九品目 エスプレッソ
閑静な住宅街を過ぎると、道は途端に海に向かって緩やかな傾斜を描きはじめる。
灯台の立つ岬に向かう小高い一本道の途中に、木々に埋もれるようにその店はある。
道端に置かれた手作りのウッドチェアに、小さな黒板が看板がわりに立てかけてあった。
所々かすれてはいるが、その文字はこう読めた。
『喫茶 阿』
これは、喫茶店「阿」に集う、そんな『誰か』の物語。
小洒落たアンティークの扉を開くと、すぐに目に入る所に一本の樹から作られたポールスタンドが立っている。
そこにかけられたシルクハットに視線を投げて、マスターはゆっくりと豆を挽く。
ふんわりと流れる香りを追いかけるように、ゆっくりとゆっくりとハンドルが回されると、店中がほんのりと空気の色を変えて、エスプレッソから立ち上る湯気に溶けた。
「さて」
「さて、じゃないよ。本当に」
「おやおや」
「全く。貴方と話してると、話が進まなくて困る」
「それはすみません」
「すまないと思ってないのに謝るのってよくないと思う」
「これは、手厳しい」
「どこが? もう。貴方のその、のらくらしたところが嫌なんだよ」
エスプレッソカップから上る湯気が、吐息に混ざって形を変える。
「そうですか? 私は貴女のそのはっきり物を言うところが好きなので」
「うぇー。貴方に好かれてるとか、嫌だ」
「おや。流石それは凹みますね」
「嘘つき。本当に凹んだ人はそんなこと言わないよ」
「貴女の基準は、本当に彼仕様で困りますね」
「なにそれ?」
「おや。無意識でしたか」
入口の扉が開くと、そこから新しい海色の空気が入ってくる。
それが何処からか、珈琲の香りに変化して、いつの間にか当たり前のように逢った空気のように鎮座する。
「棘のある言い方だよね。どういうことさ」
「どういうこと、と言われても。そのままの意味ですが?」
「僕の基準が、間違ってるってこと?」
「いいえ。とんでもない。ただ、基準と言うものは曖昧だというだけですよ」
「なにそれ。基準なのに?」
「ですから、普通、と言われて何を基準にするか。それが重要ということでしょう」
「つまり? 普通は、曖昧ってこと?」
「そういうことになりますね」
豆の香りと、それからエスプレッソの香り。
何処からがそれで、何処からがどれなのか。
ただ解るのは、店を満たすのは、穏やかなアフタヌーンの空気ということ。
「嫌だな。はぐらかされてる気がする」
「おや。そんなつもりはありませんが」
「だって貴方の話でいくと、普通って結局どういうことなの?」
「ですから、どういうことでもありませんね」
「なにそれ。つまり?」
「普通という言葉は、普通という意味ですが」
「うん」
「普通というのは、基準次第でいくらでも姿を変えるもの、と言うことですね」
唐突に落ちた沈黙も、暖かな午後の日差しの中では、ほんのりと色づいてみせる。
「ああもう」
「おやおや」
「結局どういうことなの?」
「曖昧、と。そういうことでしょう」
「そういうことなの?」
「はい。そういうことです」
エスプレッソカップからは、もう湯気はのぼらない。
小さく落ちた吐息を、すくい上げるのは小さな微笑。
「貴方と話してると、話が進まなくて困る」
「それはすみません」
「お邪魔いたしました。御主人」
「ありがとうございました」
すっぽりとハットを被って、初老の紳士は扉をあける。
其処をするりと抜けだして、少女はぺこりと頭を下げた。
「そういうところは、抜け目ないよね」
「褒めていただけるとは、光栄ですね」
「別に褒めてないんだけど」
微笑ましいやり取りを見送って、豆を挽く手を止める。
閉まった扉のカウベルの音にのせるように、マスターはふうんわりと微笑んだ。
「またのご来店を、おまちしております」