見習い医者から隊長に、そして将軍へ
紀元前200年、パニウムの戦いでプトレマイオス朝エジプトに大打撃を与えたセレウコス朝シリアのアンティオコス3世だが、その勝利に水を差す出来事が起こる。
地中海世界において勢力を拡大している新興の強国・ローマ共和国から
「エジプト侵攻はしないで欲しい」
という要求が来たのである。
この時期、ローマ共和国は紀元前202年のザマの戦いで勝利し、第二次ポエニ戦争を終わらせたばかりであった。
これによって急膨張した領土や国民の為の食糧を、エジプトから輸入している。
その為、ここが脅かされる事を望まなかったのだ。
アンティオコス3世は、不愉快に思いつつも、エジプト本土侵攻よりもコイレ・シリアや小アジアの確実な奪還を優先した為、これを受け容れる。
彼は現在のところ、ローマとは友好的に付き合う選択をした。
しかしセレウコス朝シリアの同盟国、アンティゴノス朝マケドニアは違った。
ポエニ戦争中のローマの疲弊を見たのか、北方にあるイリュリアに対して、既に手を出している。
この地の王・デメトリウスが、ローマに敗れてマケドニアに亡命していた。
マケドニアはこれを助けて、イリュリアの政治に介入する。
これを見たギリシャ諸国は、マケドニアの脅威をローマに訴える。
ローマは「エジプトに手を出すな」という通達に先んじて、マケドニアにギリシャの平和を守るよう通達を出すが、マケドニアはこれを拒否。
ローマはこれに激怒、あるいは激怒したような態度で、宣戦を布告する。
こうして「ハンニバルとの戦争が終わったばかりで疲弊の極みにあり、戦争の余裕は無いだろう」という読みを裏切る形で、第二次マケドニア戦争が勃発したのである。
(第一次マケドニア戦争が、マケドニアのイリュリア侵攻に端を発し、ハンニバルとの同盟で戦っていたりする)
アンティオコス3世はこうした情勢の変化に対応している。
既に同盟国マケドニアが戦争に突入している為、彼もローマという脅威に備える必要が出て来た。
彼はよりローマに近い、アナトリア半島にあるプトレマイオス朝の領地を奪いに動く。
この地は、第一次シリア戦争の結果、プトレマイオス朝が奪ったものである。
アンティオコス3世は、エジプト本土侵攻はしないと正式に宣言。
息子の小アンティオコスにコイレ・シリアの残党討伐を命じ、自身は大軍と共に北方に引き上げたのだった。
「俺はどうやら、人を治すよりも人を殺す方が合っているようだ」
コマンオスは誰聞くとなく、そう自嘲して独り言を吐いていた。
彼の合理主義は、医学と共にアテナイで学んだストア哲学に基づく。
無駄を廃し、純粋な医者にならんと心がけて来た。
しかし彼は、自分の身を守る為とはいえ、敵を殺して来ている。
一度や二度ならともかく、セレウコス朝の残敵掃討に遭う内に、負傷した隊長に代わって指揮を執って、効率的に敵を撃破した。
つまり、小競り合いではあっても、十数人単位を殺戮したのだ。
彼は理想主義者ではなく、合理主義者である。
生き抜く為に人を殺した事を、後悔はしていない。
しかし、最早純然たる医者ではなくなったと、自分を顧みている。
治す事よりも、敵を効率よく殺す事を考えてしまう。
こんな人間は、軍医ならともかく、一般市民を治す医者であってはならない。
そう割り切った。
割り切らざるを得なかった。
純然たる医者として世界の為に尽く生き方は、もうしない方が良い。
隊長を引き継いだコマンオスの部隊指揮は、戦術的な合理性の他に、医者であった時の観察する「目」が生きている。
生死が掛かった場面で、彼は慌てる事がない。
その冷静な目で戦場を眺めた時、敵が何かを仕掛けて来る時の、独特の空気を感じ取れた。
罠に誘い込もうとしている時は、どこか後方を気にしてチラチラ後ろを見る兵士がいる。
手柄を焦っている部隊は、隊列が乱れがちである。
敵を打ち破った後でも、その敵に余力があるかどうかは、患者の生死判定と同じように目の力から読み解ける。
こうして彼は、負ける事もあるが、多数の味方を生かし、反面多数の敵を殺す良質な指揮官になっていった。
だからこそ、医学はもう諦めよう。
医学知識や経験を他の事に使うな、とは言わない。
しかし、それを戦争に使う者はもう医者ではない。
そうして医者たるを諦めたコマンオスは、更に優れた部隊指揮官へと成長していくから皮肉なものである。
「我々が出来る事は限られている。
逆に言えば、迷う必要はない。
他の方法では失敗するだけだ」
コマンオスは、後世ゲリラ戦と呼ばれる戦い方を繰り返す事に、不満を漏らす者たちにそう返す。
元々軍医として参戦させられていたコマンオスは、前線で盾を持ち、長槍を握る重装歩兵では無かった。
補助部隊である軽歩兵として戦闘に参加した。
この部隊は、ヘレニズム諸国においては重視されていない。
アレクサンドロス大王であれば、軽歩兵による機動や攪乱、騎兵による後方からの攻撃、正面の重装歩兵が騎兵に追われた敵軍を叩く「鎚と金床戦術」を使いこなせただろう。
しかし、軍事の天才アレクサンドロス大王の死後、機動力重視だったマケドニア重装歩兵は、盾を大型化し、鎧も重装甲としてギリシャ重装歩兵のような運用に定番化していった。
軽歩兵による散開戦術は、過去に存在したものの、顧みられなくなっていた。
その軽歩兵によるヒット&アウェイ戦術を、コマンオスは復活させる。
アテナイに留学した事がある彼は、紀元前392年のレカイオンの戦いで、スパルタ重装歩兵がアテナイのイフィクラテス将軍率いる軽歩兵に敗れた事を学んでいた。
現在の彼には、軽歩兵しか居ないのだから、その戦術を復活させるのが最も合理的で、かつ唯一の戦術と言えよう。
あとはプライドの問題となるが、それで勝てないのなら何の意味もない。
コマンオスはコイレ・シリアの山岳地帯を上手く活用し、軽歩兵の神出鬼没な移動と、ヒット&アウェイ戦法に徹して、味方を生かし、敵を殺し続ける。
「小癪な敵がいる」
小部隊同士の戦いが繰り返される中、コマンオスの存在はセレウコス朝側にも知られて来た。
だが、小アンティオコスは、その小癪な敵に構っている暇は無い。
彼は父から託された兵力を率いてシドンの街に侵攻。
ここを包囲していた。
そしてついに、プトレマイオス朝の主力残存部隊を率いるスコパス将軍からの降伏を引き出した。
条件として、残ったマケドニア人、アイトリア同盟傭兵の生命の補償とエジプトへの帰国を出して来ている。
アンティオコス3世はそれを認めると、小アンティオコスに伝えて来た。
小アンティオコスは父の指示に従い、エジプトへの帰還を認める代わりに「セレウコス朝と敵対しない」という誓約書を提出させる。
こうして2年に渡ったコイレ・シリアの奪還は果たされる事となった。
だが、スコパスはただ負けてはいない。
彼は最後っ屁のような策を打ち出す。
「この部隊の指揮官はどこに居る?」
降伏受諾前のある日、山岳ゲリラ戦を展開中のコマンオスの元に、スコパス将軍からの使者がやって来た。
「指揮官は戦死した。
代理として自分が指揮をしている」
コマンオスが答える。
コマンオスは、医者の印である医神の杖を持って、指揮棒代わりとしていた。
医者が指揮をしているのかと、使者は驚く。
コマンオスからしたら、杖そのものに意味はなく、手ごろだからそのまま使っているだけなのだが。
使者はとりあえず、自身に与えられた仕事を果たす。
「将軍は降伏される。
代わりに貴殿を将軍に任ず。
これが命令書である。
この部隊は、間もなく全軍戦闘停止命令が出るこの地を離れ、キリキアに向かわれよ。
そこで友軍と合流し、戦い続けよ。
船は用意してあるから、至急海岸に行って乗船するように」
そうして命令書を手渡し、去って行った。
「面倒な事になった……」
コマンオスは、将軍の称号を得たが、代わりに職を放棄した将軍に代わっての戦争継続をさせられる事になる。
プトレマイオス朝が領有するアナトリア半島南部のキリキアとカリアという地。
ここは今、アンティオコス3世の猛攻を受けていた。
そこへの援軍と言えば聞こえが良いが、要するに面倒事ではある。
部下次第では命令拒否し、セレウコス朝に投降しようかと、部隊の様子を眺めた。
散り散りに逃げたプトレマイオス朝の軍だが、シドンのコスパス将軍の元に合流出来ない以上、近場の部隊の保護を受けたい。
そうした兵士たちが集まって来て、コマンオスの部隊は既に千人以上の勢力に拡大している。
それらの兵士たちだが、負けない効率的な戦いをするコマンオスに尊敬の視線を向け、士気も非常に高かった。
「将軍、キリキアへの援軍ですね!」
「行きましょう!
行って、敵に一泡吹かせてやりましょう!」
「帰る時は友軍も一緒ですぜ」
兵士たちからそう言われ、コマンオスは溜息を吐きながらも、その意思に従う事にした。
(俺は、アリストメネス宰相から追放されて、この戦場にやって来た。
このまま帰っても、アレクサンドリアに居場所は無いだろう。
下手をしたら、コスパス将軍の代わりに責任を取らされるかもしれない。
だったら、命令に従って戦い続けるか。
兵士たちが嫌だと言ったら、違う選択肢もあったが、こうなってはやむを得まい)
コマンオスは夜半、コスパスの手配した船に乗ってコイレ・シリアを離れた。
そうして彼の戦いは、小アジア、アナトリア半島に移る。
紀元前198年の事である。
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