ep 2
まず、僕と分銅坂ましろの出会いについて話そう。
出会い、なんて言うといかにも物語の始まりっぽくなってしまうのだが、実際のところはそんなドラマチックなものじゃない。運命的な邂逅もなければ、印象的な第一声なんてものもなかった。気づいたらそこにいた。主体性の欠落した表現だが、これ以上に正確な言葉を僕は知らない。そう彼女は、そこにいたのだ。
中学二年生の春。
《《分銅坂ましろ》》
クラス替え表にあるその六文字は、数日もしないうちにインクの染みを脱ぎ捨て、やけに鋭利な輪郭を持った実体へと変貌した。
常に成績は一位。
容姿端麗。
今や物語の挿絵でしかお目にかかれない、重力さえ忘れたような黒髪。腰まで届くその艶やかな夜の奔流を纏う彼女は、古い絵本の頁から音もなく這い出してきた、美しき異物だった。テンプレートとしての優等生。ここまではいい。問題はその先だ。
通常、こうした過剰なスペックは、教室という閉鎖空間では「摩擦」を生む。妬み、蔑み、あるいは崇拝という名の疎外。そうした“ズレ”が均衡を破綻させるのが、この世界の汚い仕様のはずだ。
でも、分銅坂ましろは違った。
正確に言えば、嫌われないんじゃない。嫌いになる理由が、うまく見つからない。見つからない、というより、見つけようとした時点で、どこかに行ってしまう。最初からなかった、と言い直した方が近い。
不思議な話だと思う。人が誰かを嫌うには、相応のコストがかかる。理屈なり感情なり、自分を納得させるための材料が必要だ。だが、彼女を前にすると、その材料がどこにも見当たらない。最初から用意されていない。嫌うという選択肢そのものが、設計段階でオミットされる。
だから、嫌えないのだ。
正しい位置。正しい距離。正しい選択。
彼女を取り巻く世界にはそれが常に成立している。成立している、というより、それ以外が成立しない。そう言った方がしっくりくる。
「正しさ」を維持するのは本来、吐き気がするほど面倒な作業だ。空気を読み、期待に媚び、微調整を繰り返す泥臭い努力。コストが高すぎる。だから僕は、そんな努力をとうの昔に放棄した。
人付き合いが努力の結果なら、その努力を放棄するのも選択の一つだ。
関係が減るなら、それは失敗じゃない。ただの選択だ。
……と思っていた。
けれど、彼女は努力しているようには見えない。ただそこに「正解」として設置されているだけだ。
重力のように、逆らう理由が見つからない。
だからこそ――ほんのわずかなズレが、その完璧な円環に生じた、砂粒ほどの「ノイズ」が、僕の網膜を不快に突き刺した。
あれは、夏を孕んだ六月の午後だった。
文化祭の役職決め。教室には、ヘドロのような沈黙が堆積していた。やりたがらない役目が一つ、教卓の上で転がっている。
西日が室内を朱く染め変えていく。血の色に似たその光の中で、責任の所在が曖昧なとき特有の、あの薄ら寒い空気が濁る。
そのときだった。
分銅坂が手を挙げた。それは「挙げる」という能動的な動作というより、空間に彼女の意思が「設置」されたような、不可解なほどの自然さだった。誰もその始まりを目撃していない。ただ、彼女の手はそこにある。
「その役、私がやります」
声は小さい。けど、小さいだけで弱くはなかった。聞き取ろうとしなくても、ちゃんと届く。というより、届くようにできているみたいな声だった。
「その代わり、準備期間の放課後は私の指示に従ってください」
交渉ではない。それは、交渉の形をした「結論」だった。
誰も反対しない。反対する理由が、教室中の思考から綺麗に削ぎ落とされている。
さっきまで確かにあった「面倒だ」という感情が、まるで最初からなかったこととして処理される。編集後の映像のように、カットされた醜い本音を思い出す者は誰もいない。
どこに行ったのかは分からない。分からないけど、少なくともこの教室には残っていない。
だから全員が頷く。
納得している顔で。
納得しているのかどうかは知らないけど、納得していることになっている。そこに疑問を差し挟む余地など、最初から用意されていないのだ。
それで成立している、この空間があまりにも歪だった。
あまりにも、綺麗すぎる。
あまりにも、不気味すぎる。
余計なものだけが都合よく消えて、残った部分だけが「最初からこうでした」と言い張るシーンのことなんて、誰も思い出さない。
……都合が良すぎた。
だが、その“都合の良さ”に、誰も違和感を持たない。
持てない、の方が正しいのかもしれない。
そのときだった。
分銅坂が、わずかに首を傾けた。
ほんの一瞬。瞬きより短い動き。
それなのに、そこだけがやけに目につく。他が完璧すぎるせいで、そこだけが異物みたいに浮いて見える。
彼女の視線は、僕たちを見ていなかった。
教室という箱庭の、さらに外側。この場に含まれていない何かに、正確に焦点を合わせている。
彼女は、誰もいない空間に向かって、小さく頷いた。
他が完璧な調律を保っているせいで、その動きだけが、鋭利な異物として浮き上がって見えた。
見て見ぬふりをすることも、論理的には十分に可能だったはずだ。
あれは単なる見間違いだ、と。
無視して然るべきノイズだ、と。
そう処理することこそが、この場におけるもっとも「正しい」振る舞いだった。
たぶん。
でも、そのときの僕は、その正しさを選ばなかった。
正しい選択が正しいなら、そこから外れる選択も同じくらい正しいはずだ。
気づけば、僕は視線を動かしていた。
声をかけるのではなく、ただ静かに。分銅坂ましろがわずかに首を傾け、小さく頷いたその延長線上を、目で追ったのだ。
教室のどこにも向いていない、枠の外側の空間。
そこに何が存在しているのか。誰がいるのか。
無遠慮に目を凝らし、見えない正体を暴こうとした。
だが、誰もいなかった。そう何もなかったのだ。
西日に透かされた微細な埃が、無意味に宙を舞っているだけだ。
彼女が何に対して肯定を与え、何に対して同意を示したのか。手がかりとなる物理的な痕跡は、どこを探しても見当たらない。
彼女は、もう一度だけ、小さく頷いた。
僕には見えない何かに。僕には聞こえない何かに向かって。
真相は僕の手の届かない領域で、あまりに美しく、冷酷に完結している。
僕という観測者が入り込む余地など、最初から一ミリも用意されていなかったのだ。
――そのときだった。
分銅坂ましろが、ふと、こちらを振り向いた。
虚空を間抜けに探っていた僕の視線と、焦点の合っていなかったはずの彼女の瞳が、正面から交差する。
かすかな、吐息が漏れるような音がした。
彼女は、笑っていた。
僕が抱いた違和感も。答えを探そうと視線を彷徨わせた滑稽さも。
そして結局、彼女の世界の片鱗すら理解できなかったという無力な結末さえも。
最初からすべて解答欄に書き込まれていたかのように。
分銅坂ましろは、ただ静かに、すべてを見透かした笑みを僕に向けていた。




