八品目 ミラノサンド
閑静な住宅街を過ぎると、道は途端に海に向かって緩やかな傾斜を描きはじめる。
灯台の立つ岬に向かう小高い一本道の途中に、木々に埋もれるようにその店はある。
道端に置かれた手作りのウッドチェアに、小さな黒板が看板がわりに立てかけてあった。
所々かすれてはいるが、その文字はこう読めた。
『喫茶 阿』
これは、喫茶店「阿」に集う、そんな『誰か』の物語。
小洒落たアンティークの扉を開けると、その小さな店内の向こうに、外へと続く丸い磨硝子のはめ込まれた扉が静かに佇む。
その先はこじんまりとした中庭で、手作りのハンモックやウッドチェアが一枚絵のようにしっくりとおさまっている。
「いつ見てもさぁ、空は青いよねぇ」
「お前さー。曇りもあれば、夜もある。夕焼けだってあるだろーよ」
「あはは。そういえば、そうだねぇ。なんだろうなぁ。空はずっと青い気がするんだよねぇ」
ハンモックが重みでゆらゆらと揺れ動いた。
それを気に止めた様子もなく、ミラノサンドにかぶりつく。
「まぁなー、雲の上はずっと晴れてるんだろうけどよー」
「でもさぁ。思えば、空はいろんな色に変わるんだよねぇ。その色は、何処からくるんだろうねぇ」
「何処からって、お前なー」
「まぁ、青は海にしとこっかなぁ。じゃあ夕焼け色は何処だろうねぇ」
「そりゃ夕日だろーよ」
「ふぅん?」
「海と空とで引っ張られちゃー、顔も赤くなるだろー」
「あはは。確かに日が沈むのって最初遅いよねぇ。地平線に最後が隠れるのは、早いけどさぁ」
ウッドチェアが小さく軋んで、バスケットから覗くミラノサンドが小さく震えた。
「ねぇ。サル君は、どんな顔の空が好きかなぁ?」
「なんだよー、顔ー?」
「うちは、やっぱり夕焼けかなぁ」
「そーなー。そだなー、入道雲の空がいいよなー」
「夏だねぇ。それも良いなぁ。空と雲の対照は醍醐味だよねぇ」
「夕焼けもいいんだけどなー。あの、なんてーか、縁の色ってゆーのかー」
「そう! そうなんだよねぇ。うっとりするよねぇ」
大振りに動くハンモックにつられて、木葉がちらちらと舞い落ちる。
ふわりと吹いた風に遊ばれて、そのうち一枚がバスケットの中におさまった。
「あぁ、でもさぁ。天気雨も好きだなぁ」
「虹もなー。あれは、外せないよなー」
「雨なのにさぁ。晴れなんだよねぇ。有り得ない同士が組むだけなのにねぇ。なんであんなに素敵なんだろうねぇ」
「そうなー、タッグを組むからじゃないかー」
「あぁ!」
不意にかかった力に、ハンモックを支える枝がたわむ。
「パンだけよりも。葉ものだけよりも。肉だけよりも。これが一番だもんねぇ」
「確かに、うまいよなー。ワンちゃん」
「美味しいよねぇ、サル君」
「お邪魔しましたぁ、マスター」
「のんびりさせてもらったよー」
中庭へと続く扉から姿を見せた青年が、バスケットを手渡した。
「ありがとうございました」
「さぁて。仕事に戻りますかぁ」
「じゃー、お先ねー。刑事ちゃん」
「仕事中に会ったら覚悟してよねぇ。身軽な怪盗君」
「さー、どーだろーねー」
ひらひらと手を振って出ていく青年を見送ってから、腕時計に目を落とした女は一人頷く。
「よしっ、5分。じゃ、またねぇ」
カウベルを勢いよく鳴らして出ていく後ろ姿に、マスターはバスケットから木葉を取り上げて、ふうんわりと微笑んだ。
「またのご来店を、お待ちしております」