朝の阿
小洒落たアンティークの扉を押し開けて、マスターは僅かに目をしばたかせた。
一拍遅れて啼いたカウベルにふうんわりと微笑んで、『CLOSE』を『準備中』の札にかけ替える。
「おはよう、マスター」
扉を開けたのは新聞配達。
かわたれを駆け回って、準備中に訪れる常連客。
「おはようございます」
定位置のカウンター席に腰掛けて、マスターの出す塩にぎりに手を伸ばす。
「いただきます」
「はい。先日は薬玉をありがとうございました」
「先方も本格な依頼は久しぶりだって、喜んでたよ」
「そうですか?」
「そうだよ。今時分端午に薬玉を贈る家は少ないしね。で、厄祓いにはなったの?」
「なっているといいのですが。もともとお体の強くない方なので」
「ふうん」
こぽこぽと注がれるほうじ茶から、薄い湯気が登る。
「そういえば、」
「はい?」
「文化祭の喫茶店。記事になってたよ」
「幼稚舎から大学院までのエスカレーター校とはいえ、今時珍しくもないでしょう?」
「あそこは別。倍率20倍だよ? 特に大学、農学部は厳しいの。その農学部でやるからだよ」
「常連さんに協力を頼まれては、嫌とは言えませんよ」
マスターの苦笑に、新聞配達は声をあげて笑い出す。
「だからって『恋が叶うホットチョコレート』とか、らしくないね」
「仕方ありません。あのお二人が好きな品ですから」
常連の二人が文化祭でやる喫茶店にホットチョコレートを出したいと尋ねてきたのは二ヶ月ほど前になる。
きっとネーミングは年上の彼女の方だろう。
「まぁ、結構な評判だったみたいだよ」
「そうですか」
「うん。ハット届けに行ったら紳士が言ってた。行ってきたあの娘に散々自慢されたってさ」
「おやおや」
僅かに目を細めて、マスターは減ってしまったお茶を注ぐ。
湯気をたてはじめた湯呑みを引き寄せて、新聞配達は肩を竦めた。
「ありがと。でも、もともと別の意味で注目されてたってのもあると思うよ」
「別、というのは先日の」
「そ。絵画と噂の怪盗。盗まれたのって、あの学園の生徒の家だから。マスコミ対応も含めて、警察も厄介対策に動員されたらしいし」
「そのようですね。昨日来られたとき、言い合いになっていたようですから」
警察の女と怪盗の男。
幼友達の二人はこの店にいるときだけは休戦を決めこんで、好き放題言い合っていく。
お店を出るのは男が先で、きっかり5分後に女は追い掛けるように店を出る。
「珍しい。この店には柵を持ち込まない約束なのに。大方、公僕の方が怒っちゃったんだろうけど」
「そのあと、とても落ち込んでいましたよ」
「だろうね。言い過ぎて後悔するんだよ、あのお姉さんは。あの二人も、少しは双子ちゃんを見習えば良いのにね」
「おや、会われましたか?」
新聞配達は肩を竦めてお茶を飲み干す。
「この間ね。今川焼き食べてたのに鉢合わせたんだけど、本当に仲良くなってたよ」
目を細めて、困ったように髪をかく。
「丸もの食べてるの見るまで半信半疑だったけど。マスター何したの?」
「特に何も」
「何もしなくてなるわけないと思うけど?このご時世に」
「この時代、だからでは?」
嫌そうに息をついて、新聞配達は鞄を掴んで立ち上がった。
「あんまりいろんな人、招かないでよ? 大丈夫って保証はないんだから」
「何事も引き時は肝心です。勿論、商売も」
「此処の空気好きだから、まだ暫くは続けて欲しい」
「ありがとうございます」
ふうんわりと微笑んだマスターに、新聞配達はひらひらと手を振る。
「夜はコッペリアに行くから、時間あったら出てきてよ。店長が特製のピッツァ、焼くんだってさ」
「解りました。では、夜に」
「ありがとうございました」
カウベルが小さく啼いて、静かに扉が世界を閉ざす。
ぴったりと閉じた扉をじっと見つめて、マスターは深く深く頭を下げる。
「喫茶『阿』は、皆様のまたのご来店をお待ちしております」
……shall meet again if fate so wills it.