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ep 3

「ねえ。聞いてるの、東雲君」


 三度目か、あるいは四度目の呼びかけだった。

 窓の外、グラウンドに視線を放り投げ、完全に意識を遠ざけていた僕は、その柔らかく凪いだ声によって、強引に現実の教室へと引き戻された。

 振り返ると視界の中央には、綴守つづもりささらがいた。

 小柄で、ひどく華奢な体つきをしている彼女は、到底高校生には見えない。ガラス細工のように頼りない骨格。分銅坂ぶんどうざかましろの持つ「圧倒的な美」としての美しさとは根本的に違う、触れれば静かに崩れてしまいそうな、儚げであり、ひそやかな綺麗さを持つ女の子だ。


 僕は、彼女をまじまじと見た。まじまじと。

 文字通り、一文字ずつ噛み締めるように、その存在を網膜に焼き付けようとした。

 彼女の瞳の奥にある、僕自身の凡庸ぼんような反射。

 少しだけ震える睫毛まつげの、その一本一本の影。

 白い首筋を走る、繊細な血管の鼓動。

 まるで、未知の怪異を鑑定するかのような、あるいは古書の一行を解読するかのような、無遠慮で、執拗な、視線の蹂躙。

 教室の喧騒が、その数秒間だけ、止まっていた。


「……悪い。なんだ」

 僕は気だるく首を動かし、ようやく彼女の瞳と正面から向き直った。

「……ねえ。そんなに、まじまじと見つめられると困っちゃうな」

 ささらが、小さく唇を尖らせた。

 凪いでいた彼女の頬に、微かな、けれど確実な赤みが差していく。それはまるで、真っ白な磁器に、誰かがうっかり淡い紅を落としてしまったかのような、そんな不器用な色彩だった。

「見ないでよって……。君が僕に話しかたんじゃないか、綴守」

「そうだけど。……そうだけど、限度ってものがあるんじゃないかな。今の見方、なんだか……」

 彼女は言葉を切り、僕の瞳の奥を、値踏みするように、あるいは怯えるように見つめ返した。

「なんだか、すごく……やらしいよ。 東雲君」

「……やらしい?」

 思わぬ不名誉なレッテルに、僕は思わず鼻で笑ってしまった。やらしい。

 それは性的な欲望の横溢を指すのか、あるいは、彼女という存在の深淵を無遠慮に覗き込もうとする、僕の傲慢な好奇心を指すのか。

「買い被りすぎだぞ綴守。僕の目は、そんな高尚こうしょうな欲望を持ち合わせていない。せいぜい、君が次に何を言い出すかを予測する程度の性能しかない」

「……その予測、たぶん外れてると思うな。だって、私は今、君に最低だって言おうとしたんだから」

 ささらが、わずかに視線を伏せる。

 けれどその拒絶は、突き放すための物ではなく、むしろ行き過ぎた僕の視線をたしなめるような、そんな言葉にならない「もういい加減にして」という響きが、彼女の沈黙には混ざっていた。


「否定はしないよ、綴守」

 僕は、気だるげなポーズを崩さないまま、むしろ視線の解像度を一段階上げた。

 逃がさない。彼女の視線の揺らぎ、指先の微かな震え、そのすべてを視姦した。

「……っ、認めちゃうんだ」

 ささらの顔が、今度は耳の付け根まで一気に赤く染まった。沸騰したヤカンさながらの熱量が、僕と彼女の間の数センチメートルの空間を埋め尽くしていく。

「何をって、観察だよ。君という個体が放つ、その『ひそやかな綺麗さ』を、どうすれば効率よく壊せるか。あるいは、どうすれば永遠に保存できるか。そんな不純な思考回路を走らせている男の目が、清廉潔白なはずがないじゃないか」

 僕は、彼女の瞳の奥を、さらに深く覗き込む。

「君が僕に話しかけた。それは、僕という猛獣の檻の中に、自ら手を突っ込んだのと同じことだよ、綴守。噛まれてから『痛い』なんて言うのは、少しばかりずるいんじゃないか?」

「…………」


 ささらが、震える呼気を一度吐き出し、唇を戦慄わななかせた。

 彼女は、縋るような、あるいは突き放すような、複雑に屈折した視線を僕に投げ、消え入りそうな声で漏らした。

「……東雲君。そういうこと、思っていても、本人には、言わないほうがいいと思うな。……女の子に、そんなふうに」

 それは、非難というよりは、懇願に近かった。「最低」と切り捨てることすらできない、彼女の善良さと、僕の「いやらしさ」に対する防衛本能。僕という人間に対して、彼女は「マナー」という名の、あまりにも脆い盾を掲げて見せたわけだ。

「……それに」

 ささらは、微かに震える指先で机の端をなぞり、僕の視線を真っ向から押し返した。

「もう、冗談はやめにしましょ。からかわれるのは、もう十分だよ。いい加減、本題に入ってもいいかな。私は、そのために君を呼び戻したんだから」

「ああ、悪かったよ、綴守。少し、からかいが過ぎたな。君のその真っ当な『正論』に、僕の不純な悪ふざけをこれ以上ぶつけるのは、流石に僕だって気が引けるってもんだ。」

 僕は、ようやく満足したように、あるいは自分の無作法を少しだけ恥じるように、視線の圧を緩めた。椅子の背もたれに体を預け、彼女から意識を逸らすために、あえて教室の風景を他人事のように眺める。


 市立長津田高校。

 県内でも「中の上」と目される、どこまでも中途半端な進学校。僕の元々の成績でこんな場所に潜り込めたのは十中八九まぐれだが、強いて決定的な要因を挙げるなら、目の前にいるこの綴守のおかげかもしれない。

 とはいえ、僕と彼女たちが現在通うこの学校は、ひどく凡庸な教育機関だ。偏差値も、校則の厳しさも、生徒たちの将来設計も、すべてが正規分布の真ん中に収束するように設計されている。飛び抜けた天才もいなければ、致命的な破綻者もいない。与えられたカリキュラムというベルトコンベアの上を、ただ均等な速度で流れていくための平坦な無菌室。

 だからこそ、その「異物」はあまりにも鮮明に浮き彫りになる。


「で? その本題とやらを聞かせてもらおうか。君が、僕にからかわれるリスクを冒してまで伝えたかった、その『すごかった』ことについて」

 ささらが、乱れた呼吸を整える。

 そして、今度は祈るような、あるいは呪うような手つきで、その名前を口にした。

「今日、すごかったね。分銅坂さん」


 その名前が鼓膜を揺らした瞬間。

 僕の脳裏に、数時間前の光景が正確な輪郭を伴って再生された。


 それは昼休みの出来事だった。

 購買で買ってきた何の変哲もないパンを口に運び、咀嚼という義務をこなしていた、その時だ。

 教室の後ろの方が、何やら騒がしくなった。

 椅子が激しく床を叩く音。怒号に近い、喉を震わせる声。

「おい、ふざけんなよ!」

「ふざけてんのはどっちだ」

 今にも殴り合いになりそうな剣幕で、二人の男子生徒が睨み合っていた。血管が浮き出た首筋、剥き出しの敵意。周囲の生徒たちは、食事の手を止めて遠巻きに眺めるか、あるいは「誰か先生呼んで来たほうがいいんじゃないの」と、自分たちが介入しないための免罪符を小声で投げ合っている。

 そんな、ありふれた、けれど不快な熱量を帯びたパニックの中。

 彼女が、静かに立ち上がった。

 制服を纏い、自身のドレスへと昇華させた彼女は走ることも、制止の声をかけることもせず、まるで散歩でもするかのような軽やかな足取りで、その一触即発の地雷原へと踏み込んでいった。

 二人の間に割って入り、彼女は何かを一言、囁いた。

 僕の席からは、彼女が何を言ったのかは聞こえなかったが、唇がほんのわずかに動くのが確認できた。

 その瞬間だった。


 仲裁――そう呼ぶには、あまりにも対話がなく。静かすぎた。彼女の一言で、先ほどまでの、教室を焦がさんばかりの怒気も、殺意を孕んだ熱量も、まるで初めから存在しなかったかのように霧散した。

 二人の男子は、殴りかかるどころか、言い返すことすらしなかった。

 そこには自分たちの感情などなく、ただ、決定された結論だけが冷たく横たわっていた。

 彼らは互いの顔を見ることすら忘れ、吸い込まれるように自分の席へと戻り、何事もなかったかのように弁当を食べ始める。

 謝罪もない。和解もない。

 ただ、外れたレールを無理やり戻されたように、彼らは「正しい日常」を再開したのだ。


 ただ、僕は見た。

 二人が虚脱きょだつしたように席についた、その直後。

 分銅坂が、わずかに首を傾けるのを。

 何かを、聞いていた。

 何もない、教室の隅の虚空を。

 誰もいない場所に向かって、まるで誰かと対話しているかのように、不自然な角度で首をかしげるその姿。僕には、彼女が何を見ているのか、何に対し首をかしげたのか、さっぱり理解できなかった。ただ、その不可解な静止だけが、僕の網膜の裏側には、焼き付いて剝がれなかった。


「――東雲君」

 不意に、鼓膜を直接撫でるような声。

 網膜の裏にへばりついていた分銅坂の残像を、物理的に剥ぎ取るように、綴守ささらが僕の名前を呼んだ。

 強張っていた肺が動き出し、酸素が脳へと巡る。焦点が合い、眼の前で首を傾げる彼女へと視界がスライドした。


「聞いてるの? 東雲君」

「……聞いてる。というか、思い出していただけだ」


 僕は、ひどく乾いた自分の声に微かな苛立ちを覚えながら、乱れた境界線を引き直すように小さく息を吐いた。

「だよね。思い出しちゃうよね、あんなの見せられたら」

 ささらは自分の机を指先でトントンと叩きながら、まるで他人事のように、いや、完全に安全圏にいる傍観者のように言った。

「私だったら、絶対にあんな状態のところ、一人で割って入れないな。……だって、何が起こるか分からなくて、怖いじゃない?」

「怖い、か」

 僕は、そのひどく一般的で、女子高生として、あたりまえすぎる感想を、脳内で静かに反芻はんすうした。


 恐怖。

 果たして、僕があの歩みに感じたものは、恐怖という感情の裏返しだったのだろうか。

 いや、違う。僕の網膜に焼き付いているのは、もっと理不尽で、決定的な『違和感』だ。今にも殴り合いを始めそうな、男子高校生二人。そのど真ん中へ、ただの女子生徒が一人で立ち塞がることの、圧倒的な意味のわからなさ。そこに本来あるべき恐怖も、それをねじ伏せようとするヒロイックな勇気すらも。分銅坂ましろの、あの散歩でもするような迷いのない足取りには、一ミリも含まれていなかった。

 それはもっと冷たくて、もっと事務的な。

 ひどく機械的な『作業』にしか見えなかったのだ。


「……まあ、そうだな」

 僕は短く同意の相槌を打ち、これ以上の無意味な推論を打ち切った。

 ささらは僕の気のない返事に満足したのか、ふふっと笑い、窓の外へと視線を移した。


 すでにホームルームは終わり、放課後の気怠い空気が教室を支配している。

 いつの間にか、夕日が校舎の影を長く引き伸ばし始め、教室を茜色に染め上げていた。周囲を見渡せば、クラスメイトたちはとうに帰り支度を済ませ、それぞれが属する日常へと散っていった後だった。

 残っているのは、僕と、そして――。


「帰らないのか。綴守」

 僕は、斜め後ろの席に声をかけた。

「何を言ってるの東雲君」

 綴守ささらが答えた。

 「私はもう、帰ってるよ」


 夕日を背に受けた彼女の表情は、まるで遠い昔に撮られた色褪せた写真のように、ピントが合っていなかった。

 ただ、もう二度と満たされることのない空っぽの器を大事に抱え続けているような、ひどく静かで、ひどく寂しい顔をしていた。

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