発覚
春の朝。窓から暖かい日差しが降りそそぐ。
花は朝食を作り終えると、二階で眠っている弟を起こしに向かった。
「春樹ー」
部屋のドアを開けた。ベッドの上にはもっこりと膨らんだ物体がひとつ―――布団を頭までかぶった春樹が居た。
布団をはぎ取ると、春樹は眠そうに唸って、
「…返せよ…」
と少し掠れた声で言う。
彼はそれと同時に、布団を取り返そうと手を伸ばしてくるが、花はその手が届かないように、布団を高く持ち上げた。
「……」
「……」
しばしの沈黙。
「…はぁー…」
ため息をつきながら、春樹が体を起こした。花の勝ちである。
幼い頃に両親を失ってから、もう長いこと二人きりなのだ。花は弟の扱い方をすっかり身につけていた。
「弟の安眠を妨害する姉ちゃんなんてどこに居るんだよ…」
皮肉たっぷりに春樹が言う。
「弟って、あはは」
花は、おかしくて笑った。
「双子でしょ。たいして違わないよ。ま、そうでなくても甘やかしたりしないけどー」
そう、双子。両親を失ったときも、二人だったから乗り越えられたのだ。血を分け悲しみも分け合った、たったひとりの肉親。なにより大切な存在。
「でもやっぱり、お前が姉ちゃんだろ、一応」
「姉ちゃん、なんて呼ばないくせに」
花は口を尖らせて言った。
二人で過ごす、二人きりの、いつもの朝。それはとても温かくて、幸せな時間。
花は、手にしていた布団をたたみながら、部屋を出ようとしている春樹に目をやった。自分より大きくて広い背中。弟のくせにと思いながらも、それは仕方のないことだとちゃんと分かっていた。春樹は男で、花は女だ。高校一年となった今では、身長も何もかも春樹のほうが大きい。
パタン、と部屋のドアが閉まった。それと同時に春樹の姿も扉の向こうへ消える。
部屋には、花ひとりだけ。たたんだ布団をベッドの上に置き、窓を開けた。ふわり、春の匂いが部屋に入りこんで、花の髪を撫でる。
窓から見える桜の花びらは、綺麗な桃色に色づいていた。
◆ ◇ ◆
「ねむ…」
春樹が呟いた。それと同時に大きなあくびもひとつ。花と春樹は、二人並んで歩いていた。
春の陽気は、確かに眠気を誘う。ぽかぽかと暖かい日差し、鳥のさえずり…。朝に強い花でも、本当はもっと布団にくるまっていたい季節だ。
「にゃ~ん」
突然、変な声が花の耳に届いた。その言葉は、弟の声色を含んでいる。ぎょっとして隣を見やれば、春樹が花に背を向けて立ち止まっていた。春樹が見ているのは隣のブロック塀。その目が何を見つめているのか、弟の大きな体が邪魔をして花にはまったく見えない。花は、首だけひょいと春樹の陰からのぞかせた。
春樹の視線の先―――塀の上には猫がいた。三毛猫で、まだ小さい。子猫のようだ。
「にゃ~ん」
再び春樹が子猫に呼びかける。
「何やってんの?」
何をしているかなんて訊かなくてもわかるが、あまりに衝撃的だったので訊ねてみた。
「何って、猫だよ、猫!」
振り向いた春樹の顔はとても無邪気で、眠気もすっかり吹き飛んでいるようだ。
「おー、そーだそーだ…」
思いついたようにカバンの中を探りだす春樹に、学校遅れるよと声をかけてみたが、大丈夫大丈夫と軽くあしらわれてしまった。何が大丈夫なのか…。
やがて春樹がカバンから取り出したのは、魚肉ソーセージ。一体なぜそんな物がカバンに入っていたのか?恐ろしくて訊けなかった。
「ほーら、美味いぞ~」
春樹は、ちぎったソーセージを子猫に差し出す。花はいくらなんでも逃げるだろうと思ったが、そんな花の予想に反して子猫はソーセージを食べた。
「うおー!食った、食った!」
調子に乗った春樹は、またソーセージを差し出す。何度も何度も繰り返し食べさせては子供のように喜んだ。
◆ ◇ ◆
「それで、遅れたと……」
見るからに恐ろしくて厳つい教師が、二人の正面に腕を組んで立っている。
「………」
教師のメガネに光が反射してその目の表情は読み取れないが、この圧迫感からしてかなりご立腹のようだ。
花と春樹の額には冷や汗がにじんでいた。はやくこの場から逃げ出したい。耐えられない、この無言。
「…お前らはバカか…?」
教師が口を開いた。抑揚のない低い声が響く。
「ガキよろしく子猫とたわむれて遅刻…子猫と遊んでいたのは、どっちだ?」
「…俺、あ、いや…ぼ、僕です…」
春樹が右手をそろりと挙げた。その瞬間、教師のメガネが鈍く光った。
◆ ◇ ◆
「めんどくせー」
結局説教のあとに雑用が言い渡された。授業で使う資料を持ってこいというものだ。
「仕方ないでしょ。自業自得」
「ちぇ」
資料室の扉を開け、電気をつけた。薄暗かった室内が一瞬で明るくなる。
「えーと、資料資料っと……あ、これかなー」
目的の資料はすぐに見つかった。花は段ボールに貼られたラベルを確認し、無造作に積まれた段ボールの山からそれだけを引き抜いた、その時。
ぐらり、
一瞬ぐらついたと思った途端、一気に崩れ落ちる。
それはスローモーションのようで、とても短い一瞬。
「―――花ッ!」
春樹の切羽詰まった声が聞こえた。目の前に広がるのは段ボールから飛び出たたくさんの道具や紙、資料。
思わず手にしていた段ボールを落とし、目をつむった。床に倒れこむ。
すぐに凄まじい物音が響く。けれど不思議なことに、体はどこも痛くない。…そのかわり。
そのかわり、花の唇には不思議な感触があった。なんだろう、これは。
おそるおそる目を開けると、自分とどこか似た顔が物凄い至近距離にある。
「……っん…ッ」
声が出ない。なにしろ花の口は双子の弟の唇でしっかり塞がれているのだ。
今、弟と唇を合わせている。キスを、しているのだ。
それを理解すると、どういうわけか頬が熱くなった。嫌なはずなのに、すぐにでも退いて欲しいのに、身体には甘い痺れが走る。
どこか、おかしい。
「ン、…ん…ッ!」
逃げ出したくて、身をよじる。身体が熱い。
すると春樹がやっとどけてくれた。
「う…わ、ぇと、ご、めん」
起き上がって花の顔を見るなり謝る春樹。
「…はぁ、は…っ」
花はどういうわけか息切れを起こしていた。弟の顔が直視できず、顔をそむける。
ぐちゃぐちゃになった資料室。
それはどこか、花の心のようで。
少し埃っぽい空気が、二人を包みこんでいた。
このとき芽生えていた感情に、気付くべきではなかった。
…気付いてはいけなかった。