夜の阿
小洒落たアンティークの扉を、私は飽きもせずに眺めている。
月の光が差し込む店内は酷く静かで、ただ僅かに昼間の珈琲の薫りが漂うだけだ。
唐突にことりと小さな音が響いて、掛け金の外れた海側の窓からするりと影が滑り込む。
「や。久しぶり」
軽く手を挙げて、彼は小さく笑った。
「いつぶりかな」
季節が一回りしたことを告げると、彼は驚いたように軽く目を見張る。
「そうか、早いね。井戸以外からでも簡単に繋がるようになってしまったせいで、私も多忙になったと言うことか」
彼の仕事は夜が中心だが、世界自体が沈みはじめた今は、昼間とて構いはしないらしい。
影は深海の様に光を拒み、油脂のように絡み付いて離れないのだと、先日来た彼の知り合いが零していた。
「ハルアキかい? アレも大変だね。お互い、輪廻から外れても忙しいな」
忙しい-それに同意できずにいると、訝し気な様子を察したのか彼が小さく笑みを浮かべる。
「アレが、ハルアキがふらふらしているように見えるかい?」
先日ヤオの乙女と来店したことを告げると、彼は目を丸くしてから双眸を崩した。
「八百比丘尼? 彼女も未だ外れたままか。ハルアキには良い相手だね。アレはあまり周りを寄せつけないから。一人で勤めるには、アレの任期は永すぎる」
そう言う彼自身も、私が知るだけでも随分と長いことお勤めを熟している。
それは、決して短くない時間だ。
「私は良いのさ。願いの対価はもう受けた。未だ働きが到らないのは仕方ない」
軽く肩を竦めて、ふと彼は真顔に戻る。
「季節が一廻りしたと言ったな?春のお二人はどうしている?」
彼が示した言葉に、私は少しだけ躊躇った。
「どうした?」
かの娘は先日身罷り、かの桜の化身はまた娘の骸を糧に咲く。
輪廻が巡り再び娘と見えるまで、桜は命を繋ぐだろう。
これまでと同じく、そしてこれからも同じく、だ。
「花のもとにて、か。今春の花は素晴らしいほどに染まるのだろうな」
彼は眉根を寄せ、過去の記憶を辿るように泳がせる。
飛鳥、平安、室町、江戸。
時代をくぐり抜けた古木は、ほんの数年だけ狂ったように花を咲かせる。
もう純粋な木霊ではなく、すでに妖樹に成り果てた化身を、物狂う瞬間まで監視下におくことで、彼は護っているのだろう。
彼女とともにあることのできる時間をほんの一瞬でも長く。
「春が終われば、やがて梅雨入か」
星を仰ぐような彼の言葉に、私は思い出してカウンダ―の隅を示す。
「あぁ。先日会ったよ。蓬莱は変わらず美しいところのようだ。私やハルアキとはまた違うが、仙というのも厄介なものだな」
カウンターの一角に隠すように置いてあったビー玉のような小さな水晶を手にして、彼は透かすように覗き込んだ。
「見えないから視るもの、視えるから見えないもの。どちらが良いかは一概には言えるものでないからね」
ぎゅっと手の中に握りしめて、彼は本当に小さく笑った。
蓬莱には美しい玉の枝があると云う。
けれど、飾り気のないこの、龍の首の珠の方が余程美しいと私は思う。
世界の果ての蓬莱のまだ先に、天空から流れ落ちる滝がある。
それを昇った鯉は龍に変わり、碧空の塔で暮らすのだという。
「本来、塔に住まう龍が蓬莱に戻ることはない。それでも逢いたいと、そう望まれたのは初めてだったよ」
彼は僅かに目を細め、くるくると宙の煙を巻くような仕種をする。
ふわりと薫ったのは烟る雨。
「まだ、囚われているようだね」
彼の視線の先で古い碁盤が身を縮めたように見えた。
此処にあるのはあの青年の残り香で、碁石にも碁盤にも触れられない青年が漂わせる不思議な流れのようなものだ。
けれども彼の目には、その漂う道筋が良く見えるらしい。
「今の相手は?」
初めの男から、息子へ、孫へ。
相手は変わって行くのに、青年はまだ碁を諦めることはできない。
碁界に名を残す青年の遺恨は、私には計り知れない。
「そうか。そろそろ彼にも監視が必要かもしれないね。執着が産むのは、良いものばかりではないから」
彼が監視するのは多くのもの。
それが彼の仕事なのだけれど、増える一方だと聞く。
狂い咲きの桜、仙に焦がれる龍、執着する霊。
「さて、僕もそろそろ報告に戻らないと。猫又君にも挨拶に行かないとだからね」
ひらひらと手を振って、彼は眠りつづける闇の中へ消えていく。
また静けさを取り戻す店のなかで、私はそっと耳をすませた。
遠ざかる彼の気配は私を微かに淋しくさせる。
マスターが訪れるのも暫く先だ。
この店に多くの異形が訪れるのは、彼やマスターに起因する。
許容するものと受け入れるもの。
だからこそ此処には、誰もが訪れ、在ることができる。
化け際の猫又に、成りかけの憑物神。
静かな店内で私は古めいた我が身を震わせる。
風もないのに、店の中でカウベルが小さな音をたてた。