三品目 抹茶ミルク
閑静な住宅街を過ぎると、道は途端に海に向かって緩やかな傾斜を描きはじめる。
灯台の立つ岬に向かう小高い一本道の途中に、木々に埋もれるようにその店はある。
道端に置かれた手作りのウッドチェアに、小さな黒板が看板がわりに立てかけてあった。
所々かすれてはいるが、その文字はこう読めた。
『喫茶 阿』
これは、喫茶店「阿」に集う、そんな『誰か』の物語。
小洒落たアンティークの扉を入ると、ぐるぐる廻るレコードの横に小さな金魚鉢が置かれている。
店内の灯りを反射する硝子珠が敷き詰められ、ゆったりと入った水の中には何もいない。
傘を持ったお客様を見送ると、マスターはふうんわり笑みを浮かべて、カウンターの抹茶ミルクの入っていたカップを取り上げた。
「久しぶりだあね」
「そうでございますね」
「あちらの生活はどうだいね?」
「楽しゅうございますよ。貴方様と暮らしていた頃には、敵いはしませんが」
温めるようにカップを包んだ両手が小さく揺れた。
「そうかいね?」
「無い物ねだりでございました」
「うん?」
「あの頃は、貴方様のようにいろいろな物が見えたらどんなに良いだろうと。私はそればかり考えておりました」
「うふふ。そうだわいな。ぬし殿はいつも、見えない目玉で虚空を飽きず眺めてたあね」
「貴方様の口から零れるきらきらした景色が、眼前に広がっているようでした」
「そうかいね」
「今は見えますが、やはり貴方様が見せてくれた景色の方が私には何倍も美しいかった」
そよりそよりと吹く風が、窓から入ってきては店の中を踊り廻る。
「でも良いこともありました。貴方様の姿を見ることができましたし」
「そうかいね」
「見えなかったからこそ見えたものと、見えるからこそ見えないもの。それだけは難しいことでございますね」
「みいんな、あることだあね。人でも人でなくても、みいんなそうだわいね」
「貴方様も?」
「そう言うものだわいね」
「そういうものでございますか」
こつんこつんと爪が金魚鉢を叩いて、カップがことりと音をたてた。
「ひとつ、お願いしたいことがあるのですが」
「なんだわいな?」
「貴方様の見た私の姿を、お話いただきたいのです」
「ぬし殿は美しいわいね。庭で泳ぐ錦も、滝を登り終えた風雲を起こす今もだあよ」
「いいえ。いいえ。それでも、貴方様の言葉が欲しいのです。それが、私の絶対ですから」
「ぬし殿が望むなら叶えようねえ。それはこの年寄りにも出来ることだわいね」
「ありがとうございました」
雨脚のたたき出した窓を閉めながら、マスターは空へと呟く。
雲の隙間は、返事のように雷鳴の影に長い鱗の尾を映した。
「三秦記に曰く、河津一名龍門、水險しく通ぜず。魚鼈の属、能く登る莫し、江海の大魚集ひて龍門の下に薄ること数千。上るを得ず、上らば則ち龍と為るなり」
書の一節を呟いて、マスターはふうんわりと微笑む。
「またのご来店を、お待ちしております」