五品目 ホットチョコレート
閑静な住宅街を過ぎると、道は途端に海に向かって緩やかな傾斜を描きはじめる。
灯台の立つ岬に向かう小高い一本道の途中に、木々に埋もれるようにその店はある。
道端に置かれた手作りのウッドチェアに、小さな黒板が看板がわりに立てかけてあった。
所々かすれてはいるが、その文字はこう読めた。
『喫茶 阿』
これは、喫茶店「阿」に集う、そんな『誰か』の物語。
小洒落たアンティークの扉の横に、小さな郵便受がついていて、たまにことりと小さな音を響かせる。
毎朝訪れて一番のお客様になる新聞配達と違って、郵便配達は時折その音を響かせるだけで、姿を見せる事はない。
取り出した手紙を仕分けていたマスターは、その中の一枚に目を止めてふうんわりと微笑んだ。
「遅いっ」
「仕方ないじゃないですか。俺の方が授業、長いんですよ」
「仕方なくないもん」
「大学生と高校生のライフワークを一緒にしないでください」
「なんでっ」
「休講ばっかりで暇な大学生とは違うんですよ、先輩」
湯気の立つホットチョコレートが四角い机に鎮座していた。
真っ白なマグには赤いラインの模様が遊ぶ。
「暇じゃないもん」
「暇そうじゃないですか。ふらふら高等部に出入りするんですから」
「違うってば」
「なんですか?」
「最近冷たいもんっ」
「どこがですか。冷たくありません」
「冷たいよ。もう12月だよ?」
一瞬途切れた言葉の間を、するりとレコードの音が抜けていった。
「あの、先輩?」
「なに?」
「それ、どう繋がるんですか」
「だって、心配なんだよ。あんまり寝てないみたいだし、調子悪そうだし。君、すぐ無理するんだもん」
「え? あの、俺のこと気遣って」
「違うよ、馬鹿っ」
「は? ちょ、馬鹿!?」
「君がどう思ってたって、私が君のこと好きなんだもん。気になって足が向いちゃうのっ」
ふうと冷ますふりをして零された吐息を拾って、ホットチョコレートは重さに耐え切れず僅かに沈む。
それを隠すように傾けられたカップが、僅かに揺れた。
「君が勉強の方が好きなことくらい、知ってるよ」
レコードの音の中で、かたんっと机に当たってカップが音を立てる。
「貴女は、本当に…どっちが馬鹿ですか!?」
「なんで君が怒るのさ」
「怒りますよ!」
「なんでっ」
「俺が、わざわざレベル上げた理由解ってます!? 就職率良くて、指導要領が良いからって、無理せず行ける県外の国公立止めて、スカラシップ狙ってまで私立の大学行こうとしてるのは」
「なに?」
「将来の夢も。貴女の側にいることも。両方掴みたいからに決まってるじゃないですか!」
窓枠を風が揺らした。
灰色の雲が、空を覆っていく。
「そんな、こと?」
「そんなこと!?」
「私は君が好きだよ。それは、離れたって変わらない」
「そんなの俺だって」
「だったら、無理して身体壊すような真似はやめようよ」
「それは、」
「県外がなんだい。いっぱい会いに行けばいいんだもんね」
「先輩」
「なにせ私は、暇な大学生らしいから」
「それ、根に持ってましたね」
こぼれ落ちた吐息に合わせるように、窓の外でちらちらと雪が舞い始めた。
「解りました。無理は止めます。でも、受けますよ。スカラシップ」
「うん。頑張るのは良いことだよ」
「ご馳走さまでした」
「マスター、すっごく美味しかったよ」
席を立ち上がったジャケットの少女が、気づいたように顔を上げる。
「そだ。君が合格したら、此処でお祝いやろっか。マスター、予約できる?」
「予約とか、先輩」
「いいじゃん、いいじゃん」
カウンターの角から、マスターが取り上げた予約の紙を受け取って、学生服の少年は肩を竦めた。
「此処の郵便受けに? 解りました」
カウンターの後ろにかかったカレンダーに印をつけて、マスターはふうんわりと微笑む。
「またのご来店を、お待ちしております」