第7話 自由への一歩
「……多分これ、無理だ。」
あのあと、ジルベール様が「送っていく」と聞かず、エルヴァン家の馬車に乗り、カルバン家の馬車と二台で侯爵家に帰ってきた。
そして今、帰ってきたままの姿で、私は私室のベッドにダイブした。
「ミラリス様、どうされたのですか? 体調でも悪いのですか?」
アンが心配そうに私に駆け寄り、熱がないか額に手を当てて確認する。
「ごめんね、アン。私、今まで猫をかぶってたんだ。」
「……?」
「本当は完璧な淑女なんかじゃないし、丁寧な言葉遣いもむしろ苦手で……。目的があって頑張ってたんだけど、もう疲れちゃった。」
淑女を演じていた私をたくさん褒めてくれていたアンに、がっかりされるのではないかと思うと、怖くて顔を上げられなかった。
「ごめん……一人にして……。」
──五年……いや、前世の記憶を取り戻した六歳から数えれば九年。
人と関わるのが好きなのに避け続け、楽しい場所が好きなのに家に閉じこもり続けた。
でも、今日一日で、その努力がすべて無駄だったような気がしてならない。
避けてきた主要キャラは、すでに小説とは違う人生を歩んでいるし、目立たないように振る舞っても意味がない。ヒロインに嫌がらせをしなくても、断罪される未来を恐れていたのに、そもそも彼女にすら出会っていない。
それどころか、今日の魔法騒ぎやジルベール様と殿下の件で、すでに私は噂の的になっていることだろう。
“目立たない”──そんな簡単なことすら、最初からできていなかったのだ。
そして、なぜか私に好意を寄せるジルベール様……。
彼が愛情を注ぐ相手は違えど、その愛の重さは変わらない。かわし続けるほうが、むしろ後々面倒なことになる気がする。
目立たないこともできない。
主要キャラと関わらないこともできない。
なら、完璧な淑女を演じる必要も、前髪を伸ばして美貌を隠す必要も、地味なドレスを選ぶ必要もない。
“私が我慢してきたことには、何の意味もなかった”
だったら──もう、楽しく生きよう。
私は小説の中の私みたいに悪事は働かない。
きっと普通に生きれば、普通に幸せになれるはず。
もしそれでも処刑される運命なら、何をしても変わらないということだ。
ならば、せめて後悔なく生きたい。
もう、自分を押し殺して生きるのはやめよう。
好きなものを身につけ、好きな髪型をして、“私らしく”生きる。
◆◇◆
「ごきげんよう。」
「ミラリス様!? ご、ごきげんよう!」
翌朝、私は前髪を眉下まで切りそろえ、編み込みのハーフアップにして、風魔法と火魔法で髪を巻いた。
そして、堂々とクラスメイトに挨拶をする。
「ミラリス様、なんか今日、一段と美しすぎない?」
「あの髪型、どうやってるのかしら……?」
「なんか堂々としていて、かっこいいね。」
──こんなに嬉しいことが、今まであっただろうか。
この世界には、凝ったヘアアレンジの文化がほとんどない。
髪型のバリエーションは基本、下ろす・ハーフアップ・ポニーテール・ツインテールの四種類程度。
もちろん、コテやアイロンもない。
美容師にあたる職業は「髪切り師」と呼ばれ、その名の通り、ただ髪を切るだけの仕事。
でも、私は前世で毎日自分でヘアアレンジをしていたから、結構得意なのだ。
「髪、やりましょうか?」
クラスメイトの小声の会話が聞こえたので、声をかける。
「えっ……っ! でも、私、子爵家の娘で、侯爵令嬢のミラリス様にそんなことさせるなんて……!」
慌てる彼女に、私はにっこり笑った。
「爵位とか気にしないで。せっかく長くて綺麗な髪なんだし、やらせて?」
「……はい!」
「名前は?」
「セシル・インジーでございます!」
「セシルね。そっちの子は?」
セシルと小声で話していたもう一人にも声をかける。
「私も……よろしいのですか?」
「うん! 名前を教えて。」
「マリル・リンガルです……。私も子爵家の娘でございます。」
「マリルね。私はミラリス・カルバン。二人とも、よろしくね。」
「もちろん存じ上げております!」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
──初めて友達ができた。
今日は侯爵家以外の人と、十五年分話した気がする。
こんなに楽しいなら、もう自分を取り繕う必要なんてない。
いろんな人と仲良くなって、いつかは恋もしてみたい。
◆◇◆
「……っ」
突然、机を”コンコンッ”と軽く叩かれる音がして、私は目を覚ました。
「今週までは午前授業だろ? みんな帰ったぞ。」
そこには、ジルベール様の姿があった。
「 ジルベール様、なんでまた一年の教室に?」
「君を迎えに来たんだ。」
「……え?」
呆然とする私をよそに、ジルベール様は当然のように私の鞄を手に取った。
「荷物、持つぞ。」
「い、いえ、そんなことさせるわけには──」
「君を迎えに来たと言っただろう?」
まっすぐに私を見つめる瞳は、いつもの飄々としたものとは違い、どこか真剣だった。
「……なぜ、私なんですか?」
ジルベール様は、一瞬だけ言葉に詰まる。
「君が……俺の目に映る全てを変えてしまったから。」
「……え?」
「五年前、一度だけ会ったあの日から、ずっと貴女のことを考えていた。昨日、それが確信に変わった。」
「……。」
「ミラ、俺は君が好きだ。」
その瞬間、私の心臓は大きく跳ねた。
「……え、な、なんで……。」
「理由なんていらない。ただ、そう思うんだ。」
じっと私を見つめるジルベール様の目には、一片の迷いもなかった。
──こんな美形に、こんな真っ直ぐに想われる人生。
“処刑フラグ”だなんて、考えるのが馬鹿らしくなるくらいに。
──でも。私は死ぬかもしれない。
「……っ」
私の目が急に熱くなる。
必死にこらえようとするけれど、溢れ出そうな涙を止めることができない。
「どうした?泣いてるのか……?」
ジルベール様がそっと私の顔を覗き込む。
「泣いてない、泣きたくない……」
「どうして?」
「……昨日、自分らしく明るく生きるって決めたばかりなの」
俯いたまま立ち上がる。
「ほら、行きましょ」と教室の扉に向かおうとした、その瞬間──
ジルベール様が私の腕を引き、強く抱きしめた。
「理由は分からないが、泣くのも”自分らしい”の範疇なのではないか?」
「……っ、人前で泣かないのが私らしいんです」
「なら、今、俺は見ていないぞ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていたものが一気に切れた。
「……っう……ぐ……」
彼の胸に顔を押し付けるようにして、声を抑えながら泣いた。
今まで我慢してきた分、全ての不安を吐き出すかのように……
制服が私の涙で濡れていくのが分かったけれど、ジルベール様は何も言わずにそのまま抱きしめていてくれた。
どれくらい、こうしていたのだろう。
涙が止まって、気持ちが落ち着いたころ、急に恥ずかしさが込み上げてくる。
──このままじゃいけない。早く離れなきゃ……!
そう思って体を離そうとした瞬間、ジルベール様が私の顔を両手で包み込んだ。
「ミラリス、昨日貴女が怒った時みたいに気軽に話してくれ。そして、俺のことはジルでいい」
「……ジル?」
「君にそう呼ばれる日が来るなんて夢みたいだな」
「またまた、大袈裟ね……私はミラと呼んで」
「ミラ……好きだ」
またもや、教室に静寂が広がる。
「ミラ……?」
ジルベール様は、不思議そうに小首を傾げる。
だけど、私はそれどころじゃなかった。
「な、なんで私が好きなの? 私たちは五年前に一度会っただけでしょ?」
少しだけ難しい顔をしたが、すぐに返答した。
「多分……一目惚れというものだと思う。」
その瞬間、彼の整った顔が少し赤らみ、照れた表情を見せた。
──待って、顔整いの照れ顔やっばい。心臓破裂するかと思った。
「照れてるのか? 可愛いな……」
「もう、ちょっとストップ! 恥ずかしいからホントにやめて!」
小説の中の処刑される悪役令嬢に転生して、なんて最低最悪な人生だと思っていた。
でも、こんな美形に愛を囁かれる人生──
……案外、捨てたものじゃないかもしれないわ。