第二章 魔女の眼を狙う者
06
――翌日、学校の教室にて。
佑はクラスメイトを前にして、教壇の上に立っていた。
(やはりこうなったか……。)
年度初めの日に欠席したのは俺だけだったらしく、そのため、朝っぱらから全員の前で自己紹介させられる羽目になってしまったのだ。
誰も俺のような無愛想な人間に興味はないだろうし、さっさと終わらせよう。
「――佐玖堂佑です。一年間、よろしくお願いします。」
名前のみを告げた佑は、軽くお辞儀をして教壇から降りようとする。しかし、その動きは教師の言葉によって止められてしまう。
「ん? それだけか佐玖堂。もっと、こう、何かあるだろ。」
短く自己紹介を終わらせるつもりだったのだが、それは担任の男性教師……北村先生が許してくれなかった。
「“何か”、と言うと?」
こちらが言い返すと、北村は頭を掻きながら答えた。
「例えば、趣味だとか、部活だとか……とにかく、お前という人間が少しでも理解できるように、クラスメイトに教えてやればいい。」
理解などしてもらわなくてもいい。
……なんて言うと問題になるのは目に見えているし、そんな空気の読めない発言をするほど俺も愚かではない。
佑は教壇に戻り、改めて自分の情報をクラスメイトに伝えていく。
「趣味は勉強、部活には所属していません。頭の良さくらいが取り柄です。皆さん、勉強などでわからないことがあれば、遠慮なく質問しに来て下さい。」
まるで教師が言うようなセリフだな、と自分でも思いつつ、佑は再度お辞儀をする。
クラスメイトは特に反応せず、珍しい動物を見るかのような目付きでこちらを見ていた。
そんな不穏な空気を敏感に察知したのか、北村は咄嗟に言葉を発する。
「そ、そうか。いい心がけだな。……じゃあ、これでホームルーム終わるぞ。委員長、号令頼む。」
「起立……」
北村教諭の指示に従い、委員長と思わしき生徒が号令をかける。
その号令に従い、クラスメイトは全員立ち上がった。
そのまま俺が席に帰るまでの間に礼が行われ、教室の後部にある自席に到着する頃にはクラスメイトはそれぞれ談笑などを始めていた。
「自己紹介ご苦労様。佐玖堂くん。」
着席すると同時に話しかけてきたのは、背後の席にいる女子生徒だった。声に反応して振り返ると、女子生徒の笑顔が視界に飛び込んできた。
「自分で頭がいいなんていう人、初めて見たよ。これから一年間よろしくね。」
「よろしく。」
特に話すことはない。
佑は最低限の挨拶だけで済ませ、一限目の授業の準備に入る。
しかし、女子生徒はまだ会話がしたいようで、こちらの背中を叩きながら勝手に喋り続ける。
「あれ、もうちょっと話そうよ。折角同じクラス、前後の席になったんだからさ。」
「そうだな。」
「さっき頭がいいって言ってたよね、授業で分からないことがあったら聞いてもいい?」
「ああ、別に構わない。」
単純なセリフだけで応じていると、女子生徒は口調を変えた。
「……もしかして、女子と話すの苦手な人? なんだったら、仲良くしてあげようか?」
よくもまあ初対面のクラスメイト相手に遠慮無く喋れるものだ。
佑はその女子生徒の言葉を封じるため、振り返ったままじっと女子生徒の目を見つめる。
「な、なに?」
急に見つめられ、女子生徒は困惑しているみたいだ。動揺っぷりが表情に出ている。
唯でさえ目付きの悪い俺が見つめているのだ。この反応も当然だ。
「睨むのやめてよ、ちょっと怖いって……。」
「……。」
「ごめん、もう話しかけないから……。」
とうとう女子生徒は音を上げ、こちらから目を逸らした。
(詰まらないな。)
……今までの俺は、無駄な摩擦を避けるために無難な会話や挨拶をしていた。必要なら笑顔も見せるし、ある程度の頼まれごとなら断らずに引き受けてきた。
しかし、今からは違う。
俺はクロクラフトという力を知ってしまった。
誰も知らない、大半の人間が知らない情報を、俺は知っている。そのことが堪らなく嬉しい。自分が世界の中で特別な状態にあると考えるだけで興奮してくる。
(クロクラフト……)
この特殊な力のことをもっと知りたい。できることなら、俺もこの力を得てみたい。
それもこれも、昼休みに橘香や椿先輩から説明を受けることになっている。
「あと4時間か……」
久々に昼休みを待ち遠しく感じる佑だった。
「んー、いい天気。小春日和だねー。」
「椿先輩、言葉の意味知らずに使ってませんか。」
「何が?」
「……いや、何でもないです。」
昼休み。校舎屋上にあるオープンスペースにて。
佑はフェンス近くにある粗末なベンチに腰を下ろしていた。
屋上は広く、他にも似たようなベンチがいくつも設置されている。しかし、そのベンチに座っている人間は一人もおらず、ついでに言うと、屋上には自分たち以外に人影がなかった。
こんな心地のいい場所となればみんな集まってくるかと思っていたのだが、生徒の殆どは昼休みを教室内で過ごしている。
半分はお喋りをし、半分は自主学習をしている感じだ。
外で運動しようなんて輩はそれこそ数名しかおらず、広いグラウンドは屋上以上に閑散としていた。
「何だよー、ぽかぽかしていい感じの天気だろー?」
俺の指摘に突っかかってきているのは椿先輩だ。
椿先輩は昨日と同じく制服を上手いように着崩している。
具体的に言うと、ブレザーの前ボタンは留めず、ブラウスのボタンも上から二つほど外しており、鎖骨が見え隠れしている。
赤のネクタイも結んではいるものの、首からだらりとぶら下がっている状態だ。当然のごとくスカート丈も短い。
普通の女子高生は、周りと同じ格好をするために着崩している場合が多いと聞くが、この景吾西高校ではそれは当てはまらない。着崩している生徒のほうが圧倒的に少ないからだ。こんな格好をしているのは椿先輩くらいなものだ。
髪もブラウンアッシュに染めて腰元まで伸ばしているし、もうやりたい放題である。
だが、似合っているのは事実だし、そこは認めざるをえない。
……そんな先輩は屋上のフェンスに背中を預け、体を揺らしてフェンスをたわませていた。
手には自販機で買ったであろう紙パックのジュースが握られており、時たまストローで中身を啜る音が聞こえている。
そんな音を鳴らしつつ、先輩はしつこく問いかけてくる。
「“言葉の意味を知らない”って言われると気になるだろ。ちゃんと答えろよなー。」
呑気に紙パックジュースを啜っている椿先輩のいちゃもんに応えたのは、俺の隣に座る一年年下の後輩、橘香だった。
「椿ちゃん、小春日和は冬の初めあたりに使う言葉だよ。」
「え? それはないだろー橘香。だって、春って言葉入ってるじゃん。」
「私に言われても……」
橘香の言い分は正しいが、説明できなければ意味が無い。
答えに困った橘香は助けを求めるべくこちらに困った表情を見せる。
高校生になったばかりの橘香は、まだ新しい制服に慣れていないのか、しきりに制服の袖を弄っていた。
新しい環境に適応するため、色々と努力をしているのだろう。長い髪をまとめている髪留めの色も、中学生の時とは違ってより暗めの落ち着いた色になっているし、ほんの少しだが化粧もしているみたいだ。
化粧品や化粧の方法について詳しいことは知らないが、高校生にふさわしい控えめなメイクをしているように思える。もともと綺麗な肌をしているので必要ないと思うのだが、大人になる自覚をしてくれているのはいいことだ。それが自分への自信に繋がる。
どんな美人でも、化粧は女性にとって必要不可欠なスキルだ。美しく装うことは女性の義務なのだ。
よく頑張ったと褒めてやりたいところだが、本人は控えめにメイクをしているのだし、化粧をしたと悟られたくはないはずだ。
この評価は後ほど、別の形で橘香に還元してやることにしよう。
佑は未だに困った表情を浮かべている橘香に軽くデコピンをし、椿先輩に視線を移す。
一から十まで小春日和について説明してやりたい気分だったが、貴重な昼休みの時間をこんな下らない談義に使うつもりはない。
早速、佑は昨日聞きそびれていた事を話題に上げる。
「……そんな事は今はどうでもいいだろう。さぁ、クロクラフトについて説明してもらおうか。」
クロクラフトの話になると、急に二人の表情から緩みが消えた。
この変化っぷりから考えるに、二人共ちゃんと昨日の話を覚えていてくれたみたいだ。
まず口火を切ったのは橘香だった。
「ええと……クロクラフトはれっきとした技術であって、魔法とか妖術とか、そんな曖昧で得体のしれないものじゃない。そして、このクロクラフトは当主様が創った物でもあるの。」
「創った……?」
佑はベンチの上で座り直し、体を橘香に向ける。
橘香はこちらに合わせて座る位置を微調整し、こほん、と咳払いをする。
「当主のクロデリアが創った術だから“クロクラフト”っていう名前なの。クロクラフトの“クロ”は“クロデリア”の“クロ”から取ってるってわけ。」
なるほど、随分安直な名付け方だ。
橘香の説明に便乗し、椿先輩も得意げに小話を披露する。
「そうそう。実はあの黒魔術の“黒”も、元を正せばクロデリアの“クロ”で……」
「……。」
瞬時に嘘だと見ぬいた佑は、無表情で椿を見つめる。
椿もこの話が無理矢理過ぎると感じたのか、どんどん言葉から力が抜けていく。
「だから、クロ魔術……なんだよ?」
「自信なさげに言うなよ……。」
疑問形で言葉を締めくくった後、椿先輩は流れるように謝罪の言葉を口にする。
「ごめん、冗談。」
「分かってます。」
椿先輩の低レベルな冗談はさておき、あのクロデリアという魔女……もとい、当主様はかなりすごい人物らしい。
クロクラフトを発見したならまだしも、それを創ったというのだから驚きだ。
「あの当主様、凄いんだな。」
「当主様いわく、クロクラフトは自然科学を礎とした、然るべき法則に則った力らしいよ。今は解明できないけど、時代が進めばきちんと数式やら何やらで説明できるようになるって。」
「行き過ぎた科学は魔法と変わらない、か。……釈然としないな。」
「当主様自体が謎の多い人だからね。デタラメ言ってる可能性も否定出来ないし。」
この橘香の言葉に椿先輩は深く頷き、同意する。
「あー、それはあるな。十分ありえる。」
「一応は島瀬の当主なんだろ? 信用してるのか、してないのか、どっちなんだ……。」
結局のところ、クロデリアに関しては正確な情報を把握できていないようだ。
椿先輩はクロデリアに対して思う所があるみたいで、聞かれてもいないのに疑問を吐露し始める。
「今でこそ当たり前に当主サマって呼んでるけどさ、どう考えたっておかしいだろ。当主とか言う割に歳は若いし、おまけに外人だし、どこに住んで何をしているかもほとんど把握できてないし……。大体、魔女の眼が当主サマの眼だっていうのも信用できない。って言うか、眼2つともあるじゃん?」
(あの眼、クロデリアの眼だったのか……。)
“眼”の話題になり、佑は無意識のうちに自分の胸元に手をやる。
今現在、俺の体内には魔女の眼とやらが入っている、らしい。今のところ何の異常もないし、特に痛みも違和感もない。
(島瀬家はこれを守るために戦っているとか何とか言っていたな……)
昨晩茶室で聞いた言葉を思い出しつつ、佑は二人に問いかける。
「この眼、クロデリアはとても重要な物のように話していたが、そんなに価値の高いものなのか。」
こちらの質問を受けて橘香、椿先輩共に黙ってしまう。やはり、詳しいことは教えてくれないのだろうか。
そう思った時、橘香が口を開いた。
「価値が高いとか、そういうレベルの物じゃないんだよね。……これも、昨日みたいに実際に見たほうが早いかも。」
そう言って橘香はベンチから離れ、俺の正面に立つ。そして、足を肩幅に開いて右腕を振り上げた。
「一体何を……」
「てやっ。」
橘香はこちらの言葉を遮ったかと思うと掲げた腕を振り下ろし、脳天目掛けてチョップを放った。
不意打ちに等しい攻撃を受けた佑は何もすることができず、呆然と橘香を見つめる。
すると、急にベンチが真っ二つに割れ、佑は屋上の床に尻餅を付いてしまった。
どうやら橘香はクロフト能力を使用したみたいだ。
「ほら、切れてないでしょ?」
「……!!」
橘香の言葉を聞き、佑はその意味を瞬時に理解した。
(なるほど。これが魔女の眼の効果というわけか……。)
橘香は俺に切断能力のあるチョップをした。だが、俺は切断されず、座っていたベンチだけがまっぷたつに割れた。
つまり、切断能力は俺に適用されなかったということになる。この魔女の眼は、クロフト能力を低減、または無効化する力を持っているようだ。
ただ、無効化されたといっても、ダメージがないわけではなかった。
「……確かに切れてない。が、割れるくらい頭がいたいぞ。」
「ごめん。でも、クロフト能力を低減できることを証明するにはこれしかなくて……。あと、魔女の眼はクロフト能力の効果を極限にまで高めるって言われてるんだけど、これは確かめたことないなぁ……。」
橘香そう言いながら椿先輩の隣に移動する。俺も、割れてしまったベンチから離れた。
「クロフトの効果を抑え、所有者のクロフトの効果を高める、か。ゲームでもそんな便利アイテムそうそうないぞ。」
「だからこそ、敵はそれを狙ってるんだよ。」
椿先輩はそう言いつつ、視線を校外へと向ける。
屋上からの景色はお世辞にも素晴らしいとはいえず、校舎よりも背の高いビルなどが大半の視界を遮っていた。
今はまだ昼間なのでビルの影は短いが、夕方になればビルの影のせいでこの屋上も日陰になってしまう。
別に良い景色を見たいとは思わないが、こんな地方都市にこんなに多くの高層ビルが必要なのか、甚だ疑問だ。
そんなビルを何となく眺めつつ、佑は二人により深い質問をする。
「その、敵っていうのは……」
敵について聞こうとした時、屋上のオープンスペースの床に影が出現した。
急に暗くなったので厚い雲が太陽の前を横切ったのかとも思ったが、その変化はあまりにも急激すぎた。おまけに、その影は自分の周囲の狭い空間だけに生じている。
「……!!」
何か危険を感じた佑は咄嗟に前方へ飛び出し、その場から離れる。
すると、回避の瞬間に背後で何かが空気を切る音が聞こえた。さらに次の瞬間、轟音とともに床が破砕し、大小様々な破片が周囲に撒き散らされた。
飛び散る破片の中、いきなり出現したのは身長が3メートルに達しているであろう、人の形をした何かだった。
「なんだこのバケモノは……」
それは人の形をしていたが、人間ではなかった。
頭部には眼や鼻や耳がなく、無数の歯が生えている大きな口だけしかない。
肩からは丸太の太さほどありそうな腕が左右に一本ずつ生えており、指先には大工道具のノミのような爪が付いている。さらに視線を下に向けると、腕よりも太い二本の足と、尻尾も確認できた。
全身が赤黒い分厚そうな皮膚に覆われていることもあり、まるで肉食恐竜を無理矢理人の形にしたみたいだった。
仮に怪物としておこう。
その怪物は俺を指さし、言葉を放つ。
「お前のような人間に“バケモノ”呼ばわりされる覚えはないな……。」
大型の獣が唸るような、とても低くて聞き取りにくい声だったが、間違いなくこの怪物は言葉を理解し、喋っている。
それだけでも驚きだったのに、橘香や椿先輩はこの怪物のことをよく見知っているようで、馴れ馴れしく話し始める。
「なんだ『ガライゲル』か。真昼間から仕掛けてくるなんて、よっぽど暇なんだなー。」
「大丈夫? 人に姿見られちゃマズいんだよね?」
二人の台詞に対し、ガライゲルと呼ばれた怪物は普通に受け答える。
「心配はいらん。人払いは既に済ませてある。」
「へぇ、そのくらいの知恵はあるんだ。意外だなー。」
「島瀬一の阿呆と呼ばれている貴様にそんなことを言われる筋合いはない。」
「誰がアホだって!?」
異形の怪物を目の前にしているというのに、まるで気の知れた友達と話しているかのようなテンションだ。
もしかして、この怪物も何かのクロクラフトによってこんな形になっているだけなのかもしれない。
しかし、俺を攻撃してきたことを考えると、仲間だとは思えなかった。
そんな俺の考えは正しかったようで、橘香は何も言わずにいきなりガライゲルに飛び掛っていった。
「……ッ!?」
このいきなりの攻撃にガライゲルは反応できず、橘香との接触を許してしまう。
橘香の手がガライゲルの皮膚に触れた瞬間、瞬時に3メートルを越す巨体に規則的な切れ込みが生じ、あっという間にガライゲルは粉微塵になってしまった。
ガライゲルを構成していた肉は約5センチ四方のブロックとなってその場にバラバラと散らばる。
怪物とはいえ、今まで動いていた物が瞬時に肉塊になってしまう光景はなかなか刺激的だった。
橘香はそのバラバラの肉塊を前にしても動じることなく、乱れた前髪を直しながらため息をつく。
「はぁ、これだけやっても再生するんだから不思議だよね……。」
この言葉に反応し、先程までガライゲルだった肉塊から言葉が返ってきた。
「やはり強烈だな。……急襲すれば魔女の眼を奪えると思ったんだが。」
喋っている間も肉塊はそれぞれが個別の生き物のように蠢いている。
そもそも、どこから言葉を発しているのだろうか……。深く考えるだけ無駄だろう。
そんな肉塊を足蹴にしながら、椿先輩はガライゲルを馬鹿にする。
「もっとよく考えろよなー。そんなんだからいつまで経っても私らに敵わないんだって。」
「……それはどうかな。今後を楽しみにしているといい。」
ガライゲルとか言う怪物は負け惜しみに等しいセリフを吐くと、そのまま肉塊ごと消滅してしまった。スッと消えたところを見ると、別に死んだわけではなさそうだ。
少し離れた位置からその様子を観察していると、橘香が先ほど言ったこちらの質問に対して答えてくれた。
「……さっきのが私たちの敵なんだ。」
「全く敵という感じがしないんだが……。」
「だよなぁ。」
椿先輩は俺の意見を肯定し、再びフェンスに背中を預ける。
「奴らの目的は魔女の眼であって、私らを殺すことじゃないからな。百年近く前から攻めたり退いたり、ゆる~くやってるわけ。」
敵と聞いた時、てっきり同じような能力を使う人間が相手なのかと思っていたが、人外のバケモノだとは思ってなかった。
と言うか、あんなバケモノがいること自体が驚きだ。
「一体あれは何者なんだ? 他にもいるのか?」
「連中、自ら『悪魔』とか名乗ってるけど、その実、名を騙られてる悪魔の方が可哀想になるくらいのヘタレなんだよなー。」
(悪魔か……。)
確かに、あの外見を見れば怪物とかバケモノとか言うよりも、悪魔という表現がしっくりくる。
「でも椿ちゃん、不思議だと思わない? どうしてガライゲルは魔女の眼のことを知ってたんだろう……。」
一人、屋上の床にできた穴を見ながら呟いたのは橘香だった。
……先ほど、いきなりガライゲルに飛びかかってバラバラにしたときは度肝を抜かれた。いつものお淑やかな姿からは想像もできない攻撃的な行動に、恐怖さえ感じたほどだ。
多分こういうことは何度もあり、慣れているのだろう。
そんな橘香の台詞に対し、椿先輩は顎に手をやって難しい顔をする。
「うん、確かに。明らかに佑を狙ってたし、誰から聞いたんだろ……。」
二人はあのガライゲルが魔女の眼に関する情報を得ていたことを不可解に思っているようだ。両名とも無言のまま考えこんでいる。
「……。」
それから昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、佑は悩む二人の姿を眺めていた。
07
――放課後、正門前。
多数の生徒が下校していく中、佑は橘香と共に待機し、椿が校舎から出て来るのを待っていた。
(クロクラフト……魔女の眼……悪魔……はぁ……。)
唯でさえ急な出来事に困惑しているのに、昼休みに起きた事件のせいで、午後の授業の内容はまともに頭の中に入ってこなかった。
あの時、前に跳んでガライゲルの攻撃を回避していなかったらと思うと冷や汗が出る。
「どうしたの佑くん。」
「……何でもない。」
隣にいる橘香は先ほどからしきりに俺のことを心配している様子だ。橘香とは長い付き合いだ。俺が不安を感じていることなど当たり前のように分かるのだろう。
「……今日はもうガライゲルは襲ってこないと思うから、大丈夫だよ。」
「ああ。」
「それにもし襲ってきても、昼休みの時みたいにすぐにバラバラに……」
その言葉で佑は昼間のグロテクスな光景を思い出してしまい、咄嗟に話題を変える。
「その話はもういい。……それより、これから何をしに行くんだ?」
額を押さえながら質問すると、橘香はすぐに笑顔で答えてくれた。
「島瀬の屋敷で防衛戦。」
「大丈夫なんだろうな、それ。」
「心配いらないと思う。屋敷には滅多に悪魔なんて入ってこないし、入ってきたとしてもさっきのガライゲルより弱っちい連中だから。」
「そうか……」
この様子から察するに、橘香は結構前から俺の知らない場所で悪魔なんて恐ろしいものと戦っていたらしい。
……しかし、どうもイメージが湧いてこない。
昼休みのことだって、まだ夢か幻覚かと疑っているくらいだ。
「ごめん、待ったー?」
橘香と会話をしていると、ようやく椿先輩が現れた。
「大丈夫、全然待ってないよ椿ちゃん。」
「20分も待ちましたよ。何してたんですか先輩。」
「だからごめんって。ちょっと先生と話してただけだから。」
苦笑いしながら椿先輩は顔の前で手のひらを合わせる。一応は反省しているみたいだ。
それにしても、下校中の生徒の比較して改めて見ると、やはりこの格好は目立つ。他の生徒が真面目に制服を着ているので、まるで別の学校の生徒のようにも見える。
「じゃー行こうか。」
椿先輩はそのまま橘香と手を繋ぎ、校門から外へ出る。
しかし、校内から先輩を引き留める声が聞こえ、先輩は足を止めてしまう。
「おい木佐貫!! ……木佐貫椿!!」
「なに先生。」
椿先輩の返事に合わせ、背後に振り向くと、そこには男性教師の姿があった。温厚そうな北村先生と違い、この教師は何だか性格がキツそうだ。
確か、生徒指導を担当している先生だったはずだ。
生徒指導の先生は初っ端から高圧的な口調で椿先輩に注意する。
「昨日注意したはずだよな、明日からは身だしなみをきちんとしろと。」
「あー、忘れてた。すんませーん。」
「忘れてたで済むか!!」
椿先輩のちゃらちゃらした言い方が許せないのか、生徒指導の先生は声を荒げて話を続ける。
「いいか木佐貫、この景吾西高校は市内で一番進学率の高いトップ校なんだぞ。そんな高校の生徒がこんな格好をしてるとだな、この学校の名前に傷が付くんだ。」
「それで?」
「そうなると学校の評判が落ち、他の生徒にまで悪い影響を与えることになる。分かるか?」
この一生懸命の訴えに対し、椿先輩は満面の笑みで応える。
「ごめん、わかんない。えへ。」
「……木佐貫ィィ!!」
生徒指導の先生は金切り声を上げ、その場で腕を上下にブンブンと振っている。もう半狂乱になっている感じだ。
それでも、生徒指導の先生は話を止めない。
「今まで2年間、先生は注意し続けた。それでもお前は言うことを聞かない……。もう我慢ならんぞ。」
腕を振るのを止めたかと思うと、生徒指導の先生は椿先輩目掛けてずんずんと歩いて近寄ってきた。
椿先輩は先生から逃げるように俺の背後に回りこむ。
「なあ佑、助けてくれよー。先生が苛めるー。」
どうやら俺を盾か囮か生け贄にするつもりのようだ。今までもこうやってふざけた態度でこの先生から逃げ続けてきたのだろう。
そう思うと、何だか先生のことが可哀想に思えてきた。
「……椿先輩、先生の指摘は正論だと思いますよ。」
「え?」
「おお、佐玖堂、お前は先生の味方してくれるのか……嬉しいぞ、先生は嬉しい。」
俺は椿先輩ではなく、先生側に付くことにした。先輩が校則を順守していないのは事実だし、そんな先輩を擁護すると後で面倒なことになる。
だからと言って先輩を突き出すような事をするつもりはなかった。
「でも先生、先生は本当に椿先輩のことを思って注意していたんですか?」
「……な、いきなり何だ?」
「先生なら気付いていたはずです、なぜ椿先輩が頑なに制服の着崩しを止めようとしないのかを……。」
「……。」
一介の生徒から質問をされるとは想像していなかったらしく、生徒指導の先生はいきなり勢いを無くし、校門の手前で足を止める。
「先輩は怖がりなんですよ。だから、ああやって細やかな反社会的行動を取るんです。」
「何言ってんだ、佑?」
こちらの言葉に、椿先輩までもが戸惑いの表情を浮かべる。
「先生は動物がなぜ威嚇するか分かりますか? 怖いからです、相手が怖くて怖くてたまらないから、威嚇をするんです。相手のことが全くわからないから威嚇するんです。……そして、先輩にとっての威嚇は、この格好なんです。」
佑はここで言葉を区切り、背後に隠れていた椿を前に押しやる。
すると、周囲にいた生徒の視線がこちらに向き始めた。
無数の視線を受けて恥ずかしいのか、椿先輩は俯きがちになり、しきりに髪を弄りだす。
「別に先輩もしたくてこんな格好をしているんじゃない。周りに舐められたくないから、自分を強く見せたいから、こんな格好をしているんです。……健気だと思いませんか?」
「健気って……」
ここで椿からツッコミが入りそうになったが、佑は椿の言葉を抑えこむように矢継ぎ早に喋り続ける。
「御存知の通り、彼女は島瀬の分家、木佐貫の娘です。……大事に育てられたが故に、ろくに同年代の人間とコミュニケーションを取ることが出来ず、他人に対して心を開くという行為に慣れてないんです。いえ、他人に自分を曝け出すことが怖いんです。」
ここまで適当にそれっぽいことを言っていたが、どうやら当たらずといえども遠からずらしい。椿先輩は否定も肯定もすることなく黙りこんでしまった。
ここで話を止めても良かったが、まだ生徒指導の先生を完全に説き伏せたわけではない。
佑は周囲から視線を受けながらも、しっかりとした口調で最後の仕上げにはいる。
「……先生、彼女のこの格好は彼女の心の鎧なんです。この格好でいるからこそ、彼女は何とか学校に通えているんです。」
「そうだったのか……木佐貫……。」
とうとう生徒指導の先生は鼻を啜りはじめた。心なしか目も潤んでいる。
「先生、彼女を暖かく見守ってあげませんか。もしかすると、先生とコミュニケーションを取りたいがために、わざとあんな格好を続けている可能性だってあるんですから。」
「すまなかった、木佐貫。先生は全然気付かなかった。この二年間、つらい思いをしていたんだなぁ……」
生徒指導の先生は目元を袖で拭い、震える声で謝罪する。
「先生が悪かった。だから、不登校にだけはなるなよ。その格好も許す。校長にもこの件をきちんと説明して納得してもらう。……先生に任せろ。お前が無事に卒業できることが、先生にとって一番大事なことなんだからな……う、うぅ……」
そして、とうとう涙を流して泣き始めた。
出まかせの嘘とはいえ、生徒のために泣けるなんて、いい先生だ。
そんな先生の反応に、周囲の生徒はどよめいていた。
これ以上の注目を浴びたくなかったのか、椿先輩はその先生に近寄って声を掛ける。
「ちょっと、泣くなよー。」
しかし、声を掛ける以外のことはできず、先輩は先生の前でオロオロしていた。
暫くすると生徒指導の先生は顔を上げ、こちらに話しかけてきた。
「佐玖堂、これからも木佐貫先輩のことを支えてやってくれ。」
「勿論です、先生。」
「良い返事だ。……木佐貫、お前はいい後輩を持ったな……。」
生徒指導の先生はそれだけ言うと踵を返し、校内へ戻っていく。同時に、周囲の生徒の注意も薄れていく。
その中で、椿先輩だけが呆然としていた。
「何だよ、これ……。」
……先生に注意されていたかと思えば、急に後輩が変なことを口走り始め、なぜかあっという間に先生に同情されてしまったのだ。困惑するのも無理はない。
「うまく行きましたね。椿先輩。」
立ち尽くす先輩に声を掛けると、先輩は数テンポ遅れてようやく反応してくれた。
「ん……あぁ、そうだな。明日からは煩く言われなくて済みそうだ……。」
俺に続いて橘香も椿先輩に話しかける。
「椿ちゃん、どうせだしきちんと身だしなみを整えてきたら?」
この意見を佑は真っ先に否定する。
「まさか、とんでもない。先輩はその格好が自然だし、一番似合っていると思います。無理に自分のスタイルを変える必要なんてありませんよ。」
「そう言われると、校則を守りたくなって来るから不思議だな……」
椿先輩は複雑そうな表情でこちらを見ていた。
やがて先輩は校門から離れ、駅に向かって歩いて行く。その動きを合図に俺と橘香も同じ方向へ歩き出した。
……しばらく無言で移動していると、前を行く先輩が不意に言葉を発した。
「……椿でいい。」
何のことだろうか。
よく分からなかった佑は何も反応せず、そのまま歩く。
しかし、数歩も歩くと椿先輩は先ほど発した言葉を詳しく説明した。
「“先輩”は付けなくていいって言ったんだ。あと、中途半端な敬語も何か逆にむかつくから止めろよ。」
どうやら俺に言っているらしい。
今までは一応先輩なので丁寧な言葉を使っていたが、本人が良いというのなら遠慮無く話させてもらおう。
「……そうか。分かった、椿。」
「遠慮のないやつだな……。」
椿は振り返り、呆れた表情をこちらに見せた。
その顔を見て、隣にいた橘香が吹き出す。
「ふふ、椿ちゃんがそんなこと言うなんて、かなり嬉しかったんでしょ。」
「ちげーよ。いいから行くぞ、もう。」
椿は橘香の言葉をあしらい、早足で駅に向かっていく。
佑は、橘香と共にその姿を微笑ましく眺めていた。
08
「――静かだね。」
「うん、静かだ。」
学校を出てから2時間後、佑達は島瀬家の庭園にある小屋の中でのんびりくつろいでいた。
太陽は傾きかけていたがまだ外は明るく、小さな窓から入ってきた夕陽は床に窓の形を映し出している。
その床の上で椿は寝転がり、橘香は足を崩して座布団の上に座り、佑は胡座をかいて待機していた。
防衛戦と聞いたので身構えているのだが、敵が襲ってくる気配は全くない。
しかし、橘香や椿の格好は、これから戦闘が行われることを如実に表していた。
(日本刀と……金槌か?)
橘香は自分の左脇に日本刀を寝かせて置いており、椿は足元に柄の長いハンマーを……鉄パイプの先に錘をつけたような形状の物体を置いている。
それらは明らかに武器であり、攻撃以外の用途で使用するとは到底考えられなかった。
また、二人の服装にも変化があった。
佑は今まで触れていなかったその点について、前置きもなく質問する。
「ところで、そのセーラー服は?」
こちらの質問を受け、橘香は自分が身に着けている古めかしいデザインの制服の裾を捲し上げる。
「これ? これも島瀬に伝わるアイテムなの。クロデリアの髪が編みこまれてて、クロフトによる防御効果が得られるんだって。……ただ、昔の人のサイズに合わせてるから、ちょっと短いというか、小さいというか……」
確かに、景吾西高校の制服とは違ってサイズは小さめだ。
そのセーラー服は襟の部分が肩にかけて大きく広がっており、胸元には短くて黒いネクタイが巻かれている。所々袖などに白いラインが入っていたが、全体的に暗い印象の制服だった。長袖の上、厚い生地を使っているので冬服だろう。
橘香はそのセーラー服に加えて黒のストッキングを着用しており、まさに全身真っ黒だった。
椿も橘香と同じデザインのセーラー服を着用していたが、普段の制服同様、こちらも上手く着こなしていた。
椿は寝転んだまま、眠たげな口調で会話に参加してくる。
「この制服、造られたのがだいぶ前らしいからなー。大正とか昭和時代の学生服らしいぞ。」
「大正……? この制服、クロデリアの髪が編みこまれてるって言ったよな。今、クロデリアは何歳なんだ?」
セーラー服姿の二人は互いに顔を合わせ、同じタイミングで首を左右に振る。
「ごめん佑くん、ほんとに当主様に関しては謎だらけで……。多分、クロクラフトを使って寿命とか伸ばしてるんだと思う。」
「めちゃくちゃだなぁ……」
「いーよなー、当主サマ。私も歳取りたくない。もう10年もしないうちに皺とか出てきちゃんだよね……。」
椿は驚くと言うよりも、羨ましそうな感じで呟き続ける。
「どっかの伝説みたいに、当主サマの生き血とか啜ったら不老不死になれたりして……はぁ。」
椿が言うと本気か冗談か分からないので恐ろしい。
間違いを起こさせないためにも、佑は椿に釘を刺す。
「なれるわけ無いだろ。それに、そんなことしなくても二人共は大丈夫だと思うぞ。いま来てるセーラー服だってよく似合ってる。」
主に椿に向けたセリフだったが、いち早く反応したのは橘香だった。
「ありがと。佑くん。」
その後、少し遅れて椿も反応する。
「こんなのが似合ってるだって? フツーにダサいだろ……。」
口ではそんなことを言っているが、口元が緩みきっている。ここまで感情が表に出てくれると本当に扱いやすくて助かる。
二人を褒めたところで、佑は本題に入ることにした。
「……で、悪魔から屋敷を守るとか言っていたが、二人だけで大丈夫なのか。」
「うん、大丈夫。だから、佑くんは安心して見学しててね。」
橘香の答えはその場を取り繕うような言葉ではなく、本気で、当たり前のように危険がないと確信している言葉だった。
橘香に続いて椿も補足する。
「つーか、二人だけじゃないぞ。今も10人くらいが外で悪魔の出現情報集めて適宜対処してるし、この屋敷内もベテラン勢が交代で守りを固めてる。」
彼女達も屋敷内にいるということは、それなりの実力者ということだ。
それどころか、島瀬にとって最も大事なアイテム“魔女の眼”を保有している俺を守っているのだから、精鋭といっても過言じゃないかもしれない。
橘香は脇においている日本刀を指先で触りながら、予想する。
「今回は既に魔女の眼が人の体に入ってるって知られているし、大規模な襲撃になるかもしれないね。」
「大規模……。」
「うん、いつもは分厚い金庫に入れてて、もし金庫まで到達されても30分くらいは持つの。その金庫から出てきてるんだからかなりの数が来るかも。……かと言って佑くんを金庫の中に押しこむわけにもいかないし。」
橘香は悩ましい表情を浮かべる。それだけ今回の事はイレギュラーな事態なのだろう。
「そうなのか。それが分かっているのなら、いつでも対処できるように準備万端で待機しているべきじゃないのか。」
この提案に応えたのは、橘香ではなく椿だった。
「へーきへーき、出てきたら前衛からすぐに連絡が入るから。それまでのんびりしてたほうがいいの。」
「のんびり、か。」
確かに、椿の意見にも一理ある。常に気を張っていて、肝心な時に上手く動けないのは情けない。ここは椿の言う通り、連絡が来るまでのんびりと……
「――よう。」
急に聞こえてきた低い声に、小屋の中の空気が瞬時に凍りつく。
この声には聞き覚えがある。
これは、昼休みに聞いたあの悪魔……ガライゲルの声だ。
「……!!」
佑は反射的に室内を見渡したが、あの赤黒い皮膚を身に纏った悪魔の姿は確認できない。
だが、近くにいるのは確かだった。
「……二人とも、頭下げて!!」
ガライゲルの声を聞くやいなや橘香は日本刀を握りしめ、クロフト能力を使って瞬時に鞘だけをバラバラに分解し、刃を露わにする。
橘香はそのまま柄を両手で握って立ち上がり、目標も見定まらないまま刃を水平方向に一回転させた。
その回転斬りは庭園にあった小屋をあっという間にバラバラにしてしまう。
残ったのは床だけで、それ以外の柱や屋根などは小さな欠片となって周囲一帯に散らばった。
外が360度見渡せるようになり、佑はガライゲルの姿を求めて視線を周囲に巡らせる。しかし、周囲に散った破片や埃のせいでかなり視界が悪い。
破片が完全に落ちるまで2秒だとしても、細かい埃が無くなるまで少なくとも10秒弱はかかる。その間に昼休みの時のような攻撃を受けたら、間違い無く死んでしまう。
今すぐここから逃げなければならない。
しかし、恐怖のせいか、佑はその場から動けなかった。
視界が悪い中で今後どうするかを思考していると、すぐ近くからゴンという鈍い音が発せられ、続けて突風が襲い掛かってきた。
ガライゲルに攻撃されたのかと思い、佑はその場にしゃがみ込んで防災訓練よろしく頭を抱える。
ところが、その突風以後何も起きず、佑は恐る恐る周囲を見る。
すると、先程まで周囲に充満していた塵や埃が綺麗サッパリなくなっていた。
佑は続けて鈍い音が発せられた場所を見る。……そこには、槌を振り下ろして地面を穿っている椿の姿があった。
先程の突風は椿のクロフトによって生じたもののようだ。
「くっそー、前衛から連絡こなかったぞ。ガライゲルめ、あの監視網をどうやって抜けたんだ?」
椿は前衛を責めるように呟き、庭に立っているガライゲルを見据える。
ガライゲルは腕を組んで堂々と立っており、大きな口は弓なりになっていた。
「さあ、どうしてだろうなぁ。」
ガライゲルは挑発するように喋り、前置きもなく襲い掛かってきた。
3メートルを越す巨体は、小屋の床をバリバリと破壊しながらこちらに接近してくる。
その突進に対処したのは椿だった。
「よっ……と!!」
椿は軽く床を蹴ると高く飛び上がり、槌を持ったまま空中でくるりと一回転する。そして、タイミングよくガライゲルの頭部めがけて槌を振り下ろした。
瞬間、何かが破裂するような音が周囲に響く。
槌の先は頭部には命中しておらず、ガライゲルの手のひらによって受け止められていた。
椿の攻撃は遮られたものの、ガライゲルへのダメージは大きく、手のひらの肉は爆弾でも握っていたのではないかと思うほど見事にぐちゃぐちゃになっていた。
それでも、ガライゲルは痛がる様子も見せず、こちらに向かってくる。やはり狙いは俺……いや、俺の体内に収まっている魔女の眼のようだ。
「くそっ、こいつ……!!」
椿はそう叫んで、空中で器用に体を捻り、再び槌をガライゲルに叩きこむ。今度は若干斜め下からの振り上げ攻撃で、その狙いは脇腹だった。
狙いは完璧、スピードも申し分ない。
佑はその攻撃が命中すると思っていた。……だが、槌の先端がガライゲルの体に接触する寸前、唐突にガライゲルが消えた。
「!?」
その消え方は消滅だとか、霧散だとか、そんなレベルの消え方ではなかった。
まるでその空間だけが切り離されてしまったような、違和感満載の消え方だった。
当然、椿の攻撃は空振りになり、何もない空間を槌の先端が通り過ぎていく。
――いったい、何が起こったのだろうか。
いきなり発生した現象に困惑し、佑はほとんど思考停止状態に陥っていた。椿はと言うと、しきりに周囲を見渡している。
今まで見ていた物は実は幻だったのではなかろうか。
「消えた……よな?」
椿は恐る恐るといった感じで佑に確認の言葉を送る。
佑は一応周囲を警戒しつつ、椿の言葉に応じる。
「間違いなく消えたな……。」
事情をほとんど知らない自分が考えたところで無駄だと佑は判断し、意見を求めるべく橘香を見る。橘香も刀を両手で構え、警戒態勢を取っていた。
「なあ橘香、これは……」
「驚いたか?」
佑が話しかけた瞬間、ガライゲルが短いセリフとともにいきなり出現した。ガライゲルはまるで最初からそこにいたと言わんばかりの存在感を放っている。
敵を発見できたのは良かったが、問題はその場所だった。
……その場所は橘香の真後ろだったのだ。
「橘香、後ろだ!!」
佑は咄嗟に橘香の名を叫ぶ。
「わかってる!!」
橘香もそのことは十二分に把握しているらしく、予備動作抜きで刀の切っ先を背後に向けて突き出す。
しかし、その攻撃よりもガライゲルの放った拳の方が速かった。
普通の人間の倍以上の大きさの拳は確実に橘香の背中を捉えており、殺人的なスピードで橘香の背中に迫っていく。命中すれば大ダメージは必須だ。
……できれば回避してほしい。そんな俺の願いも虚しく、拳は無情にも橘香の背中に命中した。
「ッ!!」
強烈なパンチを受け、佑は橘香がふっ飛ばされると思っていた。……だが、橘香は体を仰け反らせながらもその場に留まっていた。
どうやらダメージは殆ど無いみたいで、橘香の表情には余裕が見られる。
ガライゲルの拳は、橘香の背中に触れた箇所から徐々に崩壊していき、細かいブロックになってその場にぼとぼとと落ち始めた。
(よかった、セーラー服の防御効果は本物だったみたいだな……。)
それにしても、あの巨体から発せられたパンチを物ともしないのだから、あのセーラー服は凄いとしか言いようが無い。俺も身の安全のために着ていたいが、流石にセーラー服を着用する勇気はなかった。
「流石は本家筋のお嬢様だ。強力なクロフトを有している。触れることすら許されないか……。」
橘香のクロフトによって腕を粉微塵に切断されたガライゲルは、背後に跳んで距離を取る。その間にバラバラにされた腕はすぐに元通りになっていた。
ガライゲルの驚異的な再生能力に驚く様子もなく、橘香と椿はそれぞれの武器を構え、ガライゲルに鋭い視線を向ける。
その状態でしばらく相対していたが、ガライゲルは諦めたようにため息をついた。
「やはり、協力を得ても二人の相手をするのは無理があるか。」
「協力……。まさか……!!」
ガライゲルの呟きに対し、橘香はいち早く反応した。
その反応の速さに違和感を覚え、佑は橘香に問いかける。
「どういうことなんだ橘香、何か事情を知っているのか?」
橘香は視線をガライゲルに向けたままこちらの質問に答える。
「さっきのガライゲルの動き、『隠匿のクロクラフト』を使えば簡単に再現できると思う。でもそれは、絶対に有り得ない……。」
「確かに有り得ないよなー。だってそれ、橘香のお兄さんのクロフト能力だし。……って、え……?」
言っている途中で重大な事実に思い至ったのか、椿は目を見開いてガライゲルを見る。そして、改めて周囲を見渡しはじめた。
その動きに合わせ、橘香も同じように周囲に注意を向ける。
それはまるで、誰かの姿を探し求めているようでもあった。もちろん、その人物が誰なのか、分からない佑ではなかった。
佑は二人を落ち着かせるためにも、大きな声で注意する。
「二人共しっかりしろ。將一兄さんはここにいない。まして、悪魔に手を貸すはずが……」
「……僕はここにいるよ。佑くん。」
唐突に耳元で声がした。
同時に、背後から肩を掴まれる。
その感触を、佑はよく覚えていた。
「將一兄さん……。」
佑は振り返ろうとしたのだが、肩を掴まれているせいで振り向けない。
せめて首だけでも回そうとしたが、首を動かした瞬間に將一兄さんの腕が肩から頭部へと移動した。
將一兄さんはこちらの頭をがしりと掴んだまま、言葉を続ける。
「……そして、残念ながら悪魔に手を貸している。」
優しげな声で発せられたのは、残酷な事実だった。
その告白に、椿は鳩が豆鉄砲を食らったような顔を浮かべ、橘香は固く目を閉じて首を左右に振っていた。
「どうして? だってお兄ちゃんは……島瀬の人間で……悪魔と、戦うのが仕事で……」
「大きくなったね橘香。こっちへおいで。」
橘香の言葉を遮り、將一兄さんは実に嬉しそうに話しかける。そして、橘香に向けて手招きをした。
その途端に橘香の表情は明るくなり、何も疑う様子もなく駆け寄ってきた。
……明らかにこれは罠だ。近付いてきた所を攻撃するに違いない。
もう將一兄さんは今までの將一兄さんとは別物だと考えたほうがいい。
悪魔と手を組んでいると宣言した時点で、彼は“敵”だ。橘香もそれをよく分かっているはずだ。
でも、それでも、2年ぶりに再会できた喜びのほうが、猜疑心よりも遥かに優っているみたいだ。
「お兄ちゃん、今までどこに?」
「どこにも行ってないよ。ずっと近くにいたんだ。みんながそれに気付いていなかっただけさ。」
將一兄さんは猫なで声でそう言うと、俺の肩越しに橘香の頭に手を載せようとする。
しかし、その手が橘香に触れることはなかった。
「!!」
橘香は手に持っていた刀を唐突に振り上げ、突き出したのだ。
その刃は俺の肩口をスレスレで通過し、背後にいるであろう將一兄さんの顔面目掛けて高速で突き進む。……が、刃が届く寸前で將一兄さんの気配が消えた。
刀は何にも命中せず、何もない空間を切り裂く。
……唐突に姿ばかりか気配まで完璧に消してしまう……これが隠匿のクロクラフトの能力らしい。
將一の手から解放された佑は、再び周囲に気を配る。またどこから唐突に彼が出現するかわからないのだ。
橘香も刀を構え直して周囲に広がる庭園をつぶさに観察していた。
……しかし、一向に現れない。逃げたのだろうか。
そう思った時、視界の隅で異変が起きた。
次に將一兄さんが現れたのは、椿の隣だったのだ。
「椿!! 右に……」
佑は咄嗟に声を上げて注意を促そうとしたが、声が届く頃には椿はその場に崩れ落ちていた。
「椿ちゃん!!」
俺に続いて橘香も將一兄さんを発見したのか、信じられない程のスピードで將一兄さん目掛けて突進していく。
「お前の相手は……」
「邪魔!!」
途中、ガライゲルが橘香の行く手を阻んだが、刀を一振りしただけで胴体が上下に分かれた。とんでもない破壊力だ。
そのまま將一兄さんに斬りかかるかと思ったが、橘香は途中で刀を投げ捨てて、椿の元に駆け寄り、屈みこむ。
將一兄さんは特に何かをする気はないらしく、両手を腰に当てて橘香を眺めている。
攻撃の意志がないことを確認すると、俺も椿と橘香の元に移動することにした。
佑が庭園を移動している間、橘香は怒りに満ちた声を將一にぶつける。
「椿ちゃんに何をしたの!!」
そんな怒声をいなすように、將一兄さんは穏やかな声で告げる。
「大丈夫、眠ってるだけだよ。……それにしてもひどいじゃないか、いきなり斬りかかってくるなんて。」
確かに、あの不意打ちは予想してなかった。
いきなり現れて裏切りを宣言したとは言え、実の兄に刃を向けるなんて有り得ない。あの穏やかで優しい橘香からは想像もできない行動だ。
……やがて椿のもとに到着すると、將一兄さんの手に注射器のような物を確認できた。どうやら先程の言葉通り、薬品か何かで椿を眠らせたようだ。
椿に異常がないことを確認したのか、橘香は到着したばかりの俺に椿を押し付けて立ち上がり、キッと將一兄さんを睨む。
「私は島瀬の中でも一二を争う攻撃特化のクロフト使いです。兄とはいえ、裏切り者に心を許すわけがありません。」
「いや違うね。橘香は僕のことが気に入らないんだろう? だから躊躇なく僕に攻撃してきたんだ。……特に、佑くんが来てからは僕のことを毛嫌いしているようだったからね。僕に佑くんを取られて、嫉妬していたんだよね?」
「なっ……、嫉妬なんかしてない!!」
「佑くんと一緒にいた時間は、橘香よりも僕のほうが長いかもね。」
將一兄さんのこの言葉に、橘香の顔面が一瞬にして真っ赤になる。
「そんなことない!!」
將一兄さんの言葉を否定し、橘香は武器も持たぬまま將一兄さんに飛びかかる。
ところが、あと数メートルのところで橘香はいきなり動きを止め、その場に倒れてしまった。
「う……あぅ……。」
橘香はその後何かぶつぶつと喋っていたが、やがて何も喋らなくなり、完全に体の動きを停止させる。
將一兄さんはそうなることが分かっていたかのように笑みを浮かべると、庭に転がる橘香の元に歩み寄り、その頬を撫でた。
「島瀬の中でもトップクラスのクロフト使いも、僕には敵わなかったね……。」
橘香から言葉は返ってこない。それどころか、反応すらない。
今すぐにでも橘香の様子を確かめたいが、気を失った椿を放置することもできない。
どうしようか悩んでいると、將一兄さんはひょいと橘香を抱き上げ、こちらに近付いてきた。そして、橘香を椿の隣に優しく寝かせた。
橘香はきつく目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。おおよそ穏やかな寝顔とは言えないが、苦しんでいる様子はない。
「まったく、我が妹ながら恐ろしい能力者だよ。こんな適正を橘香に与えた神を恨むね、僕は。」
「……。」
一人で話す將一に対し、佑は何も言葉を返せない。
恐怖のせいか、それとも困惑のせいか。話しかけるべき言葉が全く頭に浮かんでこない。
そんな俺に優しい笑顔を向けながら、將一兄さんは語り続ける。
「佑くん、僕の能力『隠匿のクロクラフト』は相手の五感に直接働きかけて、その情報をある程度自由に遮断することができる能力なんだ。だから、敵に視認させないようにできるし、残像を見せて意図的に攻撃をずらすこともできる。そして、こんなふうに視覚聴覚嗅覚味覚触覚をまとめて遮断させることもできる。……ま、五感を奪う技は大勢には使えないんだけどね……。」
橘香や椿と比べて、随分と複雑そうな能力だ。
切断や衝撃に比べると地味かもしれないが、こと対人戦闘においてはこれ以上に強力な能力は無いように思える。
これだけ能力の内容を教えてもらえれば、対策を立てられそうだ。
しかし、この説明は“いつでも好きな時に近づくことができる”という將一兄さんの脅しとも取れた。
「そんなこと、話してよかったんですか、俺は將一兄さんの敵……ですよ。」
改めて敵対する旨の言葉を伝えても、將一兄さんは態度を変えない。
「そうかもしれないね。でも、敵である前に友達だ。友達に隠し事はしないっていうのが僕のポリシーなんだ。」
悪魔と手を組んでおいて、よくもそんな事が言えるものだ。
「將一兄さん、どうして俺に魔女の眼を埋め込んだんですか……?」
「巻き込んでおいて悪いけれど、君には関係ないことだよ、佑くん。」
「隠し事はしないって言いましたよ。」
「……。」
將一兄さんはこちらを見たまま、黙ってしまう。
話すべきか、無視すべきか、悩んでいるのかもしれない。
暫くお互い無言のまま対峙していると、俺の質問に賛同してくれる人物が現れた。
「魔女の眼をどうするのか……。俺も気になっていたんだ。」
それは、先ほど橘香に体を両断されたはずの悪魔……ガライゲルだった。
ガライゲルはひどく低い声で將一兄さんに質問する。
「どうなんだ、將一。」
ガライゲルは、お腹あたりを擦りながら近づいてくる。そんな悪魔を前に、將一兄さんはまたしても笑う。
「あれだけ豪快に斬られたっていうのに、相変わらずタフだね君は。」
「このくらいの回復能力がないとやっていけない。そんな事はいいから、さっさと答えろ。返答次第では……」
「……殺すのかい?」
「ああ、殺す。」
赤黒い巨体から放たれたこの脅し文句には迫力があり、佑は鳥肌が立った。
そんな脅しを受けても尚、將一兄さんが動じる様子はない。それどころか、短いセリフで脅しをあしらう。
「殺すのは無理だと思うよ。僕のほうが強いし。」
「……だよなぁ。魔女の眼を保有しているあいつですらお前のクロフト能力を防げていないわけだし、敵じゃないだけマシだと思うか。はぁ……。」
ガライゲルはその意見をあっさり認め、ため息を付いた。悪魔も色々と苦労しているみたいだ。
その後まもなく、將一兄さんは俺とガライゲルの望みどおり、事情を話し始めた。
「……魔女の眼を彼に預けたのは、彼をこちら側に引き込めると思っていたからだよ。」
「こいつを? クロフト能力者でもないのに?」
ガライゲルの質問に、將一兄さんはすぐに応じる。
「彼はこう見えて僕の妹の恋人だ。島瀬本筋の娘の将来の婿ともなれば、あのクロデリアと言えども手を出せないと思ってね。」
「婿だなんて……気が早いですよ、將一兄さん。」
橘香とは長い付き合いだし、このままずっと一緒にいても問題ないと思える相手だが、今の時点では流石に結婚まで考えていない。
俺のツッコミに対し、將一兄さんは軽く謝る。
「ごめんごめん。でも、僕の予想通りだったよ。殺せば簡単に魔女の眼を取り出せるのに、それなのにクロデリアは手を下さなかった。」
「おいおい、もしクロデリアがこいつを殺してたらどうするつもりだったんだ。」
ガライゲルの真っ当過ぎる意見に対し、將一兄さんは当たり前のように答える。
「いいや殺さないさ。彼を傷つければ、クロデリアは橘香という攻撃特化の貴重な戦力を失うことになる。僕同様、こちら側に寝返るだろうからね。」
(なるほど……)
自分で言うのも何だが、橘香は俺のことが大好きだ。それこそ俺と仲のいい兄に嫉妬するほどに。
なので、いくら当主様でも、俺に危害を加えた相手を許すことはないだろう。
こちらが納得している間も、將一兄さんは話を続ける。
「それに、クロデリアに追跡されていたあの時は佑くんに魔女の眼を預けるしかなかったんだ。僕や君が魔女の眼を手に入れたところで、クロデリアには遠くおよばないからね。一般人であるにも関わらず、島瀬の人間と深い関係にある彼の体に入れたのはベストな選択だったと思ってるよ。」
「――やはりそうでしたか。よく考えましたね、將一。」
「……!!」
そんな褒め言葉とともにいきなり現れたのは、黒装束に身を包んだ島瀬の当主、クロデリアだった。
クロデリアは屋敷の建物の縁側に腰掛けており、碧と翠の双眸を將一兄さんに向けている。
將一兄さんとガライゲルは即座に構え、クロデリアと相対する。
しかし、クロデリアは足を揃えて座ったままで、全く威圧感が感じられない。
クロデリアは余裕たっぷりに言い放つ。
「安心しなさい。私の攻撃対象は魔女の眼を奪う意志がある者のみです。このまま大人しく帰るというのなら手出しはしません。……私は今から佐玖堂の少年と話があります。席を外してもらえますね?」
見逃してやるから、帰れと言いたいらしい。
その提案に、將一兄さんはあっさりと構えを解く。
「どうやら無駄話が過ぎたみたいだね。……帰るよ、ガライゲル。」
「ああ。」
二人はそう言うと、特に別れを言うでもなくその場から姿を消した。
クロデリアは一旦目を閉じ、間を置いて話しかけてくる。
「……佐玖堂佑。島瀬と関わり合いになった以上、あなたにはクロフトを会得してもらいます。」
「え……」
「魔女の眼を保有している貴方には、魔女の眼を守る義務があるのです。」
てっきり、魔女の眼を返せと言われるかと思っていたので、この提案は予想外だった。
「つまり、自分の身は自分で守れ、と?」
質問を返すと、クロデリアは縁側から離れてふわりと跳び、近くに着地した。
「貴方の死は魔女の眼を失うことに直結します。逆に、死にさえしなければ、魔女の眼は守られる。」
いよいよ、この当主様が俺に魔女の眼を託す理由がわからない。魔女の眼を確実に守りたければ、俺から取り出して金庫とやらに大事に仕舞っておくほうがいいに決まっている。
色々と考えた末、佑は魔女の眼を手放すことを選択する。
「もういい。どれだけ時間がかかってもいいし、リスクを負ってもいいから、魔女の眼を取り出してくれ。これ以上は……責任が持てない。」
俺は今日、今まで経験したことのないような激しい戦いを目の当たりにしてしまった。こんなことに巻き込まれて生き伸びられる自信が全くない。
臆病者と言われてもいい。
誰だって命は惜しい。
こんな事で命を失うわけにはいかないのだ。
だがしかし、クロデリアは佑が想像していた以上に残酷な事実を告げる。
「それは不可能です。……魔女の眼を取り出すには、持ち主を殺す以外に方法はありませんから。」
「……!!」
その言葉を聞き、佑は愕然とする。
將一兄さんは俺に魔女の眼を埋め込んだ。そして、今後取り出すつもりでいる。
それはつまり……
(俺を殺すつもりなのか……?)
この結論に思い至った時、佑は自分の中で何かが崩れ落ちるのを感じた。
それは將一兄さんに対する信頼であり、親愛の気持ちであり、思い出だった。
……俺は將一兄さんに裏切られた。あの人はこの事を分かっていて俺の中に魔女の眼を入れたのだ。あの時点で、將一兄さんは俺を殺すつもりでいたのだ。
もう二度とこれらの感情が戻ることはないだろう。
「……。」
それから暫くの間、佑は島瀬の広い庭で立ち尽くしていた。