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喫茶 阿  作者: あき
表の阿
9/12

九品目 エスプレッソ

閑静な住宅街を過ぎると、道は途端に海に向かって緩やかな傾斜を描きはじめる。

灯台の立つ岬に向かう小高い一本道の途中に、木々に埋もれるようにその店はある。

道端に置かれた手作りのウッドチェアに、小さな黒板が看板がわりに立てかけてあった。

所々かすれてはいるが、その文字はこう読めた。


『喫茶 阿』


これは、喫茶店「阿」に集う、そんな『誰か』の物語。


小洒落たアンティークの扉を開くと、すぐに目に入る所に一本の樹から作られたポールスタンドが立っている。

そこにかけられたシルクハットに視線を投げて、マスターはゆっくりと豆を挽く。

ふんわりと流れる香りを追いかけるように、ゆっくりとゆっくりとハンドルが回されると、店中がほんのりと空気の色を変えて、エスプレッソから立ち上る湯気に溶けた。




「さて」

「さて、じゃないよ。本当に」

「おやおや」

「全く。貴方と話してると、話が進まなくて困る」

「それはすみません」

「すまないと思ってないのに謝るのってよくないと思う」

「これは、手厳しい」

「どこが? もう。貴方のその、のらくらしたところが嫌なんだよ」


エスプレッソカップから上る湯気が、吐息に混ざって形を変える。


「そうですか? 私は貴女のそのはっきり物を言うところが好きなので」

「うぇー。貴方に好かれてるとか、嫌だ」

「おや。流石それは凹みますね」

「嘘つき。本当に凹んだ人はそんなこと言わないよ」

「貴女の基準は、本当に彼仕様で困りますね」

「なにそれ?」

「おや。無意識でしたか」


入口の扉が開くと、そこから新しい海色の空気が入ってくる。

それが何処からか、珈琲の香りに変化して、いつの間にか当たり前のように逢った空気のように鎮座する。


「棘のある言い方だよね。どういうことさ」

「どういうこと、と言われても。そのままの意味ですが?」

「僕の基準が、間違ってるってこと?」

「いいえ。とんでもない。ただ、基準と言うものは曖昧だというだけですよ」

「なにそれ。基準なのに?」

「ですから、普通、と言われて何を基準にするか。それが重要ということでしょう」

「つまり? 普通は、曖昧ってこと?」

「そういうことになりますね」


豆の香りと、それからエスプレッソの香り。

何処からがそれで、何処からがどれなのか。

ただ解るのは、店を満たすのは、穏やかなアフタヌーンの空気ということ。


「嫌だな。はぐらかされてる気がする」

「おや。そんなつもりはありませんが」

「だって貴方の話でいくと、普通って結局どういうことなの?」

「ですから、どういうことでもありませんね」

「なにそれ。つまり?」

「普通という言葉は、普通という意味ですが」

「うん」

「普通というのは、基準次第でいくらでも姿を変えるもの、と言うことですね」


唐突に落ちた沈黙も、暖かな午後の日差しの中では、ほんのりと色づいてみせる。


「ああもう」

「おやおや」

「結局どういうことなの?」

「曖昧、と。そういうことでしょう」

「そういうことなの?」

「はい。そういうことです」


エスプレッソカップからは、もう湯気はのぼらない。

小さく落ちた吐息を、すくい上げるのは小さな微笑。


「貴方と話してると、話が進まなくて困る」

「それはすみません」




「お邪魔いたしました。御主人」

「ありがとうございました」


すっぽりとハットを被って、初老の紳士は扉をあける。

其処をするりと抜けだして、少女はぺこりと頭を下げた。


「そういうところは、抜け目ないよね」

「褒めていただけるとは、光栄ですね」

「別に褒めてないんだけど」


微笑ましいやり取りを見送って、豆を挽く手を止める。

閉まった扉のカウベルの音にのせるように、マスターはふうんわりと微笑んだ。


「またのご来店を、おまちしております」



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