六品目 イングリッシュブレックファースト
閑静な住宅街を過ぎると、道は途端に海に向かって緩やかな傾斜を描きはじめる。
灯台の立つ岬に向かう小高い一本道の途中に、木々に埋もれるようにその店はある。
道端に置かれた手作りのウッドチェアに、小さな黒板が看板がわりに立てかけてあった。
所々かすれてはいるが、その文字はこう読めた。
『喫茶 阿』
これは、喫茶店「阿」に集う、そんな『誰か』の物語。
小洒落たアンティークの扉を開けて左手に視線をやると、壁から首を伸ばすガス灯のような灯りが目に入る。
その首の部分には、五色の糸を垂らした薬玉がひとつかかっていて、イングリッシュブレックファーストの香に、ふわりと香料が微かに薫る。
「不思議なものですわね」
「そうだな。些か面妖だな」
小さな含み笑いに混じって、紅茶の水面がゆらゆらと波を描く。
「まぁ。面妖だなんて」
「む。そうではないか。人が地に立つことも、花びらが散り、地に落ちることも」
「凄いと思いますわ」
「むむ?」
「大切なモノを、引き付けておく力、でしょう?」
「そのような考え方もある、か」
「この地ほどではありませんが、人にも、モノにも、微弱ながら備わる力だそうですよ」
「左様か」
「ええ。差し詰め、私は貴方様に囚われた月でしょうか」
一瞬のうちに、ミルククラウンが姿をみせてそして、消える。
「また、面妖なことを」
「うふふ。いけませんでした?」
「いえ。地とて、月の影響を受けておりますように」
「うふふ。けれど、身の果てと知りましても、近付きたいと思うのは月だけですわ」
スプーンがくるりと円を描いて、柔らかな色を均等に運んでいく。
「身勝手なものですわ。貴方様に害があると知っても」
「それを知ってなお、引き寄せ、受け入れる地もありましょう」
「優しすぎますわね」
「そのままそくりとお返ししましょう」
「うふふ」
ふわりと唐突に吹いた風が、五色の糸を揺らし、小さな花びらを運ぶ。
「幾とせ、過ぎましたか」
「光陰は矢の如く、ですもの」
「幾度も、幾度も」
「ええ。何度も、何度も」
「次の春は」
「見ることはできませんけれど、貴方様の糧となって」
「では、素晴らしい花をつけましょう」
「優しい、紅茶でしたわ。ご馳走でした」
透けるように線の細い女の言葉に、マスターは何も云わずに頭を下げる。
熔けるように微笑んで、女はふわりと踵を返した。
「願わくは、花の下にて春死なむ」
「その如月の、望月のころ」
出ていく女の零した声を引き継ぐように、マスターはその先を口にして、小さく微笑む。
「またのご来店を、お待ちしております」