。
「ほら、こっちに座れ。」
生憎、来客は想定していないので座布団も椅子もない。床に座らせるのも心許ないし、ベッドに座らせるのが無難だ。
佑はベッドの上にある掛け布団をポンポンと叩き、橘香を促す。……と、誰も居ないはずのベッドに、何か柔らかい感触を覚えた。
何かの間違いかと思ったが、一応佑は掛け布団を捲って中を確かめてみる。
「……!?」
そこには予想外の人物の姿があった。
「あちゃー、バレちゃった?」
「なにしてるんだ、椿。」
ベッドの中に潜り込んでいたのは椿だった。
椿は掛け布団を自ら剥がし、ベッドの上に仰向けになる。
アッシュブラウンの長い髪は白いシーツにブワッと広がり、同時に甘い香りが周囲に立ち込めた。多分これはシャンプーの香りだろう。
椿はまだ春先だというのに、肩口が開いたTシャツに、ホットパンツという非常にラフな格好をしていた。保温機能に優れる暗い色のインナーを着用しているようだが、それでも寒いことに変わりはない。
脚には靴下すら履いておらず、完全なる裸足状態だった。どうせ靴もサンダルか何かだろう。
そんなラフにラフを重ねた椿は、ヨレヨレのシャツの隙間から無防備なおへそを見せつけつつ、簡単に事情を話す。
「橘香が佑の家に行くっていう話を聞いてさ、面白そうだから尾行してきた。……でも駄目だなぁ、いくら3階だからって、窓の鍵は締めとかないと。」
椿がいつ、どうやってこの部屋に侵入したのか……。佑は大きく開いている窓と、その脇に無造作に落ちているサンダルを見てなんとなく理解する。
大方、橘香の後をつけて佐玖堂家にたどり着き、橘香が玄関から中に入るのを確認してから、この部屋に先回りしていたのだろう。
3階ではあるが、椿の衝撃のクロクラフトを使ってジャンプすれば簡単に侵入できるはずだ。
橘香も先客の存在に気が付いたようで、ベッドにいる俺と椿を見つめていた。
入り口で立ち尽くしている橘香に対し、椿は元気よく声を掛ける。
「おはよー橘香。先に上がらせてもらってるよー。」
「……。」
仲良く挨拶するのかと思ったのだが、橘香は何も言わずに無表情を保っていた。
そして、ひどく冷めた声で、椿に話しかける。
「――何してたの、二人で。」
「……?」
始め、佑は橘香の言葉の意味がわからなかったが、改めて状況を認識して誤解を受けていることに気付く。
橘香は椿がたった今部屋に侵入したことを知らない。つまり、朝から、もしくは昨晩からこの部屋にいたと思っているはずだ。
そして、女が男の部屋で一晩を過ごすということは……つまりはそういうことである。
いらぬ誤解を解くために、佑は橘香に説明してやることにした。
「おい橘香、こいつはあの窓から勝手に……」
説明しながらベッドを離れようとしたが、立ち上がろうとしたその瞬間に椿が俺の腰回りに飛びついてきた。
椿はわざとふざけているようで、ニンマリと意地の悪い笑みを浮べている。人は悪だくみをする時、こんな顔をするらしい。なかなかに感慨深い。
そんな事をしている間に、椿はさらに余計なことを言う。
「あー、昨晩は凄かったなぁ。こりゃあもう橘香から私に乗り換えて……」
橘香を誂う気満々なのがよく分かるセリフだ。しかし、そのセリフは急に発せられた亀裂音によって遮られることになる。
「冗談だよね? 椿ちゃん。」
橘香は入口近くにある冷蔵庫に手を触れていた。触れられた冷蔵庫は扉を失っており、中身が丸見えになっている。
近くの床には、冷蔵庫の扉を構成していたモノが散乱していた。もはや原型を留めていない。
橘香はそれらを踏みつけながら、ベッドに近寄ってくる。
「ついさっき、佑くんと仲直りしたばかりなのに……。これからも上手く付き合っていけると思ったのに……。それなのに椿ちゃんは……何をしたの?」
愛が重すぎる。
このままだと椿はあの冷蔵庫と同じ運命を辿るのではないだろうか。
椿だけに限らない、俺も命が危うい。魔女の眼でクロフト能力を防げると言っていたが、そんなこと関係なく殺されそうだ。
いよいよ橘香がベッド脇に到着すると、椿はあっさりとこちらの腰から腕を放し、大きな笑い声を上げた。
「あは……あはは!! 冗談だって冗談。ほんと、橘香は誂い甲斐があるなー。大体、今朝、島瀬の屋敷で会ったじゃん。ボケてるなぁ橘香は。」
橘香は椿のセリフに面食らった顔をし、やがて今朝のことを思い出したのか、椿につられるようにして笑い始める。
「えへへ、そうだったね。ごめん、勘違いしちゃった……。でも、今度やったら切り刻むよ。こっちは冗談じゃないからね。」
口角を上げて笑っているものの、目は笑っていなかった。
「と、とにかく、また悪魔が来る前にちゃっちゃとクロフト覚えさせよーぜ。」
椿はベッドから飛び退き、部屋の奥にある窓際まで移動する。
そんな椿と入れ替わるように、橘香は俺にくっつく。
「……そうだね。それじゃあ始めよっか。」
特に準備もなく、橘香と椿によるクロフト能力指導が幕を上げた。
橘香と椿が家を訪れてから20分後。
佑は自宅から離れた場所にある自然公園にいた。少し小高い場所にあるこの公園からの眺めは綺麗で、結構遠くまで見渡せる。
今日は休日とあって人の数が多いが、そのほとんどは遊具やアスレチックがあるエリアや広い芝生の広がるエリアに集中しており、植林された若い木々が生えているエリアにはほとんど人の影がなかった。
規則的に木々が並び、濃い影を作っているそのエリアにて、佑は呟く。
「――こんな公園で訓練するのか。もし見られたらどうするんだ?」
雑木林の中、少し開けた場所で佑は二人に質問する。
橘香は細い幹にもたれ掛かりつつ、理由を告げた。
「これだけ木に囲まれてたら問題ないよ。と言うか、場所を変えようって言ったのは佑くんだよ?」
「……。」
橘香の言う通り、場所を変えるようにお願いしたのは俺だ。流石に母親にクロフトに関して知られる訳にはいかないと考えたからだ。
しかし、まさかこんな公園に移動するとは思っていなかった。
「なあ、訓練するならせめて島瀬の屋敷内でしたほうが……」
今からでも場所を変えないかと言おうとすると、即座に橘香から却下の言葉が返ってくる。
「駄目。当主様はクロフトを教えるのを認めたけれど、他の人たちは反対してるからね。ヘタしたら過激派に殺されちゃうかもよ。」
「なるほど……。」
島瀬の中にもいろんな人間がいるらしい。俺だって、あんな威厳もクソもない若い女性が当主なら反抗してしまうかもしれない。
椿は橘香ほど深刻に考えていないようで、軽い口調で言う。
「大丈夫だって。もし過激派とかが来ても橘香と2人なら簡単に追い払えるし。」
「そうかな。こっちの能力は強力だけど、単純すぎるから、搦め手で来られると危ないかも。実際、お兄ちゃんには手も足も出なかったわけだし……。」
橘香は椿の楽観的な考えを否定し、ため息をつく。
あんなのが他にもいるとなると、厄介どころの話ではない。今だって、將一兄さんが近くにいないとは限らないのだ。
そう思うと、急に寒気がしてきた。
このままうじうじ考えていても埒が明かないと思い、佑は話を前に進める。
「とにかく、練習しないか。俺も自衛のために早く能力を覚えたい。」
橘香は椿との会話を中断し、一息ついてこちらを見る。
「安心して佑くん。今から教える『慧眼のクロクラフト』は身を守るのに最適なクロフト能力だから。」
「なんだ、覚えるクロフトはもう決められてるのか。」
「うん。これも当主様の指示なの。……慧眼のクロクラフトは基本的には物事の本質を見抜くための能力なんだけれど、簡単な索敵とか透視にも使えるし、色々使い勝手がいいクロフトなの。……他と比べて高度なクロフトだけど、魔女の眼の効果のお陰ですぐに覚えられると思うよ。」
流石は島瀬の家宝、魔女の眼だ。さんざん俺に迷惑を掛けているわけだし、今日くらいは役に立ってもらおう。
「じゃあ早速教えてくれ。」
この言葉に対し、椿は脅すような口調で言う。
「橘香は簡単そうに言ってるけどさ、一朝一夕にできる事じゃないぞ。クロフト能力の中でもこういった類のクロフトは複雑で超難しいんだ。普通、完成させるまで20年は掛かるんだぞ。」
「……。」
20年という数字を聞き、佑は狼狽えてしまう。
自分には魔女の眼もあるし、人より要領がいいと思っているが、それでも20年という時間を数日に短縮させられる自信はない。
そんな俺の不安を感じ取ってくれたのか、橘香はフォローする。
「20年掛かるって言っても、別に難しいってわけじゃないよ。単に前例が少ないだけで、難易度自体は本人次第だよ。」
「前例が少ないってことは……今はそういう系統の能力者はいないのか?」
「うん、大体の人は悪魔と直接戦えるように攻撃に関するクロフトを選ぶから、こういうサポート役に回るような能力を会得する人は珍しいの。……でも魔女の眼を持ってる状態だと本当に簡単に習得できるらしいから、安心してね。」
橘香に続いて椿も魔女の眼についてコメントする。
「当主様がこの系統のクロフトを選んだのも、魔女の眼の事があったからだろうし、短期間で会得できるって考えてるんだろーなぁ。」
何だかんだ言って、二人共俺に不安を与えないようにしているようだ。
クロフトに関しては橘香や椿のほうが遥かに先を行っている。
それを踏まえ、佑は改めて二人に深くお辞儀をする。
「ご指南のほど、よろしくお願いします。」
「佑くんにお願いされるなんて、何だかむず痒いなぁ。」
「はいはい。まあ一日で出来るようなもんでもないし、暫くの間よろしくなー。……あと、今日から私のことは師匠と呼ぶんだぞ?」
佑は椿の命令を無視し、橘香を見る。
橘香も椿の言葉を無視して訓練の内容について説明し始める。
「それじゃ、当主様から渡されたメニュー通りに進めていくからね。」
「わかった。」
……それから、橘香と椿の監修の元、クロフト能力習得のための訓練が始まった。
「――橘香、いつまで続けるんだ。」
「いいから答えて答えて、ほら。」
「……スペードの4?」
「違う。ハートのジャック。」
「掠りもしないな……。そもそも、これで分かったら、それこそ修行なんていらないだろうに。」
「そんなこと言わないで、当主様のメニューに間違いがあるわけないんだから。ほら、続けるよ。」
訓練が始まってから3時間後、佑はひたすら橘香が差し出してくるトランプカードの裏模様を見つめていた。
佑を含めた3人は、雑木林の中で大きなレジャーシートを広げ、その上に座っている。
そのレジャーシートの上で、橘香はただひたすらトランプの裏模様をこちらに突きつけ、俺もただひたすらトランプのマークと数字を直感で言っている。
ちなみに、椿は開始5分で飽きたらしく、今は寝転がって夢の中だ。
クロフトの訓練と聞いて、何か特殊な事をするのかと構えていたのに、これではどこかの怪しい超能力実験と全く変わらない。
佑は再び提示されたカードの裏模様を見つめ、適当に数字を告げる。
「ダイヤの2。……こんなので本当に大丈夫なのか?」
「惜しい、ダイヤのエース。……大丈夫大丈夫、そのうち魔女の眼が何とかしてくれるって。」
「結局、魔女の眼頼りなのか……」
「ほら佑くん、文句言わないで次行くよ。」
3時間同じことを繰り返しているというのに、橘香もよく飽きないものだ。
……その後も暫くトランプの数字当てを続けていると、不意に椿が目を覚ました。
「やっぱり全然進んでないなー。この稀代の天才の私ですらクロフトを完璧に習得するまで10年掛かったんだぞ。ズブの素人の佑が短期間で習得できるわけないない。」
それだけ言って、椿は再び寝息を立て始める。
色々と突っ込みたかったが、起こしてまで聞かせることもないだろう。
(しかし、全く当たらないな……)
早速この訓練メニューに飽きてきた佑は、雑談し始める。
「それはそうと橘香、クロフトを創りだしたのはクロデリアだと言っていたな。……クラブの7。」
「スペードのキング。……当主様が何か?」
カード当てを続けつつ、二人は器用に会話する。
「そっちも興味はあるんだが……、とにかく、クロデリアとクロフト能力について、詳しく説明してくれないか。」
クロクラフトに関して、佑はまだ十分な説明を受けていない。クロデリアに聞いた時も、手段より目的の方が大事とか何とか言われて聞けずじまいだ。
この能力が何なのかを理解していれば、クロフト能力の習得にも役立つかもしれない。
橘香もそんなことを考えていたのか、口を噤むことなく説明してくれた。
「……じゃあ、クロフトの説明の前に当主様について教えるね。……当主様のことは私もお父様からちょっとしか聞いたことがないけれど、クロフトの基礎概念を生み出した天才科学者ってことだけは確かね。」
「科学者? 魔女じゃないのか。」
「みーんな魔女だって言ってるけど、本人はそう言い張ってる。」
この際魔女だとか科学者だとかはどうでもいい。問題はその次の言葉だった。
「それにクロフト能力を“生み出した”っていうのは本当か……? “発見”じゃないのか。」
発見と創造とでは全く意味合いが違ってくる。
あんな特殊な力を生み出したとなれば、まさしく神だ。
橘香もそれ以上の情報は知らないようで、首を傾げていた。
ここらへんで会話を切り上げようかと考えていると、どこからともなく答えが返ってきた。
「……佐玖堂佑の言う通り、発見という表現が近いかもしれないですね。」
そんな言葉とともに現れたのはまさに今噂していた人物、クロデリアだった。
いきなり出現した彼女に、橘香の体がビクリと反応する。
「と、当主様!?」
「本当に神出鬼没だな……。」
こうなると、魔女どころの話ではない。人間かどうかすら怪しく思える。
「それは褒め言葉として受け取っておきます。」
クロデリアはそう言いながら俺を見て、続いて橘香を見る。そして最後に口を半分開けて八重歯をのぞかせながら爆睡している椿を見て、軽くため息を付いた。
相変わらず黒いコートを羽織っている彼女は、誰に頼まれるでもなく自分とクロクラフトについて淡々と話し始める。
「先程の話ですが、……私は魔女ではなく、ただの物好きの科学者です。クロクラフトに関しても、偶然ある一定の手順を踏むと、物理法則から大きく逸れたエネルギーが得られることを発見しただけなのです。その後、そのエネルギーを利用して様々な超常現象を起こせることを証明し、利用する手法を発明したわけです。……ですが、まだ根本的な解明には至っていないのが現状ですね。」
「よくそんな物を発見できたな……。世間に公表したら確実に歴史に名が残るぞ……。」
「公表した所で意味はありません。今の世界がクロクラフトを受け入れられるわけがありませんから。こういう発表は、周囲の学者のレベルが一定以上ないと意味が無いんです。」
クロデリアはそう前置きし、説明を再開する。
「とにかく、この世が神によって創りだされたものなら、このエネルギーはある種のエラー。テレビゲームに例えれば、クロクラフトは言わばバグを使ったチートのようなものです。しかしながら、そこに一定の法則は存在しますし、きちんと観測もされています。早く公表できるように、今後の科学技術の発展に期待しましょう。」
ただの変人かと思っていが、こういう話を聞くとしっかりした人に思える。
説明されたついでに、佑は現在感じている疑問をクロデリアに投げかける。
「科学の発展はともかく、こんな訓練でクロフトを習得できるのか?」
「魔女の眼がすんなり体内に入ったということは、少なくともクロクラフトとの親和性は高いということです。そこそこ頭もいいみたいですし、少し訓練をすればそこの二人同様、自由にクロフトを扱えるようになるでしょう。」
この“少し”がどのくらいの時間なのかが気になる所だ。
一日や二日でできる気はしないが、通常よりも早く習得できると考えていいだろう。
先のことを考えて少し黙っていると、唐突にクロデリアがあることを提案する。
「そうですね……。今から私が訓練に付き合ってあげましょうか。」
クロデリアはビニールシート内に侵入し、橘香の隣に腰を下ろす。
その間、橘香はまっすぐと前を見ていた。緊張のせいだろうか、クロデリアの顔も見られないみたいだ
そんな状態の橘香からトランプカードを奪い、クロデリアは問答無用で訓練を始める。
「では、始めましょうか。」
「やることは同じなんだな……。」
トランプの裏模様を突き出され、佑は再び直感でマークと数字を当てる訓練を再開させた。
――クロデリアが指導を始めてから5時間が経った。
とっくの昔に昼は過ぎ、今は夕方だ。
遊具やアスレチックで遊んでいた親子連れの姿は既になく、芝生のグラウンドも閑散としている。
橘香は座ったまま首を前に傾けて眠っており、椿は相変わらず大の字になって熟睡している。よくここまで寝ていられるものだ。
時たま、二人の女子高生の寝顔を見つつ、佑はクロデリアと訓練に励んでいた。
「……ハートの7。」
「正解です。」
「……クラブの……2だ。」
「正解です。」
佑はあれからずっと相も変わらずカードの数字当てを行なっている。
ただ、5時間前とは全く状況が異なっていた。
「……ハートの4。」
「正解です。」
何となくだが、直感でカードの数字とマークが把握できるようになってきたのだ。
初めは透視の訓練かと思っていたが、こうやって見ると全く違うことに気付く。見ていると言うよりも、対象物の情報を捉えている、という表現に近いかもしれない。
うまく言葉で説明できないが、ともかく、コツを掴んできたのは事実だ。
「次で最後です。」
クロデリアはそう言い、一枚のカードをこちらに向ける。
このカードに関してはクロフトを使うまでもなかった。なぜなら、俺は今まで提示されたカードの数と模様を覚えていたからだ。
佑は、今まで出てこなかったカードの名前をすぐに告げる。
「ジョーカーだ。」
「はいご明察。……これで53枚、全て正解ですね。感心しました。飲み込みが早いですね。」
「それはどうも。」
正直、自分でも驚いている。これ程までにしっかりとカードの裏の数字を捉えられるとは思っていなかった。
そのせいか、今は成し遂げた喜びよりも、戸惑いのほうが大きかった。
「それにしても不思議だなぁ。使えるようになってしまうと、これが生まれた時から備わっている能力のようにも思える……。」
独り言のつもりだったが、クロデリアはその言葉にも応じてくれた。
「端的にその感覚を表現するなら、“3本目の腕”と言ったところでしょうか。」
「……?」
クロデリアはレジャーシートに散らばっているカードをかき集め、黒装束の中へ放り込みながら話し続ける。
「クロフト能力は理屈で考えて発動させるものでもありません。使用にはある一定の理解と手順が必要ですが、それも体が覚えてしまえば同じ事です。クロフト能力は貴方の体の一部です。最終的には腕を動かすのと同じくらいの感覚で能力を行使できるようになるでしょう。」
そこまで言うとクロデリアは立ち上がり、レジャーシートの外に出る。どうやらもう訓練は終わりのようだ。
レジャーシートを踏み歩く音で目が覚めたのか、橘香は前に傾げていた頭を持ち上げ、椿も身を起こしてその場に座った。
寝ぼけ眼の二人に対し、クロデリアは短く告げる。
「基本は出来上がりました。あとは任せます。」
「ふぁい……。」
橘香は辛うじて声を発し、クロデリアに返事をした。椿はまだ半分眠っているようで、クロデリアを見たままぼんやりしている。
「二人共、よく眠れたみたいですね。」
眠たげにしている二人を特に咎めることなく、クロデリアは去っていく。
「それでは、また機会があれば……。」
その言葉が聞こえる頃にはクロデリアの姿は消えていた。
全くもって謎の多い当主様だ。だが、今日の訓練に付き合ってくれたことは感謝しておこう。
「……ふあぁ……」
「ふぅ……」
クロデリアがいなくなると、橘香と椿の二人はお互いに示し合わせたかのようにあくびをする。
あれだけ眠っておいてよくあくびが出るものだ。
「どうしたんだ、橘香。それに椿も。」
「どうしたもこうしたもないよ佑くん、ずっと緊張しっぱなしだったんだから。」
思いっきり眠っていたように見えたが、あれは見間違いだったらしい。
橘香に続いて椿も堂々と嘘をつく。
「そうそう、あの当主様だぞ? 何をされるかと気が気じゃなかった。私のクロフト程度で敵う相手じゃないし、もしかしたら殺されやしないかと……。もう、一生分の冷や汗が出たわー。」
二人共、訓練訓練と息巻いていたのに、あっけなく眠ってしまったことを恥じているのだろう……と思っておこう。そう思ったほうが可愛げがあるというものだ。
大袈裟な嘘はとにかく、椿の言った冷や汗に関しては本当のようだった。
「確かに、二人共結構な量の汗がでてるな……。」
今日は暑くもなく寒くもない日だったが、昼間中お天道さまの下にいれば汗くらいかく。
椿は薄手のシャツの中に手を突っ込みながら、不快な表情を浮かべる。
「こういう時のために速乾タイプのインナー着てるのに、何が吸汗速乾だよ。」
「でも、黒色だからあんまり汗は目立ってないな。」
椿に続き、橘香も愚痴をこぼす。
「私も、訓練だって聞いて動きやすい下着を履いてきたのに、あんまり意味なかったかも。」
「だな。確かに動きやすそうだが、紐が解けかかっているから気をつけろよ。」
「うんありがと。……って!!」
俺のセリフを聞き、ようやく二人は重大な事実に気づいたらしい。
橘香は慌てた様子で立ち上がってキルトスカートの裾を押さえ、椿はTシャツの中から腕を出し、自らの肩を掴むようにして両腕を体の前でクロスさせる。
橘香は顔を真っ赤にしながら半ば叫ぶようにして警告する。
「こっち見ないで!!」
「わかった。」
その言葉に従い、佑は反対方向にいる椿に顔を向ける。
すると、当然ながら椿からも非難の言葉が飛んできた。
「お前、クロフト能力使ってまで覗いてんじゃねーよ!!」
朝、あれだけ堂々と俺に抱きついてきたのに、椿は狼狽えている。誂うのは得意でも誂われるのは苦手みたいだ。
そんな二人の非難の言葉を軽く受け流し、佑は言い訳する。
「大丈夫、見えてない。眼で見ているというより、視覚情報を直接理解しているって感じだな。なんて言えばいいか、第六感というか、感覚的というか……とにかく、椿の汗だくの下着は見えてないし、橘香の可愛らしいヒップラインも見えてない。」
「絶対見えてるでしょ!!」
「殺す……」
二人は顔を真っ赤にして、怒りの篭ったセリフを吐く。
椿は今にもこちらに殴りかかって来そうな雰囲気を発していたが、橘香はすぐにその怒りを収めてくれた。
「でも、一日でそこまでできるようになるなんて凄いね。やっぱり魔女の眼の効果かな……。」
「だろうな。でも、まだこれじゃあ敵を追い払うのは無理そうだ……。」
今現在俺が使えるようになったのは透視まがいの技のみだ。レーダーよろしく相手の位置を正確に把握するまでは程遠い。まだまだ訓練の余地がありそうだ。
椿も胸元を隠していた腕を解き、俺のクロフトについて意見を言う。
「一日でそれなら十分だろ。このペースなら1週間くらいでマスターできるんじゃないか? 事前に危険を察知できれば簡単に逃げられるし、もう安心だな。」
椿の言う通り、早い段階で敵の存在を察知出来れば簡単に退避できるし、戦うとしても圧倒的有利で戦闘を進められる。
しかし、これで本当に安全になるのだろうか。
(……。)
佑は一抹の不安を拭いきれずにいた。
10
「――こうやって二人きりで昼休みに会うの久し振りだね。」
「そうだな。学年が違うせいで1年以上会ってなかったからな……。」
週は開けて月曜日。
昼休みの学校のグラウンドには誰の姿もなかった。
グランドは四方を高いフェンスで囲まれていて、そのフェンスには蔦などの植物が高い位置まで絡まっている。本来なら除去するべきなのだろうが、これは天然の覗き見防止柵となっていて、おまけに防風効果もある。暑い夏には幅広い日陰を作ってくれるし、何かと便利なのだ。
そのため、長い間あの蔦は放置されている。
体育の授業以外でグラウンドを使うことがない俺にはどうでもいい話だ。
中学生の時は、昼休みともなれば大勢の生徒が外に出てサッカーや野球などで遊んでいたものだ。しかし、この高校ではそんな光景は全く見られない。
せっかく広いグラウンドがあるのに、何だか勿体ない気分だ。
黄土の砂で覆われたグラウンドを日陰から眺めつつ、佑は橘香に問いかける。
「それで、用事って何だ。」
……昼休み前、橘香は突然俺のいる教室……2年8組にやってきた。
いきなり出現した可愛らしい一年生の女子生徒にクラスメイトは驚いていた。また、その女子生徒が俺の机まで移動し、少し屈んで顔を寄せ、耳打ちし始めた時にはどよめきすら起こった。
その時、橘香は小声で“話があるからグラウンドに来てほしい”とだけ告げ、教室から出て行ってしまった。
昼休みの前に来たのは、椿に邪魔をされたくなかったからだろう。
一体、二人きりで何を話したいのだろうか……。
つい20分ほど前のことを思い出していると、橘香がこちらの質問に答えてくれた。
「あのね、今日、島瀬の屋敷に寄って欲しいの。……と言うか、できれば泊まって欲しいというか……。」
「いきなり何の話だ?」
男に向かって“自分の家に泊まってくれ”なんてセリフ、事情を知らない人間が聞いたら誤解を生んでしまう。
橘香もその事を理解しているようで、矢継ぎ早に話す。
「この前、当主様が佑くんにクロフト能力を指導したでしょ? 当主様が許してるから問題ないと思ってんだけれど、島瀬のベテランの人たちがまだ反対してるの。」
「それは大変だな。」
「うん。……それで、いつまで経っても埒が明かないから、本人を連れて来いって……。」
なるほど。話はよく分かった。
俺がクロフト能力を持つにふさわしい人間なのかを実際に見て確かめるに違いない。
それでなくても俺は既に島瀬の家宝である魔女の眼を保有している。この呼び出しに応じなければ、無理矢理にでも連行されるに決まっている。
佑はこの話を聞き、思ったことを言う。
「……殺されやしないだろうな。」
「それは……大丈夫。安心して。」
橘香はそのセリフとは裏腹に、作り笑いをしていた。反対派の中に危ない人物がいるのかもしれない。
橘香は尚も俺に懇願する。
「佑くんの『慧眼のクロクラフト』は凄いスピードで成長しているし、披露すればお父様も納得すると思うの。だから、お願い。」
「お父様……?」
「あ……。」
橘香は瞬時に気まずい表情を浮かべたが、その表情はすぐに後悔の表情に変化する。
「ごめん、佑くんの件について一番反対してるのはうちのお父様なの。」
「そうか。それはきついな……。」
橘香の父親には一度会ったことがある。あの時は中学生だったが、とても強面のおじさんだったことはよく覚えている。
……しかし不思議だ。
橘香曰く、当主様の命令は絶対なのに、なぜ橘香の父親はクロデリアの決定に逆らってまで俺を排除しようとしているのか。
フェンスを匍う蔦が作る影の中で考えていると、不意に近くから声が発せられた。
「きつくて当然だろ。橘香の親は將一さんっていう裏切り者の前例を作ってるからねー。これ以上不安定な要素を島瀬に持ち込ませたくないんじゃない?」
そんな声と共にひょっこり現れたのは椿だった。
椿は腕を後ろで組んでぴょこぴょこと歩き、蔦の影の中に入る。そして、何の断りもなく橘香の隣に腰を下ろした。
下は細かい砂が舞うグラウンドだというのに、よくこんな場所に尻を付けて座れるものだ。
橘香は椿の出現を不可解に思っているようで、納得のいかない表情を椿に向ける。
「椿ちゃん……どうやってこの場所を?」
「屋上で待ってたら偶然見つけただけ。……それより、私だけ仲間はずれなんてひどくなーい?」
椿は語尾を伸ばして不平を言い、橘香の太ももにしがみ付いて体を揺らし始める。
その振動にあわせて橘香は前後左右にフラフラと揺れていた。
2歳年下の後輩をソフトに弄りつつ、椿は頼まれていないのに先程の話を再開させる。
「……やっぱり、身内が不祥事を起こすと島瀬の中じゃ肩身が狭くなるからね。こればっかりはどうしようもないよ。」
「椿、まるで体験したみたいな物言いだな。」
「……。」
こちらの何気ないセリフに、なぜか椿は口を噤んでしまう。
口を閉じても微かに先端を覗かせていたトレードマークの八重歯も今は唇の下だ。
そればかりでなく、今の今まで明るかった表情にも翳りが見え、こちらに向けていた視線も何処かへ逸らしてしまった。
そんな反応にいち早く気づいたのは橘香だった。
橘香は事情を知っているようで、俺にそのことを告げる。
「佑くん、椿ちゃんは実際に肩身が狭くなる体験をしてるんだよ。そのせいで、島瀬の姓を名乗れないの。」
椿のフルネームは木佐貫椿だ。確かに島瀬ではない。
親戚でも苗字が違うというのは至極普通のことだ。それでも、島瀬の系譜にとっては“島瀬”を名乗ることが大きな意味を持つらしい。
橘香の説明の後、椿は自らの家の事情を告白し始める。
「……実は私のお姉ちゃん、二年前に当主様を殺そうとしたんだ……。」
「!?」
衝撃の告白に、佑は息を呑む。
命令や指示に背くならまだしも、クロデリアを殺そうとするだなんて考えられない。
椿は膝を抱えた状態でフェンスにもたれ掛かっていたが、膝をさらに胸元に引き寄せて話を続ける。
「その時はお咎めなしだったんだけれど、悪魔と戦闘している時に突然当主様がお姉ちゃんのクロフト能力を封じて……。お姉ちゃんは、抵抗できなまま悪魔に……。」
そこまで言うと、とうとう椿は膝頭におでこをひっつけて俯いてしまった。
「実際に手を下してはいないが、クロデリアがお姉さんを殺したのは事実だな。」
椿の話を自分なりに判断し、佑は客観的な事実を述べる。
「どうして……茉弓お姉ちゃん……。」
椿は姉の名前を一度呟き、それ以降は何も喋らなくなってしまった。
佑は重くなってしまった空気を変えるべく、橘香との話に戻る。
「橘香、取り敢えず俺は島瀬の屋敷に行けばいいんだな?」
「うん、学校終わったら一緒に帰ろ?」
「わかった。」
佑が了承したことによって橘香との話は終了した。
それから椿が顔を上げるまで、佑と橘香は無言で椿のことを見守っていた。
11
早朝の住宅街。
聞こえてくるのは鳥のさえずりと新聞配達の原付のエンジン音だ。
ここ、景吾市には北と南に住宅地が密集していて、特に田園地帯だった南側には今も新しい住宅が建ち続けている。北にもそれなりの数の住宅や高層マンションなどがあるが、その中に歴史的建造物や、町並みの保存区が点在しているため、住宅を増やしたくても増やせない状況だ。
ちなみに西側はすぐに大きな山脈があるため、住宅も少なく、住んでいる人も少ない。島瀬の屋敷はその山のすぐ手前にあるため、市街地までかなりの距離があるというわけだ。 海の広がる東側には港は勿論のこと、空港や工場地帯などが展開されている。南側も、一つ川を超えて山を超えれば農業地帯だが、そこまで行ってしまうと別の市になってしまう。
とにかく、景吾市の南側はベッドタウン化しており、多くの市民がそこに居を構えているということだ。
……そんな南にある住宅街の道路を、佑は一人で歩いていた。
(――疲れた……。)
こんな朝早くに歩いているのは登校のためではなく、帰宅のためだった。
昨日の放課後、俺は橘香との約束通り島瀬の屋敷に寄り、そこでクロフト能力を披露した。
島瀬の屋敷内にある広い道場には20を超える人間が集まっており、そんな中でクロフト能力を披露するのはなかなか緊張した。
始めは透視まがいの事をしていたが、次第に島瀬の人たちの要求はエスカレートし、最終的には“かくれんぼ”を行うことになった。
俺の慧眼のクロクラフトで、どの程度対象の位置を把握できるのか試したかったらしい。
彼らの期待通り、俺はクロフト能力を最大限に活かして20名近い島瀬の人達を探し出すことができた。
あの時も思ったが、この索敵能力はとても便利だ。相手の位置がわかるだけでなく、体勢や視線、挙句は体調までも把握できる。ここまで高性能なのは、一重に魔女の眼のお陰だろう。
ただ、かくれんぼは簡単には終わらなかった。
最後の一人はとても逃げ足が早く、場所を把握できているにもかかわらず、視界に収めることができなかったのだ。
最終的には橘香に頼んで庭に落とし穴を作ってもらい、捕えることができた。やはりこの索敵能力は戦闘には向かない。しかし、サポートには最適だ。
かくれんぼに参加した島瀬の人たちも俺の能力の有益性を認めてくれたようで、快く……とは言えないものの、一応は島瀬に迎え入れてくれた。
クロフト能力の披露が終わった後は無理矢理宴会に参加させられ、結局島瀬の屋敷から解放されたのは朝の4時だった。
そのまま島瀬の屋敷で仮眠してから登校したかったのだが、それは橘香の父親が許してくれなかった。やはり、まだ俺のことが気に入らないみたいだ。
そんなこんなで佑は2時間近く歩き、西の山から南の住宅街に移動していた。
(……やっと着いた。)
6時前になるとようやく自宅に到着し、佑は気だるさを感じつつもドアを開ける。
すると、ほぼ同じタイミングで家の中からスーツ姿の男性……佑の父親が出てきた。
「やっと帰ってきたか。」
父親からは怒っている気配は感じられない。むしろ、“よくやった”と言わんばかりの弾んだ声を発している。
そんな声に遅れて、室内から意気揚々とした母親の声も聞こえてくる。
「あら佑ちゃん、朝帰りなんてやるじゃない。」
一人息子が朝帰りしたというのに、この両親は心配すらしていないようだ。
俺にとってはありがたい反応だが、一般的に考えると何かおかしい気もする。いや、絶対におかしい。
両親は気にしていないようだったが、佑は一応謝っておくことにした。
「遅くなって済まなかった。」
仮にも高校生がこんな時間に帰宅していいわけがない。俺もその事をよく理解している。
だが、次の父親の言葉でどうして両親が心配していなかったのかを知ることになる。
「島瀬と仲良くなるのは悪いことじゃない。だが、“島瀬”とは付き合うなよ。お前が付き合っているのは“橘香”という女の子なんだからな。」
どうやら島瀬の屋敷に行っていた事を知っていたらしい。
佑は父親の注意に対し、はっきりとした口調で答える。
「分かってる。島瀬の後ろ盾がほしいとか、そんな理由で付き合ってるわけじゃない。」
「……なら、いいんだ。」
それだけ言うと父親は玄関に置いていたリュックサックを拾い上げ、それを背負う。
「それじゃー父さん行ってくる。」
「行ってらっしゃい。」
そして、俺の肩を軽く叩いて駅に向かって行ってしまった。
父親が玄関から出ていくのを見届けていると、母親が話しかけてきた。
「佑ちゃん、取り敢えずシャワー浴びてきたらどう? その間に朝ごはん作ってあげるから。」
「……よろしく頼む。」
佑は短い会話を終えると玄関で靴を脱ぎ、家の中に入る。
そして重たい足を引き摺って3階まで上がり、自室のベッドの上に制服を脱ぎ捨てると、そのまま部屋に備え付けられたシャワールームに入った。
「ふぅ、さっぱりした……。」
やはり、朝に浴びるシャワーはいい。
ごわごわの髪の毛もサラサラになり、ベタベタしていた肌もボディソープのお陰でスベスベだ。
フカフカのバスタオルを首に引っさげ、ドライヤーであらかた髪を乾かすと、佑は自室に続く扉のドアノブに手を掛ける。
しかし、ドアノブを捻る前に佑は異変を感じ、その動きを止めた。
(誰かいる……?)
先程までは全く感じなかったが、室内に人の気配を感じる。
佑は無意識のうちに慧眼のクロクラフトを使い、ドア越しに周囲の様子を確認する。
昨日までは簡単な透視しかできなかったが、かくれんぼのお陰でかなりの応用技を会得することができた。
今の俺は眼を瞑っていても周囲の状況をほぼ完璧に把握でき、見えない場所にいる者、隠れている者も見つけ出せる。
そんなクロフト能力を活かして室内の様子を探ると、部屋の入口付近、冷蔵庫の近くに男の姿を確認することができた。
泥棒か何かと一瞬思ったが、普通、泥棒は冷蔵庫の中からジュースを出して、それを悠長に飲んだりしない。
慧眼のクロクラフトによって正体を把握した佑は、ドア越しにその男に告げる。
「……將一兄さん、勝手に冷蔵庫を空けないで欲しいな。」
「どうやら、魔女の眼を有効に利用しているらしいね。……もしかして慧眼のクロクラフトかな?」
「その通りだ。」
將一の言葉を肯定し、佑はシャワールームのドアを開ける。
室内には優しい笑顔が特徴の青年、將一兄さんがいた。彼はダイニングのテーブルに座り、リラックスしている様子だった。
「急におじゃましてごめんね。」
謝罪感のこもっていないその言葉を無視し、佑は將一に詰め寄る。
予想外の出会いだが、將一兄さんには色々と聞いておきたいことがあったので好都合だ。
佑はテーブルの向かい側の席に座り、単刀直入に質問する。
「魔女の眼をどうするつもりなんだ。いつまでも俺に預けておくつもりはないんだろう? ……やはり、俺を殺すのか?」
佑はどうしても、將一に殺意の有無を確認したかった。なぜなら、佑にとって將一は友であり、尊敬できる兄でもあったからだ。
そんな將一が島瀬を裏切り、あまつさえ橘香に攻撃を加えた事が信じられなかったのだ。
將一は佑の質問に対し、余裕たっぷりに答える。
「取り出せない箱のなかに宝物を入れる馬鹿はいないよ。」
「……どういうことだ? 俺を殺さなければ、魔女の眼は手に入らないはず……」
「ごめんごめん。あの時はガライゲルがいたから教えてあげられなかったけれど、僕の隠匿のクロクラフトを応用すれば、簡単に魔女の眼を取り出せるんだよ。だからこそ、佑くんに預けていたんだ。」
將一兄さんはさわやかな笑顔をこちらに向け、淀みなく答えた。
裏切り者という烙印と、そのギャップが大きすぎて、佑はとうとう思っていたことを將一に打ち明けてしまう。
「島瀬の当主から、將一兄さんは裏切り者だと聞かされた。でも、俺はそうは思えない。何か理由があるはずだ……事情を話してくれないか。」
「教えたら、仲間になってくれるかい?」
「え……?」
「冗談だよ。僕も、わざわざ爆弾を抱えるほどリスク管理の甘い人間じゃない。でも、事情は話すよ。そもそも今日はそのつもりでここに来たんだ。」
將一兄さんは俺の反応を見て楽しんでいたようだが、唐突に真剣な表情を浮かべた。
その表情はこちらにまで伝播し、自然と緊張してしまう。
そんな緊張の中、將一は事情とやらを話し始める。
「僕の目的はね、魔女の眼じゃない。クロデリアの殺害さ。」
「!!」
聞き覚えのある話だ。
佑はその話を思い出すべく視線を斜め上に向ける。すると、すぐに椿や橘香から聞いた話を思い出すことができた。
(確か、椿の姉の茉弓とかいう女性も、クロデリアに攻撃をしたとか……)
こちらが思い出している間も、將一兄さんは目的について語っていく。
「実は魔女の眼はガライゲルの協力を取り付けるための道具に過ぎないんだ。それに、あれを奪っておけばクロデリアを殺せる確率も上がるから、一石二鳥といった感じかな。……つまり、僕としては、魔女の眼はクロデリアにも悪魔どもにも渡さず、宙ぶらりんの状態にしておくのが望ましいんだ。」
將一兄さんはここで一息つき、ジュースを飲んでから話を再開させる。
「その点、佑くんはよく働いてくれているよ。君がクロフト能力を上手く扱えば扱うほど、クロデリアも君から魔女の眼を取り出しにくくなるからね。」
「そうだったのか。」
しかし、暴露された所であまり驚きはない。クロデリアのことなんて心底どうでもいいし、殺すのなら勝手に殺してくれという感じだ。
ただ、疑問がないわけでもなかった。
「それにしても、なんでクロデリアを殺したいんだ。何か恨みでもあるのか?」
こちらの質問に対し將一兄さんは深く頷き、震える声で喋る。
「……僕はね、クロデリアが心底憎いんだ。島瀬の人間を、そして悪魔たちをこんな状況に陥れた、あの魔女のことがね……。」
「陥れた?」
悪魔とか言う連中が魔女の眼を狙っているがために島瀬の家は危険に晒されているのかと思っていたが、將一兄さんの話だと何だか根本的に違う気がする。
珍しく將一兄さんは表情を歪めていたが、それでも冷静な口調を保っていた。
「佑くん、この無益な攻防のせいで今までに何人の人間が死んだと思う?」
分かるわけがない。
將一兄さんも重々承知していたようで、間髪入れず正解を述べる。
「……95人だよ。今年はまだだけれど、去年は二人死んだ。一昨年も一人……死んだんだ。」
一昨年、つまり二年前……。
この年は將一兄さんが失踪した年であり、そして、椿の姉である茉弓さんが悪魔に殺された年でもあった。
「もしかして、今回の將一兄さんの裏切りって……茉弓さんの死と関係しているのか?」
何気なく口にした言葉だったが、それは的中していたようだ。
將一兄さんは目を丸くしてこちらを見る。
「一体誰から茉弓さんの事を……。あぁ、そういえばあの椿って娘、茉弓さんの妹だったね。」
茉弓という名を口にし、將一兄さんは物憂げな表情を浮かべていた。この人にとって茉弓という女性は特別な人物らしい。
將一兄さんは尚も茉弓さんについて語る。
「そもそも茉弓さんがクロデリアを殺そうとしたのには理由があるんだ。……彼女は知ってしまったんだ。島瀬と悪魔に関わる重大な真実を。あれを知れば、クロデリアを恨まずにはいられない。それこそ、殺してやりたくなるほどにね……。僕は彼女の遺志を継ぐつもりだし、仇も討つつもりだよ。」
そこまで宣言した所で、將一兄さんは唐突に姿を消した。
(隠匿のクロクラフト……)
姿は見えないが、多分テーブルの向かい側に將一兄さんは存在している。
佑は試しに慧眼のクロクラフトを用いて將一の姿を探してみたが、それらしい痕跡は全く見つけられなかった。
クロデリアからも発見されないほどの能力なのだし、いくら魔女の目を持っていても俺には不可能みたいだ。
存在を消したまま、將一兄さんはメッセージを残す。
「そういうわけだから、暫くの間は安心していいよ。魔女の眼がどちらの組織にも無いこの状況は僕にとって望ましいんだ。……くれぐれも変な気を起こさないようにね、佑くん……。」
その言葉を最後に、將一兄さんの気配は完全に消えた。
同時に階下から母親の声が聞こえてくる。
「佑ちゃーん、ご飯できたわよー。」
ふと時計を見ると既に7時を過ぎていた。今からでは橘香の屋敷に寄ることはできない。
そうでなくとも、遅刻してしまう。
これからの時間配分を頭の中で計算しつつ、佑は母親の声に返答する。
「今行くー。」
本当は朝食を食べる時間すら惜しいが、せっかく作ってくれたものを無碍にはできない。
佑は遅刻を回避すべく、さっさと朝食を食べてしまうことにした。