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慧眼のクロクラフト  作者: イツロウ
魔女の眼 編
1/6

第一章 非日常への入り口

01


 ――時刻は午前6時。

 遠くから聞こえてくるのは烏の鳴き声だ。

 その鳴き声はビルの壁面や山の斜面で何度も反射し、街を包み込む静かな空気に溶け込んでいく。

 東には地平線から顔を覗かせている太陽が見える。

 その太陽の光に照らされて大きな影を作っているのは、山の麓に建てられている大きな屋敷だ。

 朝日は屋敷の中にも降り注いでおり、縁側に座っている少年の背後に長い影を作っていた。

 朝早いのというのに、少年は寝覚めてから時間が経っているようで、学生服に身を包んで優雅に読書を楽しんでいる。

 日が昇るにつれて、文字がびっしりと印字されているページは朝日を反射し始め、少年の顔を明るく照らしていく。

 そんな光に耐えられなかったのか、少年は慣れた手つきで本を閉じると、顔を上げた。

(……。)

 視線の先、縁側から見えるのは広い庭だ。面積にして中規模の公園くらいはあるだろうか。この広さだと、散策するだけで1時間くらい時間を潰せそうだ。

 庭園には様々な種類の樹木が植えられ、魚の住む池も見られる。どこかの自然公園と言われても不思議ではないくらい手入れが届いている。

 現在も、朝日を受けて池の水面は輝き、木々も太陽からの明るい光を受けて青々としていた。

 そんな庭園の一角、少し開けた場所に一人の少女の姿があった。

 長い髪を後頭部の高い位置でまとめている彼女は、上下とも紺色のジャージに身を包んでおり、一定間隔で木刀を振っている。俗にいう素振りだ。

 彼女の額には汗が浮かんでおり、呼吸も多少乱れている。だが、木刀の剣先はブレておらず、素人目に見ても綺麗な軌道を描いていた。

 まだ春先の早朝とあって少々冷え込んでいるが、彼女には関係無さそうだ。

 その後も少年は読書を中断したまま、素振りをする少女を観察し続ける。

 そんな少年の様子が気になったのか、少女は素振りを一旦止めて少年に話しかけた。

たすくくん、どうかした……?」

 佑、と呼ばれた少年はゆっくりと首を左右に振り、少女の言葉に応じる。

「何でもない。それより、まだ素振りを続けてていいのか。」

「え、まだ6時過ぎくらいだよね。片付けとか着替えとか色々準備するにしてもまだ40分は余裕があると思うけれど……。」

 二人の間で会話が始まり、ジャージ姿の少女は素振りを中断して、少年の座る縁側へ移動していく。

 木刀を胸元に引き寄せ、両手で上品に抱えている少女に対し、佑は告げる。

「そんな余裕はないぞ橘香きっか。もしかして、今日が登校日だってこと、忘れてるんじゃないだろうな。」

「え? 嘘……」

 橘香と呼ばれた少女は佑の言葉が信じられなかったのか、慌てた様子で縁側に身を乗り出して室内に目を向ける。

 何を見ているのか気になり、佑も室内を見る。……橘香の視線の先には日めくりカレンダーがあった。

(4月11日、月曜日、大安か。)

 大安だからどうという事でもないが、今日という日は橘香にとって特別な日だ。

 そのことも踏まえ、佑は真横にある橘香の横顔を見つつ、重大な事実を告げる。

「春休みは昨日までだ。そして、今日からは俺と同じ高校生だな。」

「高校生……」

 高校生という言葉を噛み締めるように呟きつつ、橘香はカレンダーから目を逸らし、こちらを見る。

「……あ。」

 橘香は自分が見つめられていたとは知らなかったようで、すぐに赤面し、顔を伏せてしまった。

(いつまで経っても初々しい反応だなぁ……)

 ――現在15歳、1月前まで中学生だった彼女、島瀬橘香は俺と交際している。

 小学生からの付き合いなのでもう恋人と言うよりは兄妹に近い。もっと互いに歳を取れば何か違ってくるのかもしれないが、まだその予兆は無い。

 今日から晴れて一つ年下の後輩となるわけだが、環境が少し変わるだけで本質は変わらないだろう。

 毎朝会うというこの日課も、これからも続くはずだ。

(しかし、俺もよくこんなお嬢様に見初められたな……。)

 島瀬の家は名家であり、つまりは金持ちだ。俺の家……佐玖堂家もそこそこの小金持ちだが、島瀬には到底及ばない。

 そんな事を考えている間も、橘香は地面を見てじっとしていた。

 この恥ずかしがり屋な性格はいつになったら治るのだろうか……。今日からは高校生なのだし、もっと成長して欲しいものだ。

(別の部分は、大いに成長しているんだがなぁ。)

 ジャージ姿の橘香をじっくりと観察しつつ、佑は呟く。

「それにしても高校生か、大きくなったなぁ……」

 この間まで子供服がよく似合う少女だったのに、今はひらひらの服よりカジュアルな服が似合う、年頃の女の子だ。

 感慨深いこのセリフに、橘香はいち早く突っ込んでくる。

「佑くん、その言い方やめてよ。親じゃあるまいし……。」

「確かにそうだな。……っと。」

 橘香が顔を上げたところで、佑は縁側から立ち上がり、橘香と同じく庭に立つ。そして、木の柱に立て掛けていた通学用のショルダーバッグを持ち上げた。

 その時、バッグのカバーがズレてしまい、筆箱が地面に落ちてしまう。どうやら、開けたままだったのを忘れていたらしい。

 落下の衝撃で筆箱の蓋も大きく開き、鉛筆や消しゴムなどの文具がその場に散らかってしまった。

「おっと……」

 佑はすぐにバッグを下ろし、その場にしゃがみこんで散らばった文具を拾う。

 橘香も何も言わずにその作業を手伝ってくれた。しかし、両手で拾えばいいものを、橘香は木刀からは決して手を放しそうになかった。

 片手で鉛筆を器用に拾う橘香を見て、佑は思ったことを述べる。

「なあ橘香、木刀ばっかり振り回してないで、少しはこっちを持つ時間を増やしたらどうだ。」

 佑はそう言って、鉛筆を持って文字を書くようなジェスチャーを見せた。

 橘香はすぐにその意味を理解したようで、あからさまに嫌な表情を浮かべる。

「いつも平均以上取れてるからいいの。授業まじめに聞いてれば問題ないって。」

「まぁ、それでも問題無いだろうな。……聞いただけで理解できるならな。」

「佑くん、それ、遠回しに馬鹿にしてるでしょ……。」

 橘香はため息を付きながら拾った鉛筆をこちらに手渡す。

「馬鹿にはしていない。心配しているだけだ。」

 佑は受け取った鉛筆を筆箱にしまい、無造作にバッグの中に突っ込んだ。

 そして、今度はしっかりとバッグを閉め、改めて肩に掛け直す。

「それじゃあ、門の前で待っているからな。制服、中学のと間違えるなよ。」

「私もそこまで馬鹿じゃないよ……もう。」

 冗談を交えつつ、佑は庭園の奥にある裏門を目指す。

 縁側から離れていく佑に、橘香は少し声を張って話しかける。

「あの、今日からよろしくね。……佐玖堂先輩。」

 それだけ言うと、橘香は靴を脱いで縁側に上がり、そそくさと室内へ入っていってしまった。

「先輩か……悪くないな。」

 それから裏門に到着するまで、佑は橘香のセリフを頭の中で何度も反復させていた。


02


「――ねぇ、毎朝こんな電車に乗らなきゃいけないの?」

 屋敷を出発して15分後、佑は橘香と共に電車に揺られていた。

 三両編成の車内は、学生服に身を包んだ学生やスーツ姿のサラリーマンで一杯になっており、座席は全く空いていない。

 その為、佑と橘香はつり革に掴まざるをえない状況にあった……のだが、橘香は頑なにつり革を掴もうとしない。届かないわけでもないし、単に手を上げるのが恥ずかしいのだろうか……。

(いや、恥ずかしいだとか、そんな事を気にしているわけがないな……)

 佑はそう確信できた。

 なぜなら、現在橘香はこちらの腕をしっかりと掴み、ぴたりと体の側面を密着させていたからだ。

 傍目から見ても、この状況はとても気まずい。

 正面にあるガラス窓を見ると、数名の乗客がこちらに視線を向けているのがよく分かった。だが“見るな”とは言えない。むしろ、朝っぱらからこんなのを見せてしまってすみませんと謝りたいくらいだ。

 乗客の姿は勿論のこと、自分たちの姿もしっかりとガラス窓に映っていた。

 少し短めの黒い髪と鋭い目付きが特徴なのが、俺、佐玖堂佑だ。

 表情は固く、口も“へ”の字に曲がっている。自分で言うのも何だが、究極的に人付き合いが苦手そうな顔だ。

 事実、そんなに友達も多いわけではないので、間違ってはいない。

 そんな俺の隣にいるのが名家のお嬢様、島瀬橘香だ。

 顔立ちはスッキリしており、清楚という言葉がぴったり当てはまる。

 紺色の制服と長めのプリーツスカートはお淑やかな彼女によく似合っており、中学生時代の黄土色の制服とは全く違う印象を受けた。

 佑はそのままガラス窓に映る二名の高校生を見て、意外な事実に気付く。

(身長差、結構あったんだな……)

 その差は10センチ強はあるだろうか。こうやって対比して見てみるといつもとは違って見えるから不思議だ。

 ガラスに映る姿を見て、佑は改めて自分たちがカップルに見られても仕方がないと思い知らされる。

 橘香はと言うと、そんな意識は全く無いようで、本気でバランスを保つためにこちらの腕をホールドしていた。そんなに強く揺れている感じはないが、本人にとっては深刻な問題らしい。

(このままだとマズいな……。)

 同じ学校の学生が大勢乗り合わせている車内で密着しているとあらぬ疑いを掛けられてしまう。そう考え、佑は橘香に離れるように促す。

「橘香、俺じゃなくてこっの吊り革に掴まれ……ほら。」

 佑は無理矢理橘香の腕を掴み、上に持ち上げる。

 ……と、その瞬間、遠心力が発生した。どうやら、電車がカーブに差し掛かったようだ。

「わっ!?」

 橘香の体は窓側に向かって大きく傾き、前に座っている男性にぶつかりそうになる。

 それを防ぐため、佑は止む無く橘香の肩をがしりと掴み、強い力で引き寄せた。

 結果、佑と橘香は抱き合うような形になってしまう。……だが、他の乗客と激突するよりはいいはずだ。

 橘香を引き寄せた後、佑は怪我の有無を確認する。

「大丈夫か? 捻ったりしてないか。」

「うん、ありがと。……あっ。」

 橘香はこちらに笑顔を見せたが、すぐに赤面して顔を背ける。そして、先ほどの指示通り素直につり革を掴んだ。

 ……一体どういった心境の変化だろうか。

 橘香とは長い付き合いだが、こればかりは理解できない。

 急に親しげに近づいてきたかと思えば、恥ずかしそうに離れたり。何か素っ気ないなあと思っていたら、無言で擦り寄ってきたり……。清楚で大人しそうな橘香からは全く想像できない行動だ。

 でも、それが猫みたいで可愛いといえば可愛い。絶対に口にはしないが、まんざら悪くないと思っている自分がいるのも事実だ。

 ……ともかく、これから先電車内でずっと橘香に腕を掴まれるとなると厄介だ。

(座れるように、早めに出るか。でも、それだと30分も前倒しになってしまうな……。)

 小学校、中学校ともに徒歩で5分の位置にあった橘香にとって、通学に時間をかけるというのは新しい感覚に違いない。

 しかし、世の中には2時間近くかけて通勤しているという人もいるわけだし、それと比べればマシだと思っておこう。

 ……そもそも、三両しか編成していない鉄道会社が悪い。通学の時間帯だけでも四両編成にして欲しいものだ。

(文句を言っても仕方がないか。)

 この町、景吾けいご市の人口は50万ほどで、それなりに賑やかな街である。……だが、この規模で大都市のように分刻みで大量に編成された車両を運用するというのは無理な話だ。絶対に赤字になってしまう。

 そんな事を考えているうちに五分十分と過ぎ、やがて電車は目的の駅に到着した。

 到着を知らせるアナウンスが車内に流れると、学生服を着た若者たちが鞄を持ち直したり、携帯をポケットにしまったりと、それぞれが車外に出る準備を始める。

 佑も同じようにショルダーバッグの紐を肩にかけ直し、橘香に告げる。

「この駅で降りるぞ。」

「うん。」

 橘香は強く頷き、新品の学生鞄を構える。その革製の鞄からは高級感が漂っていた。流石は島瀬家のお嬢様だ。

 やがて電車は駅に停車し、ドアが開くと同時に学生たちが動き始める。

 その流れに沿って、佑と橘香も駅のホームへ降りる。

 無事に電車から降りると、橘香はひと仕事終えたと言わんばかりに大きく息をついた。

「ふぅ……長かった。」

 橘香は構内にあるベンチに腰掛け、足を前に投げ出す。本当に疲れたようだ。

 まだ時間はあるし、数分くらいならここで休憩してもいいだろう。

 佑は何も言わずに橘香の隣に座り、ホームの様子を観察する。

 ホームはとても狭く、改札口も二箇所しか無いので学生が渋滞を起こしていた。しかし、毎朝のことなので誰も戸惑っている様子はなく、綺麗に列を作って並んでいる。

 橘香はそんな様子を観察する余裕もないのか、鞄から取り出した下敷きで自分の顔を仰いでいた。

 それから数分もするとホームの混雑も収まり、同時に橘香の様子も落ち着いてきた。

 佑は頃合いを見計らい、橘香に指示を出す。

「そろそろ行くか。……定期券、忘れるなよ。」

「わかってるわかってる。」

 橘香は下敷きを鞄の隙間に差し込むと、制服のポケットから定期券を自慢気に取り出してみせた。

 その定期券を確認すると、佑はベンチから立ち上がる。

 既に電車は遠くは離れており、もうレールの軋む音も聞こえてこない。

 ホームにも学生の姿はどこにも……

(ん……?)

 改めてよく見ると、正面に女子学生の姿を見つけた。

 その女子生徒は理由もなく突っ立っているようではないようで、じっとこちらを見ている。何か用事でもあるのだろうか。

 女子生徒は、橘香が着ている物と同じ制服を着用していたが、わざと着崩しており、スカートの丈も短かった。また、長い髪はアッシュブラウンに染められていた。

 化粧やアクセサリーは付けていないが、靴は学校指定のパンプスではなく、パステルカラーのシューズを履いている。

 うちの学校にも一定数の不良がいるとは聞いていたが、この人は不良というよりは自由人という感じがする。

 髪の色も彼女の顔立ちにマッチしているし、くるぶし丈のソックスやドキツい色のシューズも彼女のカモシカのようなしなやかな足を際立たせている。

 ベンチから立って暫くその女子生徒を眺めていると、ようやく橘香が鞄を体の前に持って立ち上がった。

 その動きに反応し、ホームに立っていた女子生徒はこちらに駆け寄ってくる。

 表情は柔らかく、なぜか嬉しげだ。弓形になった口元からは、可愛らしい八重歯が見え隠れしていた。

 女子生徒はある程度まで近づくと、はっきりとした声で挨拶してきた。

「よー、橘香。久し振りー」

「え……?」

 馴れ馴れしく話しかけられ、橘香は女子学生を見つめたまま固まってしまう。

 人違いなのか、それとも単に橘香が相手のことを忘れているのか……。10秒もするとその答えがわかった。

「もしかして……椿つばきちゃん!? わ、すごい久し振り!!」

 橘香は怪訝な表情を瞬時に一変させて、驚きと嬉しさが半分ずつ混ざったような表情を浮かべ、その女子学生に両手を差し伸べる。

 椿と呼ばれた女子学生も手を差し出し、二人はお互いに手のひらを合わせ、何度もぽんぽんと叩き合う。

「うっわー成長したな橘香ー。もう何年ぶりかな、5年くらい?」

「うん、椿ちゃんが中学生になってから会わなくなったし、そのくらいかな。」

 どうやら二人は小さい頃の知り合いらしい。

 二人は話しながらも、お互いの顔や体をまじまじと観察していた。

「……っていうか、椿ちゃん西高校受かってたんだ。意外だなぁ。」

「失礼な奴め。こう見えてそれなりに頭はいいんだぞ。それなりに。」

 アッシュブラウンの髪を軽く撫でながら、椿は自慢げに答えた。

 何だかんだ言って、俺達が通っている『景吾市立西高等学校』は地元では有名な進学校だ。偏差値もそれなりに高く、全国の高校の中でも上位100位以内にランクインしている。

 そんな西高校でそれなりに出来ているということは、世間一般で言えば結構勉強ができる部類に入るということだ。

 人は見かけによらないものだなぁと思っていると、橘香は急に話題を変えた。

「……でも、5年経っても椿ちゃん全然変わってないね。そのサバサバした喋り方とか、自信満々の態度とか。……今も、小学校の時みたいに週に一度はトラブル起こしてる気がする。」

 その失礼な物言いが気に食わなかったようで、椿も同じ口調で橘香に言い返す。

「お前はだいぶ変わったなぁ橘香。男引き連れて登校なんて、マジで尊敬するわ。」

 椿はそう言って、こちらに視線を向ける。

 佑はその視線に反射的に反応し、ベンチから立ち上がってしまった。

 立ち上がったままだと不自然だったので、とりあえず自己紹介することにした。

「どうもこんにちは。2年生の佐玖堂です。橘香とは長い間お付き合い……」

 その自己紹介を遮ったのは橘香だった。

「ち、違う!! 佑くんは……」

「うわ、ホントに付き合ってんの? 見かけによらずやるなぁー。」

「もう、誂わないでよ……。」

 橘香はこの手の話に弱いのか、すぐに音を上げてしまった。

 椿は橘香を誂えて満足したのか、ニヤニヤ笑っている。笑うたび、尖った八重歯が唇の隙間から覗いていた。

 会話が一区切り付いたところで、佑は定期券をちらつかせて二人に告げる。

「入学式が始まるまでそう時間もないし、話があるなら歩きながら話したらどうだ。」

 提案すると、橘香と椿は互いに頷いた。

「確かに、こんな場所で長話してもアレだしな。……さて、こいつのこと、歩きながら詳しく聞かせてもらいましょーか。」

「ちょっとまってよ椿ちゃん……。」

 先を歩く椿を追いかけ、橘香も改札口に向かっていく。

 これまで、橘香が女子生徒と親しく話す様子をほとんど見たことがなかった佑にとって、この状況はなかなか興味深いものだった。

 橘香は女子相手にはどんな会話をするのか、聞き漏らさぬように佑も改札口へ急ぐ。

 改札を抜けると、橘香は駅の出口付近で立ち止まり周囲を見渡していた。この駅は市の中心商店街に近い場所にあり、背の高いビルやマンションなども乱立している。

 特に珍しい光景でもないが、あまり屋敷から出ない橘香にとっては珍しいのかもしれない。

 そんな橘香の後ろ姿を眺めていると、不意に椿が突っかかってきた。

「……で? ほんとはどうなんだ? マジで橘香の彼氏なのか?」

 過剰なほどに接近され、佑は思わず椿を押し返す。

「誂うのもほどほどにお願いします。あと、橘香を困らせないで下さい。これ以上は俺も本気で怒りますよ。」

 他の生徒から誂われるのは慣れているし、黙らせる方法も熟知している。

 いくら橘香の知り合いだからといって、学生生活を乱すようなことは許されない。入学早々変な噂を立てられたらたまったものじゃない。

 こちらが真剣に喋っているのに、椿はふざけた言葉を繰り返す。

「本気で怒る? なーに、生意気なこと言ってんだよー。」

 そう言って、椿は馴れ馴れしくこちらの背中をバシバシと叩く。彼女にとってはスキンシップの一部にすぎないだろうが、俺にとってはなかなかに不快だ。

「……。」

 相手が同じ学校の先輩だろうが、女子生徒だろうが関係ない。

 佑はそのスキンシップを止めさせるべく、タイミングを見計らって椿の腕をがしりと掴んだ。

「え、ちょっと……」

 急に掴まれたことに驚いたのか、椿の体が一瞬ビクッと震える。

 今までの傲慢な態度が嘘のようだ。椿は急におとなしくなり、戸惑いの表情を浮かべている。

 だが、そんな顔を観察できたのも数秒ほどだった。

「やっ……放して!!」

 そんな椿の声が聞こえたかと思うと、次の瞬間、俺は宙を飛んでいた。

「!?」

 目下に見えるのは二台しかない自動改札機、駅の外へ続く数段の階段、そして出口で待機している橘香の頭頂部だ。

 一体俺はどういう状況に陥っているのだろうか。まったくもって理解できない。

 しかし、このまま行けば歩道と道路の境目にあるガードレールにぶつかってしまうという事だけは辛うじて理解できた。

 理解した瞬間、佑は背中からガードレールに衝突し、その場に崩れ落ちる。

 その衝撃は凄まじく、背中をぶつけたせいで肺の中の空気が一気に外に放出されてしまった。

 ついでに言うと、段々と視界がぼやけ、まともな思考ができなくなってきた。今にも気を失ってしまいそうだ。

 薄れゆく意識の中、橘香と椿の会話だけが聞こえてくる。

「ちょっと椿ちゃん!! どうしてこんな所で“使った”の!?」

「……わりぃ。でも、急に腕掴まれてさ……」

 会話の内容から察するに、俺をここまで吹き飛ばしたのは椿で間違いないようだ。

(でも、一体、どうやって……)

 考えようとしたが、やはり頭がうまく働かない。

 ……佑が気を失うまで、それほど時間は掛からなかった。


03


 佑は夢を見ていた。

 眼の前に広がるのは何もない空間だ。

 白い平面だけが延々と続き、空も無ければ太陽もない。

 ただ、自分の隣には見知った人物がいた。

 佑はその人物と肩を並べて歩きつつ、会話をする。

將一まさかず兄さん。最近の調子はどうですか。」

「いいよ。」

「將一兄さん、今どこで何をしているんです? いつになったら帰ってくるんです?」

「さあ、分からない。」

 いくら話しても一片通りの返事しか返ってこない。夢だと自覚していても、こうも反応が薄いと悲しくなってくる。

「將一兄さん、どうして何も言わずに行ってしまったんですか。……俺も、橘香も心配しているんです。」

 橘香の名前を出すと、急に目の前の景色が不安的になってきた。もう夢も終わりらしい。

 その事を自覚するとあっという間に目が覚め、聞き慣れた声が耳に届いてきた。

「……あ、佑くん、大丈夫だった?」

「橘香か……。」

 言葉と同時に、シトラス系の爽やかな香りも感じられた。その香りのおかげで佑はすぐにはっきりと意識を取り戻すことができた。

 眼を開けると、まず見えたのが白い天井だった。天井には蛍光灯が等間隔で取り付けられており眩しい光を放っている。

 壁際には薬やガーゼが入っている戸棚があり、佑はすぐにこの場所がどこなのかを理解した。

(保健室……の、ベッドの上か。)

 駅構内から歩道まで吹き飛び、背中を強く打ち付けた事は覚えている。その原因が椿という女子生徒にあることもぼんやりと覚えている。

 しかし、それから先の記憶が全くない。記憶の断片すら無いし、完璧に気を失っていたのだろう。

 思い出すことを諦めた佑は、首を曲げ、視線を下に向ける。すると、すぐ近くに橘香の顔があった。

「お兄ちゃんの夢、見てたんだね。まだ忘れられない?」

「死んだみたいに言うな。失踪したってだけで、死んだとは限らないだろう。」

 どうやら寝言を聞かれていたようだ。でも、あまり恥ずかしくはなかった。

 ……ちなみに、將一兄さんは俺の兄ではない。橘香の兄だ。

 橘香の家に出入りするようになってから知り合い、意気投合し、2年前までは毎日のように語らい、古い文学作品から宇宙に関する話まで、幅広いジャンルの色んな事を教えてもらった。

 今の俺があるのも、將一兄さんの影響に拠るところが大きい。

 ぶっちゃけ、島瀬家には橘香に会うためじゃなく、將一兄さんと会うために行っていたようなものだ。

 橘香は明らかにその事が気に食わなかったようだし、兄がいなくなってせいせいしているのかもしれない。

「……でも、夢にまで見るって、相当だよ。」

「仕方ないだろう。それだけ將一兄さんにはお世話になったんだ。」

「……私よりも?」

「ああ、そうだな。」

「む……。」

 嘘偽りなく正直に告げると、橘香はその端麗な顔に似合わないふくれっ面をこちらに向けた。

 いつまでもそんな顔をさせておくのも忍びなかったので、佑は話題を変えることにした。

「ところで、あの茶髪の先輩とは古い付き合いみたいだったな。」

 こちらが上半身を起こしながら言うと、橘香はベッドから遠ざかりながら答える。

「あれは木佐貫椿ちゃん。二つ年上だから三年生かな。一応親戚で、小さい頃は一緒に修行……と言うか、お稽古してたんだ。」

「じゃあ、あの先輩も剣術を?」

「ううん。剣は私だけ。椿ちゃんはまた別のお稽古。」

「そうか……。」

 剣術、というのは、橘香が幼い頃から続けている武道のことだ。

 この数年間、練習している風景はよく見るのだが、稽古をしている場面を見たことはない。と言うか、なぜか見せてもらえない。

 一度、將一兄さんにも質問してみたが、その時は沈黙で返されてしまった。

「前々から気になってたんだが、その稽古ってのはどんな稽古なんだ? 」

 佑はベッドの上に胡座をかいて座り、談話の態勢に入る。それを察したのか、橘香も保険室内にあった丸椅子を取って、ベッドの脇に座った。

「あんまり詳しくは言えないんだけど……。まー、島瀬家は代々続く古くて格式張った系譜だからね。島瀬に生まれた人間に必ず課せられるお勤めってところかな。」

 よく分からない。

 佑は顎を手のひらで支えながら質問を重ねる。

「それは一種の儀式みたいなものなのか。」

「いやいや、そんなに怪しいものじゃないよ?」

「じゃあ、肉体的に辛い修行なのか。」

「たまにそんな感じの稽古もあるけど、基本的には慣れるための練習っていうか……。」

 ますます分からない。

 ただ、これ以上の質問はNGなのか、橘香は自らの口元を手で覆い隠し、微かに首を左右に振った。

「これ以上は言えないのか。」

「ごめん。」

 家庭には家庭の事情がある。踏み入った質問をするのは失礼というものだ。

 だがしかし、どうしても気になることがあった。

「將一兄さんが失踪したのは、その稽古が関係しているのか……?」

「やっぱり、お兄ちゃんのことが心配なんだね。佑くん……。」

 橘香の不安げな声を聞き、佑は反射的に橘香を安心させるセリフを返す。

「ただ単に理由が知りたいだけで、心配はしていない。あの人はとても頭がいい。別格と言うか規格外だ。今もどこかで上手く暮らしてるだろう。」

「だといいね……。」

 こちらが失踪中の兄の話を出してしまったせいで、保険室内は微妙に気まずい空気に支配されてしまう。

 何か良い話題はないか、何気なく保健室内部を観察していると、掛け時計が目に入った。

「11時5分……。あれから3時間も気を失っていたのか。」

「うん、救急車とか呼ぼうかなって思ったんだけれど、椿ちゃんが“寝てりゃ治るだろ”って言ったから、とりあえず二人で抱えて保健室に連れてきたってわけ。」

「迷わず救急車を呼んで欲しかったな。」

「ごめん……。」

 こちらの率直な意見に、またしても橘香はしょんぼりしてしまう。

 短い間にこう何度も物憂げな顔を見せられると、こちらの心臓にも悪い。

 佑はすぐにその表情を止めさせるべく、慣れた手つきで橘香の頭の上に手のひらを置いた。そして、ぽんぽんと軽く叩きながら慰める。

「悪かったな。そもそも橘香は携帯電話も持っていないし、この周辺には公衆電話もない。無人改札駅だから駅員さんもいないし、学校に連れて行ったのは正しい判断だ。ありがとう。」

 そんな感じで慰めていると、不意にチャイムが鳴り響いた。

 このチャイム音に反応し、佑は今日の予定について思い出す。

 時間的に考えて、今のチャイムはクラス替え後のホームルームが終わったことを知らせるチャイムだ。

 入学式はとうのむかしに終わり、新年度の担任の挨拶や生徒同士の自己紹介も終わっているはずだ。

(しまった……。)

 橘香の晴れ姿をこの眼で見られなかったのは残念極まりない。そして、第一印象が大事な初回のホームルームを欠席したのもかなりの痛手だ。

 色々と後悔している間にチャイムは鳴り終わり、それと同時に生徒たちのざわめき声が廊下側から聞こえてきた。今日は午前だけで学校は終わりで、授業はない。

 一体俺は何のために学校に来たのだろうか……。橘香に看病させるためだけに来たなんて、情けなさ過ぎる。

 チャイムが鳴り終わった後も項垂れていると、ノックもなしに保健室のドアが開いた。

「きっかー。大丈夫だったー?」

 陽気な掛け声とともに現れたのはアッシュブラウンの長髪と、八重歯が特徴の椿先輩だ。

 椿先輩は近づいてきたかと思うと、遠慮なくベッドの上に座り、俺と橘香との間に割って入る。

「もしかして、邪魔しちゃったかな?」

 その視線は橘香の頭の上に載せられた俺の手に向けられている。

 遅れてそのことに気付いた橘香は、慌てた様子で俺の手を両手で掴み、頭の上から外した。

「もう、椿ちゃん……。」

 恥ずかしそうにしているが、それでも、橘香は俺の手を放さず握っていた。

 椿先輩は軽く橘香を誂った後、人が変わったかのようなしんみりとした口調でこちらに話しかけてくる。

「朝は……悪かったな。」

 それは、謝罪の言葉だった。

 やはり、今朝のあの事故は椿先輩が引き起こしたものらしい。何をどうすれば体重65kgの自分を数メートルも飛ばせるのか、全く理解できないが、謝罪されている以上、それに応えなければならない。

「外傷もなけれな痛みもないので大丈夫です。一応、受け身も取りましたので。」

 佑は後頭部から首にかけてをさすりながら、どこにも怪我がないということを告げる。

「いや、私が言ってるのはそうじゃなくて……まぁ、気にしてないならいいか。」

 椿は佑の返答に納得いかない様子だったが、それ以上話を発展させることはなかった。

 謝罪が終わると、椿の表情も元通りになり、あることを提案してきた。

「そうだ、放課後どっか遊びに行こーぜ。橘香の進学祝いにさ。」

 椿先輩は丸椅子に座っている橘香の背後に回りこむと、背中から覆いかぶさる。

 橘香もまんざらでもないようで、何も言わずにその抱擁を受け入れていた。橘香には珍しく、彼女は心を許せる相手なのだろう。

「それはいいな。カラオケにでも行くか。」

 この言葉に対し、椿先輩と橘香両名ともに目を丸くしていた。

「おーちょっと意外、お固いやつだと思ってたんだけど……。」

「ほんと、佑くんからそんな事言うなんて、珍しいかも。」

「俺も人並みには遊ぶさ。それに、橘香の旧友、しかも親戚ともなれば、よく知っておいて損はない。」

 この椿という人間は多少生意気だが、貴重な橘香の友達だ。今後も接触する機会があるだろうし、なるべく多くの情報を手に入れておきたい。

 佑はそう考えていたが、椿はその言葉をそのままの意味で受け取っていた。

「え? なになに? 私にキョーミがあるわけ?」

 椿先輩は橘香から離れ、再びベッドに腰掛ける。そしてわざと太ももを魅せつけるようにして足を組み、いたずらっぽく笑った。完全に俺をおちょくっている。

 控えめで奥ゆかしい橘香とは真逆の性格だ。

「確かに興味はありますね。どうして先輩みたいな脳天気女がこの学校に入学できたのか、とか。」

 皮肉をたっぷり込めて言い返すと、椿先輩は態度を一変させた。

「誰が脳天気だって? 生意気言いやがって……」

 椿先輩は青筋を立て、至近距離から俺を睨みつける。

 本人は最大級の怒りを表現しているのかもしれないが、怒った顔も意外と可愛い。やはり、橘香の親類とあって容姿だけ見れば美人さんだ。

 まじまじと観察していると、それを挑発と受け取ったのか、椿先輩はさらに体を寄せてこちらの胸ぐらをぐいっと掴んだ。

 俺も掴み返したかったが、流石に女子生徒の胸元に手を突っ込むなんて真似はできない。橘香の前となると尚更のことだ。

 そんな険悪な空気に割って入ってきたのは橘香だった。

「まぁまぁ二人共、私の進学祝いに行くんでしょ? 早く行こうよ。」

「……。」

 橘香のこの一言で冷静さを取り戻してくれたらしい。椿先輩はこちらから手を放し、そのままベッドの上に仰向けになって寝転んだ。足を組んでいたせいか、スカートの裾が太ももの上を滑り、そのままめくれてしまう。

 橘香はいち早くその現象を察知し、素早い動作で椿先輩のスカートを押さえて事無きを得た。

「……?」

 椿先輩はこの橘香の行動を理解していない様子だ。まぁ、気付かないのなら気付かないままでいい。

 佑はベッドから降りると靴を履き、ベッド脇の棚に置かれていたバッグを手に取る。

「さあ、遊びに行くなら早めに行こう。俺達と同じような事を考えている生徒は山ほどいるだろうからな。」

 こちらの言葉に二人は無言で頷く。

 その後、5分と経たずして3名は学校から出て、中心商店街へと向かった。


04


 景吾市の中心商店街は、その名の通り市の中心部に位置している。

 そのおかげで、商店街のアーケードからは市役所だけでなく県庁も見え、おまけに城まで見える。

 この城は江戸時代に建てられたもので、一応観光名所になっている。この市に住むものなら、小学校か中学校の遠足で一度は訪れたことがあるはずだ。夜はライトアップもされるし、妙に入り組んでいて人目につかない場所が多いため、デートスポットとしても有名らしい。

 城についてはともかく、中心商店街は昼夜問わず賑わっている活気のある場所だ。

 多くの店がアーケード内に軒を連ねているので昼間は買い物客で賑わい、小道に入れば飲食店や飲み屋街が広がっているので夜も賑わっている。

 元々は城下町だったこともあり、城に近づけば近づくほど立派な家が多く、逆に遠ざかるほど敷地面積の狭い店が多くなっているのだ。

 このうんちくも將一兄さんから教えられたものだ。

 実生活においてほとんど役に立たないが、なかなか興味深い話ではある。

 ……佑たち3名は、商店街の中でも城から離れ、狭い敷地に建てられているカラオケ店の中にいた。

 他の生徒と被らないようにするためわざわざここを選んで正解だった。店内に人の影はなく、一番広い部屋を押さえることができた。

 殆どの生徒はアーケードに面した大規模チェーンのカラオケ店を利用していることだろう。あそこは大抵狭いし窮屈だ。

 狭いほうが異性と密着できるのでいいのかもしれないが、俺は女子に色ときめくよりも、そこそこ広い部屋で、ゆったりとソファーの上で座っていたかった。

「――あー、歌った歌った。」

 ……歌い始めてから二時間、椿先輩は15曲近く歌って満足したようで、ようやくマイクから手を放し、ソファーの背もたれに体を預けた。

 室内は広々とまでは言えないものの、3名が足を伸ばしてリラックスできるだけの広さはあった。1つのテーブルを囲むようにしてソファーが3つほど配置されていて、部屋の奥の壁には大きな液晶モニターが取り付けられている。

 二人掛け、三人掛けのソファーを一人で占領できるのはなかなか嬉しいものだ。

 椿先輩は入り口から見て左側のソファーに寝転がっており、入り口に近い場所には佑が、そして右側には橘香が座っている。

 橘香はカラオケは初めてらしい。その証拠に、二時間近くずっと姿勢よく座って、始終カラオケの端末機械をいじっていた。勿論、マイクは一度も握っていない。

 そんなこともあり、椿先輩が2曲歌い、その後俺が1曲歌うというローテーションが出来上がっていた。

 流石に椿先輩も歌い疲れているようで、今は無言でジュースを飲んでいる。

 俺も有名な歌しか知らない上、メロディーを覚えている曲はとても少ないので、これ以上は無理そうだ。

 そもそもカラオケを選んだのが間違いだったかもしれない。

 椿先輩はどうか知らないが、俺は流行りの曲に疎いし、橘香にいたってはそんな歌を聞いている余裕が無いくらい忙しい。

 橘香は、学校が終わればすぐに稽古に入り、そのまま夜遅くまで稽古を行い、早朝も毎日素振りを行なっている。休日も、朝から夕方にかけて稽古をしているみたいだし、今日のように数時間まとめて自由に時間を使えるのは珍しい。

 そんな貴重な時間を無為に過ごさせてしまったようで申し訳無くなってきた。

「……。」

 それからしばらく誰も喋らず、室内にはよく知らない歌手のPVが流れ続けている。

 まだ3時過ぎだが、そろそろ帰ろうか。

 そう思った時、曲の予約を知らせる電子音がリモコンから鳴り響いた。

 勿論俺ではないし、ソファーに寝っ転がっている椿先輩にも曲の予約は不可能だ。となると、曲を転送したのは橘香としか考えられなかった。

 視線を右へ向けると、橘香はマイクを両手で持って立ち上がっており、緊張の眼差しで液晶モニターを見つめている。

(歌うのか? 橘香が?)

 長い付き合いだが、橘香が歌っている場面には一度も遭遇したことがない。

 と言うか、こんな目立つことは極力避けてきたような女の子だ。今も勇気をふりしぼっているに違いない。

「お、橘香、やっとその気になったかー。」

 椿先輩はソファーに座り直すと、どこからともなくマラカスとタンバリンのセットを取り出す。そして、タンバリンをこちらに手渡してきた。

 これで一体に何をしろというのか。文句をいう暇もなくやがて曲が始まり、室内の大きなスピーカーから前奏曲が流れ始めた。

 既に橘香はマイクを口元に近づけており、生唾を飲み込む音まで聞こえている。

 それから間もなくして液晶モニターに歌詞が表示され、橘香が息を吸い込み、文字の色が赤く変化したところで……

 唐突に携帯電話の着信音が響いた。

「はぁ~……。」

 タイミング悪く鳴った音のせいで橘香が吸い込んだ息は声にはならず、吐息となって口の隙間から漏れていく。

 同時に緊張の糸も切れたみたいで、橘香はマイクを下げてソファーに尻餅をついた。

「あ、ごめんごめん。私だ。」

 どうやら椿先輩の携帯らしい。そもそも、俺も橘香も携帯電話は所持していないので、椿先輩意外にありえない。

「椿先輩、いい加減にしてくださいよ。」

「なんだよー、怒るなら掛けてきた奴に怒れよなー。」

 椿先輩は悪びれる様子もなく着信に応じ、通話し始める。

 着信音のせいで橘香は歌えなかったが、これで良かったのかもしれない。橘香は残念さと安堵が入り混じったような表情を浮かべていた。

 ボーカルのない落ち着いた曲調の音楽が流れる中、椿先輩は会話を続ける。

「こんな昼間から何なの? パパ……じゃなくてお父さん。」

 パパ、という言葉を咄嗟に訂正し、椿先輩は俺や橘香に背中を向ける。ほんのり耳が赤くなっているところを見ると、恥ずかしかったようだ。

 だが、そんな可愛らしい仕草を見られたのもほんの少しの間だけだった。

 通話中、椿先輩は急に素っ頓狂な声を上げ、ソファーの上で立ち上がったのだ。

「え? “眼”が奪われた!?」

「!!」

 その言葉が発せられるやいなや、橘香からも緊張感のある空気が発せられる。

 橘香の眼差しは椿先輩の持つ携帯電話に向けられており、その情報について少しでも知りたがっている様子だった。

(“眼”……って、なんだろうか。)

 全く状況が理解できないまま固まっていると、やがて椿先輩は携帯電話の通話終了ボタンを押し、手提げ鞄を肩にかけた。

 その動きに合わせ、橘香も高級感漂う通学カバンを両手で持つ。

 どうやら、二人共帰るつもりのようだ。

 橘香は椿先輩に目配せをした後、こちらに話しかけてきた。

「ごめん佑くん。ちょっと家庭の事情で……」

「椿先輩と一緒ということは、島瀬で何かあったみたいだな。……ここは俺が持つから早く帰れ。」

「ありがと。」

 稽古にしろ何にしろ、島瀬の家は秘密にしておかねばならいことが多い。ここで事情を聞くというのは野暮というものだ。

 橘香は部屋の出口で反転し深くお辞儀をしてから外に出ていった。

 その後に続いてドアを開けたのは椿先輩だ。

「わりーな佑くん。ごちそうさまー。」

 椿先輩はニヤニヤしつつ、軽く手を振っている。

 その態度が気に食わず、佑ははっきりと言い返した。

「先輩には後できっちり請求しますから。そのつもりで。」

 こう言った途端に椿先輩は真顔になり、手を振るのも止める。そして「可愛くないなー」という捨て台詞を吐いて退室した。

 佑は特に見送ることもなく、寂しくなった室内でため息をつく。

(奪われた、とか言っていたし、眼っていうのは島瀬家の家宝か何かかもしれないな。)

 あの島瀬家の家宝ともなれば、ちょっとしたものでもかなりの値が付きそうだ。

 それから暫くの間、佑はそのお宝がどんなものなのか、一人で空想していた。


 

(――随分遅くなってしまったな……)

 個人経営の小さなカラオケ店で3人分の代金を払ったのが15時過ぎ。その後、そのまま家に帰るのも億劫だったため、一人で映画館に入ったり、アーケード街から逸れて古本屋を巡っていたのだが、時間も考えずにいたせいか、すっかり日も落ちてしまった。

 今は人気のない河川敷を一人でのんびり歩いている。河川敷の公園には桜の木が沢山植えられていたが、もうほとんどが葉桜だ。

 真っピンクの景色もいい物だが、こういう、緑と桜色のコントラストも悪くない。

 それに、今は夕日に照らされてピンクというより紅く見える。……それはまるで、桜の枝に赤い花が咲いているようだった。

 橘香はこの景色を見てどんな反応をしてくれるだろうか。

(そう言えば、二人で外出したこともあまりないな……。)

 橘香とは仲がいいし、二人でいる時間も長い。……が、それだけの話だ。それ以上の関係を望もうとしても、島瀬という名前がいつも邪魔をする。島瀬という制約が橘香を、そして俺を縛り付けている。

 今日だって、全く事情を話してくれなかった。

(秘密にしておくことに、何の価値があるんだ……)

 家の伝統というのは、そんなに大層なものなのだろうか。

 ……絶対的な距離を感じる。

 橘香との間に決して越えることのできない厚い壁を感じる。

 それは、今は失踪している將一兄さんについても同じだった。

 あの人は、この壁をどう思っていたのだろうか。外から見るだけでも息が詰まりそうになるくらいの厚い壁だ。内側にいた將一兄さんにとっては、檻のように感じられたのかもしれない。

 あの人がいなくなったのには複雑な事情があると思っていたが、案外、単純なのかもしれない。

「將一兄さん、どこで何してるんだ……。」

 河川敷で散りゆく桜を眺めつつ、佑は呟く。

 誰にも聞かれていないと思って呟いたのだが、背後からその言葉に反応する声が聞こえてきた。

「……そんなに僕のことが気になるのかい、佑くん。」

 それはとても懐かしい声だった。また、とても優しさのこもった声でもあった。

(將一兄さんの声……まさか、幻聴が聞こえるなんて……)

 いよいよ精神が参っているらしい。近いうちに心療内科にでも行っておこう。

 そんな事を思いつつ、佑は一応背後に振り向く。

 すると、またしても優しい声が聞こえてきた。

「2年ぶりだね。元気にしていたかい?」

 背後には人間が存在していた。幻聴じゃない、幻覚でもない。間違いなく人が立っている。

 伸ばし放題でボサボサの髪、長い前髪の合間から覗いている弓なりの目、全てを許しているかのような包容力のある笑顔。その姿は間違いなく將一兄さんのものだった。

「ま、將一兄さん……。」

 急な再開に、佑はうまく喋れない。

 將一兄さんはそれすらも察してくれているようで、何度も頷く。

「そりゃあ驚くよね、2年間音沙汰なしだった人間が何の予兆もなく現れたら、誰だってそうなるよ。」

「今までどこに……いたんですか?」

 辛うじて質問すると、將一兄さんは丁寧に答えてくれた。

「実を言うとね、ずっと景吾市内にいたんだよ。佑くんとも何度かすれ違ったよ。」

「本当ですか!?」

 衝撃の事実に、佑は大きな声を上げてしまう。

「気付けなくても仕方ないよ。なぜなら……」

 理由を述べようとした將一兄さんは、何故か途中で言い淀む。

 説明は必要ないと咄嗟に判断したらしい。將一兄さんはあからさまに話題を変更してきた。

「……そうだ佑くん、これを預かっていてくれないかい。」

 そう言って懐から取り出したのは、手のひらサイズの小さな球体だった。その赤みがかった半透明の球体は、何かの卵のようにも見えた。

 だが、見ているうちに卵ではなく、人体の一部だということに気付く。

「これは……眼か?」

 自分で言った瞬間、佑は昼間のカラオケボックス内での椿先輩の言葉を思い出す。

 あの時先輩は、眼が奪われたとか言っていた。

 安直過ぎる考えだが、これはもしかしてもしかするかもしれない。失踪していたとはいえ、將一兄さんは島瀬の人間だし、家宝を奪うのもそんなに難しいことではないはずだ。

 將一兄さんの手のひらに乗っている眼球を眺めていると、何を思ったか、將一兄さんはその眼球をこちらに差し出してきた。

 こんなものを預けて、一体どうするつもりなのだろうか。

「これは大事なものなんだ。だけど、持っていると色々面倒なんだよ。」

「面倒? 一体何の話を……」

 まるで水晶か宝石のようにキラキラと光る眼を見つめていると、不意に將一兄さんがその眼をこちらの胸元に押し当てた。

 押し付けられた眼を返すべく、佑は胸元に手をやる。だが、そこにあるはずの眼は存在していなかった。

(あれ? たしかに今……)

 不可解な現象に困惑していると、急に胸元に不可解な圧迫感を感じた。

「うッ!?」

 その圧迫感は次第に強くなり、痛みへと変化していく。

「ごめんね佑くん。時間がなかったんだ。悪いけど、預っていてもらうよ。」

 もしかして、体内に埋め込まれてしまったのだろうか。どんな方法を使ったのか分からないが、今はそんな事を考えている精神的余裕がなかった。

 佑は胸の痛みに耐えられず、とうとうその場に膝をついてしまう。

 まるで工具か何かで胸元辺りの内臓を抉られているかのような激痛だ。次第に視界がぼやけ始め、嫌な汗がダラダラと出てきた。

 將一兄さんはそんな俺の肩に手をのせ、優しく囁く。

「少し痛むだろうけれど、人体に害は無いから安心してね。……むしろ、プラスに働くと思うよ。」

 言っていることが理解できない。

 理解できないが、佑は首を縦に振った。

 その反応を見て、將一は満足気に頷く。

「良かった。任せたよ。」

 それだけ言うと、將一兄さんは俺から離れ、どこかへ去っていく。

 佑は痛む胸を押さえながら周囲を見渡してみたが、既に將一の姿はどこにも見当たらなかった。

(あ、やばい……もう……)

 結局、どの方向を見ても將一を発見できず、佑は数秒もしないうちに本日二回目の気絶を経験することとなった。


05


 ふと目を覚ますと、天井が見えた。

 今回は保健室とは違い、天井には木製の梁が見え、古めかしい感じがする。

 周囲はとても静かで、かなり暗い。しかし、部屋の隅に設置された控えめの電灯が室内をほのかに浮かび上がらせていた。

(ここは……どこだろうか。)

 もっと周囲を観察して場所を見極めたいが、あいにく頭が働かない。

 ぼんやりした頭で天井の木目模様を何となく見ていると、胸元がチクリと痛んだ。その傷みのおかげか、やがて最後の記憶が蘇ってきた。

(將一兄さん……)

 俺はあの時、將一兄さんに眼球のようなものを胸元に押し付けられ、気を失った。

 再会の余韻に浸っていたかったが、あんなことをされてしまっては素直に喜べそうにない。

 一体何のために將一兄さんは俺に眼球を押し付けたのか。そもそも、どんな原理であの眼球が俺の胸中に入り込んだのか。

 ……考えるだけ無駄だろう。

 とにかく、今は現状を把握するのが先だ。

 今河川敷にいないということは、誰かによって移動させられたということになる。布団に寝かされていることを踏まえると、介抱されたみたいだ。

 どうやらここは和室らしく、畳独特の香りを強く感じる。寝たままの状態で周囲をぐるりと見ると壁に掛けられた制服を見つけた。

 暗い中で浮かび上がっているその制服は景吾西高校のもので、女子の制服だった。

「女子高生の部屋か……?」

 室内は女の子の部屋にしては殺風景で、飾っているものは何もない。整理された学習机と本棚があるくらいで、目立つものは何もない。

 こうなると、ここが本当に女子高生の部屋か怪しく思えてくる。

 布団に横になったまま色々観察していると、やがて足音が聞こえてきた。その後すぐにふすまが開き、暗い室内に光が飛び込んでくる。

「……。」

 佑は咄嗟に目を閉じ、眠っているフリをする。

 足音の主は室内に入ると枕元に腰を下ろし、こちらの額に手のひらを置いた。

 その手はひんやりとしていて気持ちがよく、手のひらの面積や指の細さが女性であることを証明していた。

 また、この感触には覚えがあった。

 危険はないと判断した佑は、目を開き、枕元にいる女性の姿を視界に捉える。

 そこにはよく知った顔があった。

「……橘香か。」

「大丈夫? 佑くん。」

 枕元で正座し、微笑んでいたのは橘香だった。

 佑は橘香の顔を見るやいなや、彼女の兄についての情報を伝える。

「橘香……」

「何?」

「ついさっき、將一兄さんと会った……。」

 この事を口にすれば、橘香は驚くかと思ったのだが、橘香は特に大きな反応を見せることなく、逆に納得したふうに呟く。

「やっぱり……。そうじゃないと、こんなことになった説明がつかないもんね……。」

「どういうことだ?」

「それは……」

 橘香は口を開いたまま言い淀む。またしても島瀬の秘密ということらしい。

 ここまで不可解な事が起きているのに、情報を全く得られない今の状況はかなりのストレスだ。

 無理矢理にでも聞き出そうかと思っていると、和室内に新たに人が入ってきた。

「おー佑、やっと起きたかー。どんだけ気絶が好きなんだよー。」

 あっけらかんとした態度で話しかけてきたのは椿先輩だ。

 椿先輩は近寄ってきたかと思うといきなり俺の腕を掴み、勢い良く引っ張った。俺はその力に抗うこともできず、一気に腕を吊り上げられる。

 椿先輩は俺を起こしたかったようだが、如何せん力が足りない。先輩はそのままバランスを崩し、俺の上に乗っかるような形でこけてしまった。

 その際、ちょうど腰のあたりの硬い骨がこちらの胸骨に命中し、一瞬呼吸ができなくなってしまう。

 盛大に転んだ椿先輩は「あれ?」や「おかしいな……」などと呟くだけで、いつまで経っても俺の上から離れようとしない。

 それを見かねたのか、橘香は足首を掴んで引っ張り、強制的に椿先輩をどけてくれた。

「椿ちゃん、いい加減にしてよ……。」

「ごめんごめん、佑を起こしてあげようと思ってさ。」

「起こすのなら、もっと慎重に起こしてよね……」

 乱暴とも見て取れる椿先輩の行動に、橘香はご立腹のご様子だ。椿先輩の足首から手を離そうとしない。

 しかし、椿先輩は気にすることなく俺にあることを伝達し始める。

「あー佑、当主様が色々話したいらしいから、一階に降りて来いってさ。」

「当主様が!?」

 橘香はその話を聞いて、椿先輩の足首から手を放した。

「隙ありー!!」

 足が自由になった先輩は即座にその場で立ち上がり、仕返しと言わんばかりに橘香の向こう脛をチョップする。

 軽いチョップのように見えたが、橘香にはとても痛かったらしい。その場にうずくまって小刻みに震えだした。

「あはは、油断したな橘香ー。」

 椿先輩は橘香の周りをグルグル回りながら笑い声を上げている。年下の橘香に足を掴まれたのがかなり気に食わなかったようだ。

 だが、橘香もそれだけでは終わらない。震えが止まったかと思うと、体ごとタックルして椿先輩を畳の上に押し倒した。

「こんな時に何するの、椿ちゃん!!」

「なんだよ橘香ー、最初に足引っ張ったのはお前だぞ。」

 そのまま二人は取っ組み合いの喧嘩を始めた。なかなか微笑ましい光景である。

 ……それにしても気になるのは当主様とかいう人物だ。

 橘香の反応からすれば、俺のような部外者と話すのは珍しいことなのかもしれない。

 とにかく、俺も將一兄さんの事は知りたいし、向こうが話したいと言っている以上、断ることもないだろう。

「わかった。話せばいいんだな。」

 佑はそれだけ言って立ち上がり、じゃれあっている二人を放置して室外へ出た。



(やっぱり、広いな……)

 橘香の部屋を出て数分、佑は島瀬の屋敷の中を彷徨っていた。

 この5年間で何度も島瀬の屋敷を訪れたが、こうやって靴を脱いで中に入ったのは初めてだ。

 今までは庭園の裏口から入り、縁側や、庭園内にある小さな小屋で遊んでいた。

 それが島瀬の最大限の譲歩だと小さい頃から分かっていたし、無理に部屋に上がろうとも思わなかった。

 それでも、常日頃から橘香の部屋に上がってみたいとは思っていたので、図らずも願いは成就してしまったみたいだ。

 ……しかし、橘香の部屋があんな殺風景な部屋だとは思わなかった。

 お嬢様なのだし、大きなぬいぐるみの1つや2つくらいあって当然だと思っていたので、結構ショックだ。

 俺も人のことを言えた義理ではないが、女の子の部屋なのだからもっとファンシーであって欲しいものだ。

(それは、わがままというものか……)

 高校生になったことだし、進学祝いに何かインテリア的な物をプレゼントしてやろう。 そんな事はともかく、今は当主様とやらに会うのが先だ。

(しまった、どちらかに案内役を頼むんだったな……)

 現在歩いている廊下に窓はなく、ほとんど真っ暗だ。足元も見えない。

 そんな暗い通路を歩きながら当主様とやらを探していると、遠くに小さな灯りを見つけた。

 それは室内から漏れる灯りであり、ふすまの隙間から伸びる光は廊下に一筋の光の線を描いていた。

(あそこか……)

 僅かな灯りを頼りに、佑は廊下を進んでいく。

 足音すら聞こえない静寂の中で、自分が進んでいるのか、部屋がこちらに近付いてきているのかすら分からなくなってきた。それでも、部屋に近づいているという事実は変わらない。

 やがて佑はその部屋に到着し、ふすまをゆっくりを開ける。

 ……ふすまの向こうにはこぢんまりとした茶室があった。

 茶室は異様な雰囲気を漂わせており、まるで現実とは思えない空気を放っている。

 そんな茶室の中央には黒装束に身を包んだ女性が座っていた。

 佑にはそれが実体なのか、幻なのか、全く判断できない。

「……。」

 あまりの異常さに、佑はこの場から逃げたい衝動に駆られてしまう。

 しかし、耳に届いてきた言葉が、その衝動をすぐに収めてくれた。

「佐玖堂佑。そこへお座りなさい。……お菓子でも食べながら、お話しましょう。」

「あ、はい……。」

 その言葉が発せられた途端、不安や恐怖の感情が嘘のように引いていく。

 凛とした声の持ち主は、茶室の中央にいる黒装束に身を包んでいる女性だった。

 佑は、その声を聞き、女性がかなりの美貌の持ち主だと瞬時に判断した。……そんな判断を証明するかのように、黒装束の女性は顔が見えるように装束のフード部分を捲ってみせる。

 そこから現れたのはカールの掛かった金髪と、碧と翠の瞳を持つ若い女性の顔だった。

 金髪は金と言うよりも山吹色という感じで、その色は自然的な、言うなれば稲穂のような色をしていた。

 こんな魅力的な人にお菓子に誘われたのは光栄なことだが、あいにく今はそんな事をしている暇はない。なるべく早く当主様に会う必要がある。

「あの、すみませんが、当主様というのはどちらに……」

 佑が当主様の場所を聞こうかと思った瞬間、女性から信じられない言葉が発せられた。

「今更何を言っているのですか。私が島瀬の当主、クロデリアです。」

「……え?」

 当主、と聞いて歳を食った老年男性をイメージしていたため、佑は素直にその言葉を受け入れられなかった。そもそも、島瀬家の当主が外人の女性というのはおかしすぎる。何かの冗談だろう。

「随分とお若い当主様だな。」

 疑念を込めて返答したが、それでもクロデリアと名乗った女性は臆する様子もなく喋り続ける。

「若く見えて当然です。若作りには余念がありませんからね。あと、この程度で驚いていたら、後が持ちませんよ。」

 そう言うと、クロデリアはいきなり立ち上がり、こちらの後頭部に手を回す。

 茶室内が狭いこともあってか、佑はその手を回避することができなかった。

 続けてクロデリアはもう片方の手をこちらの胸元に押し当てる。

「……。」

 何のつもりかわからないが、別に不快感はない。

 無言、無抵抗のままクロデリアの行動を受け入れていると、クロデリアはため息混じりに独り言を呟いた。

「やはり、島瀬將一から魔女の眼を埋め込まれていましたか。厄介ですね。」

「魔女の眼? 何の話だ……?」

 こちらが言葉を発すると、クロデリアは胸元から手を引き、座布団の上に座り直す。そして、その手で口元を覆って思案の表情を浮かべた。

 佑もそれに合わせ、予め用意されていた座布団の上に腰を下ろす。

 向い合って座ったところで、クロデリアは魔女の眼とやらに関して説明を始めた。

「魔女の眼はとても特殊な方法で造られた一種のアイテムです。島瀬家は長年、この眼を魔の物から守り続けてきました。」

「……。」

 既に言っている意味がわからない。

 あんな小さな玉を一族総出で守るという話もにわかに信じ難い。

 不可解な表情を浮かべていると、クロデリアは口頭での説明が難しいと判断したようで、説明をあっさりと中断した。

「百聞は一見にしかずと言います。島瀬の系譜がどのような一族なのか、実際に見たほうが早いでしょう。……橘香、入ってきなさい。」

「はい。」

 クロデリアの呼びかけに応じ、茶室内に入ってきたのは橘香だった。

 椿先輩とそこそこ長い時間じゃれ合っていたようで、制服は若干乱れ、ポニーテールの位置も少しずれている。

 また、いつになく真剣な表情を浮かべていた。

「いたのか、橘香。」

「……。」

 ふすまの前に立つ橘香に話しかけるも、橘香は全く反応を示さず、まっすぐ前を見つめている。

 クロデリアはそんな橘香に指示を出す。

「貴女の『クロクラフト』を披露なさい。室内にあるものならなんでも構いません。」

「はい。」

 橘香は短く返事をして、茶室内に入ってくる。

(クロ……? 一体何を披露するつもりだ……。)

 これから何が起こるのか、想像していると、橘香は茶室内を無言で横切り、床の間に飾られている日本刀に手を伸ばした。

 橘香は白を基調とした飾りが付いている鞘を抜き去り、日本刀の刃を露にさせる。

 その刀身は室内の僅かな灯りを反射し、綺麗な刃紋を浮かび上がらせていた。

 息を呑んて見守っていると、橘香はその日本刀の刃を茶室のテーブルの上にあてがった。

 すると、瞬時に表面に切れ目が入り、木製のテーブルはあっという間に両断されてしまった。

「なっ……!?」

 橘香が刀に力を入れた様子はない。ただ刃をテーブルの上に置いただけだ。

 目の前で起きている現象が理解できず、佑の思考はフリーズしかけていた。

「橘香、もっと分かりやすいように果物を使うと良いでしょう。丁度りんごが食べたかったところです。」

 クロデリアは全く動じていない様子で、黒装束の懐から赤々としたりんごを取り出し、橘香に手渡す。

「はい。」

 橘香は日本刀を右手に持ち、左手でそのりんごを受け取る。

 ……と、次の瞬間、りんごは綺麗に八等分され、皮も綺麗に削げ落ちた。

 クロデリアは、橘香の手のひらの上で変貌を遂げたりんごを取り、口の中に放り込む。

「んん、良いお手並みです。随分と上達しましたね。」

「ありがとうございます。」

 佑は、この二人のやり取りを眺めていることしかできなかった。

 テーブルにしろりんごにしろ、勝手に切れるわけがない。……となれば、橘香かクロデリアが“何か”をしたと考えるのが妥当だ。

 そして、その“何か”こそがクロクラフトと呼ばれるもののようだ。

 クロデリアはふた切れ目のりんごに手を伸ばしながら、若干自慢げに言う。

「どうです? これが島瀬に伝わる“クロクラフト”の技術です。」

「技術って、そんなレベルを越えているだろう。もしこれが仕掛けも何もない現象だとしたら、超能力じゃないか。」

「おや、意外と冷静に物を考えるのですね。もっと驚くかと思っていました。」

「驚いていないように見えるか?」

「驚いていたんですか。これは失礼しました。」

 一々面倒くさい話し方をする人だ。

 クロデリアと話していると、不意に横から何かが差し出された。

「佑くんもどうぞ。」

「悪いな、橘香。」

 それは橘香がクロクラフトとか言う超能力で切ったりんごだった。りんごの断面は実に綺麗で、果肉から溢れだした果汁が水滴になって、その断面の表面を滑り落ちている。

 佑は橘香からりんごを受け取り、一口齧る。

 ……りんごの味がする。

 それ以上でも以下でもない。ただ、クロデリアの懐から出たりんごのわりには、結構冷えていて甘味もあった。

 クロデリアはりんごを食べながら話を再開させる。

「島瀬の人間はこのクロクラフトを武器にして、外敵から魔女の眼を守っています。これはとても重要な使命です。」

 クロデリアは当たり前のように説明を続けたが、こちらにはまだわからない事が沢山ある。

 外敵とは何なのか、そもそも魔女の眼にはどれほどの価値があるのか、そして、その貴重な魔女の眼がなぜ俺の体の中に埋めこまれているのか。

 情報を整理するためにも、佑はクロデリアに根本的な質問をする。

「ちょっと待ってくれないか。そもそも、クロクラフトってどういう原理で発せられている力なんだ? 超能力なのか、それとも何か特殊な機械を使っているのか?」

 超能力と言われてしまえば納得できるわけでもないが、今はこの不可解な状況を少しでも明確にしておきたい。

 しかし、クロデリアはこちらの質問を無視して話を前に進める。

「クロフトの原理など、知る必要はありません。それを用いて、敵と戦っているという事実を理解することが重要なのです。力は手段であり、目的ではありません。貴方は目的だけを理解していればいいのです。」

「目的……。」

 確かに、クロクラフトのことを事細かに説明されても、この場ですぐに理解できる気がしない。

 クロデリアの言うとおり、今は大局を把握することに努めよう。

「その敵っていうのは脅威的なのか?」

「そうですね。今回ももう少しで魔女の眼を奪われてしまう所でした。」

 どうやら、將一兄さんが危機一髪のところで取り返したみたいだ。みんなと会いたくないから、俺に無理矢理魔女の眼を持たせたに違いない。

「どういう事情があったかは分かりませんが、現在魔女の眼が貴方の体内にあるのは事実なのです。これからしばらくは否が応でも島瀬に協力してもらいます。」

 クロデリアの強制的な命令に、佑は反抗する。

「いや、急にそんな事を言われても、理解不能な事が多すぎる。……今の段階では返事できない。」

 クロクラフトという超能力、魔女の眼とかいう貴重なアイテム、そして、その魔女の眼を狙っている敵対勢力……。

 どれもこれも現実離れしすぎていて容易に想像できない。

 悩んでいる間も、クロデリアは答えを迫る。

「“はい”か“いいえ”の二択です。それ以外の答えは認められません。」

 クロデリアはこちらに近寄ってきて、真正面から俺の眼を見る。

 クロデリアに迫られ、余裕の無くなった佑はふと橘香を見る。

 橘香は俺を見つめながら、おもむろに頷いた。それは、私に任せて全てを受け入れろと言わんばかりの心強いジェスチャーだった。

「……わかった。協力すればいいんだな。」

「よかった、もし断っていたら貴方を殺し、無理矢理にでも魔女の眼を取り出していたところです。」

 こちらの回答に満足したのか、クロデリアは恐ろしいことをサラッと言いつつも元いた座布団の上に座る。

 そして、山吹色の長髪を隠すように黒装束のフードをかぶり直した。

「詳しい説明は後で橘香と椿が行います。では……」

 かぶると同時にクロデリアの存在感が薄くなり、次の瞬間にはその場から消えていた。

 これも、クロクラフトという超能力を使った現象なのだろうか。

 これが幻であってくれたらと思うばかりだ。

 クロデリアが消えると、橘香はいつもの様に普通の口調で話しかけてきた。

「良かった、もう、ドキドキさせないでよ……。当主様の命令は絶対なの。次からは断らないようにね。」

「そうさせてもらう。」

 俺だって命は惜しい。こんな得体のしれない目玉のせいで死ぬのは御免だ。

 橘香は手に持っていた日本刀を床の間に返すと、手のひらに残っていたりんごをこっちに押し付けてきた。

 佑はそのりんごを受け取り、口の中に放り込む。

「そう言えば、とうとう見られちゃったね、私のクロフト。」

「クロフト?」

「ああ、クロクラフトの略称のこと、短くしてクロフト、ね。島瀬の人間はみんなそう呼んでる。」

 橘香は説明しながら茶室を出て、来た道を戻っていく。

 また迷子になると厄介だったので、佑はその後を追いかける。

「みんなってことは、島瀬の人間は普通にこの超能力……クロフトを使えるのか。」

「ううん、使えるのは限られた人間だけ。クロフトは唯でさえ理解するのに直感と才能がいるのに、その上長い時間稽古しなくちゃ習得できないから。しかも、能力が違えば稽古のやり方も変わってくるし、結構、試行錯誤的なの。今島瀬でクロフトを扱えるのは20人くらいだと思う。」

「なるほど、毎日の稽古はクロフトを習得するための稽古だったわけか。」

「そういうこと。」

 こう聞いてみると、クロフトと言うのは超能力と言うよりも、卓越したスキルという印象を受ける。超常的な現象には変わりないが、反復訓練などを何千、何万時間も繰り返し行なっているとすれば、それは技といっても過言ではない。

 まだ得体のしれない能力ではあるが、それを使える橘香は凄い。尊敬に値する。流石は將一兄さんの妹だ。

(待てよ、と言うことは將一兄さんもクロフトを使えるんじゃ……?)

 ふと思い浮かんだ考えを口にしようとすると、いつの間にか橘香の部屋の前に到着していた。

 部屋の入口からは、畳の上に寝転がっている椿先輩の姿を確認できた。

 橘香と同様にして椿先輩も服装が乱れており、それはじゃれあいの激しさを物語っていた。

 椿先輩は俺が室内に入っても特に姿勢を正すこともなく、まったりとした口調で橘香に問いかける。

「……で、どうだった?」

「ん、うまくいった。これで佑くんも私達と同じ立場になったかな。」

 橘香は入り口のすぐ近くにある箪笥に背中を預けて座る。

 それを見て佑も畳の上にあぐらをかいて座った。

「“私達”ってことは、椿先輩も……」

「勿論、私もクロフト使えるよー。って言うか、今朝、佑をふっ飛ばしたのもクロフト能力のせいだぞ。」

「そういうわけだったのか。……しかし、物を切ったり吹き飛ばしたり、クロフトというのは便利な能力なんだな。」

 能力について新たな知識を得られた、と思ったが、すぐに椿先輩はそのセリフを否定する。

「あー、違う違う。衝撃のクロフトは私のクロフトで、切断のクロフトは橘香のクロフト。」

「……?」

 説明力の乏しさに理解できないでいると、橘香が助け舟を出した。

「えーと、クロフト能力は基本的に一人につき一つなの。椿ちゃんのは『衝撃のクロクラフト』。で、私のが『切断のクロクラフト』というわけ。……二つ習得できなくはないんだけれど、そこまで余裕が無いというか、二つ覚えるくらいなら、一つの能力を完璧に磨いたほうが良いって教えられてるの。」

「クロフトにも人によって様々な種類があるということか……。」

 何やら興味深くなってきた。中途半端な与太話は嫌いだが、こういうぶっ飛んだ話は嫌いではない。

 現に、その能力を目の前で拝んでいるのだ。しかも、その能力を使っているのは今まで身近にいた親しい人間なのだ。

 そう思うと、俄然クロフトについて知りたくなってきた。

「なあ橘香、もう一度クロフトを見せてくれないか。」

「ん、わかった。」

 こちらがお願いすると、橘香は当たり前のように快諾し、その指先を背後にある箪笥にあてがう。

「切るからね。」

 そう告げると、橘香は箪笥の表面をくるりと指でなぞる。すると、指の軌跡に切れ込みが入り、そのままぽっかり穴があいた。

 箪笥の表面の木材は円状に繰り抜かれ、畳の上に落下する。と、同時に、箪笥の中から淡い色の下着が飛び出てきた。

 しかもそれは普通の下着ではない。

 サイド部分が紐状になっている下着……履くのではなく、横ひもで固定するタイプの下着……俗に言いう紐パンであった。

「あっ……。」

 橘香は、顔を赤くしながらその紐パンを中に押しこみ、先ほど落ちた円状の木材でふたをする。そして、取り繕うように説明し始めた。

「か、簡単に言うと、私は物を切断する力を持ってるわけ。分かりやすいでしょ?」

 説明の必要がないくらい分かりやすい。

 橘香の能力と下着の披露が終わると、今度は椿が意気揚々と言葉を発する。

「さっきも言ったけど、私のクロフトは衝撃力を強化するんだ。軽くパンチしただけで鉄も折れるんだぞ。……ま、反作用のせいでそこまで強い力を出せないんだけどな。」

「そういうことだったのか……。」

 今朝の駅前ではこういう理屈でふっ飛ばされたみたいだ。

 あの時は、自分が投げ飛ばされたことが腑に落ちなかったが、クロフト能力を使われたのだと説明されると納得できる。

 椿先輩は寝転んだ状態で大きなあくびをし、こちらに呆れ顔を向ける。

「それにしても、案外素直に信じるんだな。普通は簡単に信じないぞ。」

「実際に見せられて、信じないわけにもいかないだろう。」

 佑は簡潔に答え、橘香を見る。椿先輩からあくびが伝播したのか、橘香も口元を押さえながら口を大きく開けていた。

 目も閉じかかっているし、眠そうだ。

「……今日はもう遅いし、そろそろ帰らせてもらう。」

 まだ聞きたいことはあるが、そんなことよりも橘香の睡眠時間のうほうが重要だ。きちんとした睡眠を取らないとホルモンバランスが崩れ、成長に支障をきたす。

 橘香はそんなことを微塵にも考えていないようで、俺を引き留める。

「まって佑くん、まだ説明が……」

「続きは明日、学校で聞かせてもらう。」

「そーだな。今日はもう遅いし、また明日にしよーぜ。」

 椿先輩はさっと立ち上がり、首を前後左右に動かしてストレッチをする。先輩も説明するのは面倒くさいようだ。

 俺と椿先輩の意見を受け、橘香はしぶしぶ首を縦に振った。

「わかった。それじゃ明日、学校でね。」

「ああ。学校で。」

 橘香の了解を得たところで、佑は一人で室外へ出る。

 そのまま玄関に向かうべく暗い廊下を歩いていたが、その途中で佑は立ち止まり、小さくため息をつく。

(クロクラフト、か。)

 通常では考えられない、異端の力……

 そして、魔女の眼とか言う不思議な物体……

 非日常的な物を見せられて、佑は不安を覚えていた。……が、同時にこの状況を少しだけ楽しんでいた。


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