これは怖い話ではありません。不思議な話です。「椅子の毛」
これは私の身に実際に起きた、脚色なしの不思議な話である。実話ゆえにオチもなく、いわゆる怖い話ではない為、そういったものを期待する方はガッカリするかもしれない。
深夜、仕事を終えて家に戻った。いつものようにダイニングチェアに腰を下ろす。──その瞬間、妙な違和感に気づいた。
椅子のコロが、動かない。
つい半日前。昼過ぎに家を出たときには、軽快に床を滑っていたはずだ。何年も使っているが、動きが悪くなったことなどなかった。なのに今は、まるで足を縛られたように固く、沈黙している。
不審に思い、椅子をひっくり返す。四つのコロが天井を向いた。
そこで私は目を疑った。
すべてのコロと軸の隙間に、髪の毛がみっちりと絡まっていたのだ。一本二本ではない。黒い繊維のように幾重にも絡まり、金属と樹脂の隙間を塞ぎ込んでいる。
徐々にゴミが溜まり、少しずつ動きが鈍る──そういう理屈なら理解できる。だが、昼までは滑らかに転がっていたのに、たった半日のあいだに、しかも誰もいなかったはずなのに突然、四つとも完全に塞がるなどあり得るのだろうか。
私はその毛束に触れ、指を滑らせた。
毛の硬さ、手触り、そしてところどころ感じられる、癖による毛の太さの違い──それは私自身の髪の毛のように思えた。
だが私は当然、ここで髪を切るようなことはしない。掃除も欠かさずしている。抜け毛が床に落ちることはあるだろうが、車輪の奥にここまで大量に潜り込む理由はない。ましてや四つのコロすべてに均等に詰まるなど、不自然としか言いようがなかった。
結局、カッターを手に取り、コロと軸の隙間に刃を差し込む。
少しずつ、慎重に、髪を切り裂いては引き抜いた。金属に刃が擦れるノイズが、深夜の静まり返った部屋に響く。少しずつ、また少しずつ黒い毛が刃に絡み、床に落ちていく。
四つのコロすべてから毛を取り除くのに、思ったよりも時間がかかった。
作業を終え、椅子を床に戻してみる。──軽快に転がった。昼のときと同じように。
それだけのことだった。
けれど私は今も、ふと考えてしまうのだ。あの毛束は、いつ、どのようにして、あれほどまでに絡みついたのか。
怖い話ではない。けれど、確かに私の身に起きた、不思議な話である。