プトレマイオス5世とコマンオス
紀元前195年、プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアとの和平は、ローマの仲立ちで成立した。
翌194年、和平の証として、エジプトのプトレマイオス5世と、シリアのクレオパトラ王女が成婚。
この後、有名な7世まで何度も女王として現れる「クレオパトラ」という女王名、その最初の人物は外国から来たのである。
だが、少年王プトレマイオス5世は、王女ではなく彼女護衛として帰国した人物に対し、真っ先に抱き着いて来た。
「コマンオス将軍、よく戻って来てくれた」
どう返事をしたら良いか分からず、固まっているコマンオス。
宰相アリストメネスは
「陛下、花嫁を放ってそのような男と言葉を交わすなど、セレウコス家に対し失礼ですぞ」
と窘める。
彼は、コマンオスという将軍が、かつて前線の軍医として左遷した、ぶっきらぼうで失礼な男だった事を思い出していた。
コマンオスを見る目が実に冷ややかである。
「宰相、失礼なのは卿の方だ。
国の為にコイレ・シリアから小アジアまで戦い続け、アンティオコス王に鞍替えする事なく戻って来てくれた者を労って何が悪いのか?
王は、王に忠義を尽くす者に相応の礼を持って遇する。
それでなければ、国は成り立たぬ。
王が王たる事をしているのに、それに異を唱えるとは失礼にも程があろう」
アリストメネスは何か言いかけたが、結局黙って一礼し、引き下がった。
少年王の言に一理あったからである。
まあ、プトレマイオス5世も花嫁を放置する事はせず、礼をもって挨拶をかわした後は、神前での結婚までは別室にて寛いで貰う事とした。
「将軍、私はコイレ・シリアを奪還しようと考えている」
プトレマイオス5世はコマンオスにそう語りかける。
コマンオスは、帰国を許される際にアンティオコス3世と
「決して、自分はアンティオコス3世とは戦わない」
と約束をしていた。
だが、それをこの場で言うのは拙いと、コマンオスという率直な男でも理解している。
少年王は話を続ける。
「結婚の持参金のようなもので、コイレ・シリアを割譲するという約束にはなっている。
しかし、どうせ口だけのものだ。
戻って来る事はないだろう。
だから、実力で取り戻すのが王たる私の務めであろう」
熱く語る少年王に対し、コマンオスは冷静である。
「そういう事は、足元をしっかり固めてから言われよ」
コマンオスは無礼と承知でそう返す。
少年王は自国の現状も見ずに、無謀な事を言っているように感じられたからだ。
だが、少年王は怒るではなく、逆に嬉しそうな表情になる。
「将軍を知る者から聞いたように、実にハッキリと物を言うな。
それでこそ、だ。
足元が固まっていない事くらい、私も理解している。
まずは上ナイルの反乱をどう鎮圧するか。
宰相は上ナイルなどは棄て、アレキサンドリア周辺だけで良い等と言う。
アレキサンドリア周辺だけで、十分国としてやっていける。
食糧生産は下エジプトがほとんど全てで、上ナイル地方など重荷でしかない、とな。
これに対し、将軍はどう考えるのか?」
諮問にコマンオスは
「上ナイル地方の更に南には、クシュ王国があります。
上ナイルは、防衛や資源獲得の為に必要な地です。
そこを占拠する反乱軍を排除し、奪還します」
と簡潔に答える。
少年王は更に破顔して
「で、それはどうするのだ?
どのような策があるのだ?」
とワクワクしながら聞いて来た。
この辺はまだ少年らしい幼さを残す。
奇想天外な神算鬼謀を聞きたいのだろう。
だがコマンオスは
「軍事的には、普通に戦えば勝てます。
策も何もありません。
勝てるから、そう言っただけです」
と、つまらない答えを返した。
やや鼻白んだ少年王は、重ねて質問した。
「まあ、将軍でなくてもテーベまで奪った者は居たしなあ。
しかし、維持し続けるのが難しいというのは、宰相でなくても分かっている。
将軍はそこをどう考える?」
帰国するまでの間に、対応策は考えていたコマンオスは、淀みなく答えた。
「エジプト人を国の一員として認め、彼等に統治をさせます。
まずは軍事力で抑えつけますが、それだけでは、反乱の芽はまた出ます。
ゆえに、次は政治でもって反乱の芽を摘む事です。
それには、エジプト人の要求である、エジプト人を国の政治に参加させる願いを叶えてやる必要があります」
「待て、将軍は反徒の要求を聞けと言うのか?」
「いえ、王が自らの意思でそうするのが望ましいでしょう。
というか、実は他の選択肢は無いのです。
自分が捕虜となっている間、シリアの内情を見て来ました。
シリアはその領域がかつてのペルシャ帝国と重なります。
ゆえに、多くのペルシャ人が国の重職に就いていました。
そうせざるを得ないからです」
「しかし、それでは貴族どもが納得しないぞ。
宰相含め、我々はマケドニア人である。
その高貴な血筋が治めてこそ、という意識は捨て難いものだ」
これは王の言う事が正しい。
英雄王であるアレクサンドロス大王ですら、ペルシャ征服後に、マケドニア式ではない、ペルシャの服を着て「王の王」として振る舞った時には部下たちから反感を買った。
後継者の内、シリアとエジプトを有する王たちが、原地風ではないマケドニアの征服王朝である事をやめないのは、彼らを支えるマケドニア貴族たちに配慮しての事でもある。
コマンオスも、国の在り方を根本から変えろとは言いづらい。
しかし、それでも主張するべき事がある。
エジプトに勝ち、後継者国家の勝利者となったアンティオコス大王、つい最近まで側仕えした王と比べ、プトレマイオス朝の王権は弱いのだ。
そのアンティオコス3世は、自力で貴族たちを捩じ伏せ、内乱を鎮圧して独裁体制を作り上げたのだが。
それ故にコマンオスは語る。
「それが陛下の足元の危うい所です。
少数のマケドニア人が多数のエジプト人を支配しているが、反乱に遭っている。
そのマケドニア人を王家が支配しているが、その実彼等に気を使っている。
二重に不安定なのです」
「む……」
腹が立つ事をズバズバ言われた。
だが、その通りなのだ。
「では、将軍は私にどうしろと言うのだ?」
「反乱軍は私が倒します。
その間に、陛下は自らの足元を固めて下さい。
陛下の責務です。
マケドニア人貴族すら御せぬようでは、もっと多くのエジプト人を御せぬでしょう。
しかし、貴族を御す事が出来るようになれば、それはエジプト人をどう統治するかも分かるようになります。
その時、陛下は自分と同じ結論に達します」
プトレマイオス5世はしばし考えた。
彼はコマンオスについて、彼と共に戦った者たちから話をよく聞いている。
「確実に出来る事しか言わない。
彼が出来ないと言ったら、それは絶対に出来ない」
今、コマンオスの回答に曖昧なものは無い。
大体が断言している。
それでいて、自分の権限の及ばない所は
「王よ、自分でやりなさい」
というように言っている。
中々に刺激的な将軍ではないか。
「エジプト人をどう統治するかは、貴族を御した後の私の判断で良いのだな?」
「御意」
「仮に、初代から父上までと同様、力で抑えつけるという選択をしたら、将軍はどうする?」
「その方針の中で、最適なやり方を考えます」
「将軍はエジプト人の、叛徒の望みをかなえてやれと言った。
自分が言ったその考えにこだわりはないのか?」
「自分は軍事にのみ関わるものです。
まあ、少しは医学も知っていますが。
政治の事は分かりません。
自分はこうした方が良いと考え、きっと陛下も同じ考えに到ると見ています。
しかし、陛下の立場は陛下しか知らぬもの。
陛下が自分の考えで決めたなら、その立場にない自分が敢えて口出しするものではありません」
とは言え、彼は王が自分と同じ考えに至ると確信している。
自分というより、ペルシャ人やユダヤ人を従えるアンティオコス3世と同じ考えだ。
多民族国家において、いつまでも征服者が武力で君臨する体制ではいられないのだから。
「よし!」
少年王は叫んだ。
予想外に、自分が心の中で求めていた、モヤモヤした疑問への答えを聞く事が出来た。
そう、国王という立場には自分しか居ない。
それに助言してくれるなら有難い。
しかし、それで王の師匠気取りで王を従えようというのは、不敬なのだ。
少年王の脳裏には、自分の哲学に沿った政治をしてああだこうだと師のように振る舞い、国の在り方まで勝手に決めている宰相が思い浮かんだ。
確かに善政を敷いているが、それは何の為のものなのか、いずれ問わねばなるまい。
「万物流転か……」
「は?」
王の独り言を、今度はコマンオスの方が計りかねる。
「いや、宰相は『国の在り方を含め、万物は全て姿を変える、それを受け容れろ』と言っているのだ。
コイレ・シリアや小アジアを失ったのも現実。
反乱で上ナイルが従わないのも現実。
だから、現実を受け容れ、そのように国の形を変えろと言っておる。
将軍はどう思う?」
コマンオスは少しだけ考えてから答えた。
「あながち間違ってはいません。
現実をしっかり見る事は重要です。
自分は少しばかり医学を習得しましたが、そこで死病にあるか、治るのかを見定めるのは治療をする上で重要でした。
しかし、治る病の者に対し、今のままでいろと言うのは誤りです。
現状を認識した上で、どうしたいのかという意思は重要です。
確かに死病の者に余計な期待を持たせるのは間違いです。
しかし、自分が見るにエジプトの病は死に至るものではありません。
そこで治療を放棄して為すがままに任せよという宰相の意見、それならそれで良いでしょう。
宰相が王ならば、です。
しかし、肝心の陛下が治療を望むなら、そうするものです」
「よし、決まった!
将軍よ、上ナイル地方の反乱を鎮圧せよ!
その為の全権を与える。
これが私の意思だ。
宰相の哲学に優越する、王の意思だ。
将軍が反乱を鎮圧している間に、私は私の職を全うしよう。
将軍が反乱を鎮圧した後、再び反乱を起こさせぬのは私の務め。
ともに励もうぞ!」
プトレマイオス5世の目には、強い光が宿っていた。
今日も19時に次話をアップします。




