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番外編 育てるということ



ジルと結婚して、お腹に子供を授かった

ある日の晩のことだった。


「ゔ~……子供をお腹で育てるのがこんなに大変だとは……」


妊娠初期の悪阻(つわり)が私を容赦なく襲っていた。吐き気が波のように繰り返し押し寄せてきて、横になっても気持ちが悪くて眠れない。ベッドのふかふかとした感触が、今はむしろ気持ち悪さを助長するように思えて、私はそっと身を起こし、静かに寝室を抜け出した。


「こっちの方が……少し楽かも」


寝室の隅に置かれた、程よく硬さのあるソファに体を預ける。背中や腰に少しだけ圧がかかるその感覚が、不思議と安心感をくれた。


治癒魔法を使えば楽になるのかもしれない。けれど、万が一、お腹の子に影響があったら──そう思うと、怖くて自分の体にすら魔力を流すことができなかった。そんな不安と闘いながら、ただ耐えるしかない日々。


(世の中のお母さんたちって……ほんと、すごい……)


そんなことをぼんやり考えていたら、ようやく意識がふわふわと浮いてくる。やっと眠れそう……そう思ったその時だった。


「ミラっ、なぜこんなところで寝ているんだ!?」


静かに寝室へ戻ってきたジルが、ソファで横になっている私の姿を見て、思わず声を上げた。


心配そうに眉を寄せ、すぐに駆け寄ってくる。そして、何も言わずに私を抱き上げようと腕を差し出したその瞬間──


私は無言でジルの胸を軽く押し返し、顔を背けた。口元と鼻を必死に手のひらで覆い、必死に息を殺す。


(……無理……っ!ジルの体に塗ってるあのボディオイルの匂いが、今の私には……!!)


「……どうした? ミラ……?」


戸惑うジルの声。私が彼を拒絶するなんて、本当に久しぶりのことだったから、驚いているのが声に滲んでいる。


(あああ……吐き気が……でも、ジルに吐くところなんて見られたくない!)


とにかく今は、距離を取ってほしかった。私は突き出した手を振って、「こっちに来ないで」と必死にハンドサインを送る。


……が、ジルはそれでも私の側にしゃがみ込んで、じっと私の顔を覗き込んできた。


「……俺は、ミラに嫌われるようなことをしたのか?」


(ちがうの、そうじゃないのに! でもそれを今、言葉で伝えたら──)


ジルの声が近すぎる。匂いが、吐き気が……私はギリギリのところで決断した。もう、言わないと限界だ。


「俺が気に障ることをしたなら……教えてくれ。どうしても……わからない」


ジルの不安げな目が、私を見つめていた。申し訳なさと、愛しさと、情けなさが入り混じるその瞳。


私は震えるまま、彼の方に顔を向け、覚悟を決めた。


「ジル……ごめん、もぅムリ……うっ……」


 


◇◇◇


間に合わなかった。


私は結局、ジルの目の前、しかも彼の服の上に──盛大に吐いてしまった。


「うう……っ、ご、ごめんなさい……」

「気にするな、大丈夫だ。今は体調の方が心配だ」


ジルは一切、顔をしかめることもなく、優しく私の背中を撫で続けてくれた。そして、私をそっと抱え、部屋に呼び鈴を鳴らすと、すぐに使用人を呼びつけ、後の掃除や私の着替えを任せてくれた。


それから彼は、一度も私を責めることなく、「すぐ戻る」と言って浴室へ向かい、丁寧に体を洗い、ボディオイルの香りをすっかり落としてきてくれた。


その姿に、私はしみじみと思う。


「ジルって……優しいわね」

「俺が?」

「うん。服を汚してしまったのに、嫌な顔ひとつしなかった」

「それは……」


ジルは少し照れくさそうにこめかみをかいて、私から目を逸らした。そして、顔をほんのり赤くしながら口を開く。


「嫌われたのかと、ほんとにショックだったんだ。ミラが吐いた瞬間に理由がわかって……安心した。むしろ、ちょっと嬉しかったくらいで……」

「えっ……汚れたのに?」

「ああ、そんなの褒美みたいなもんだ。ミラの体から出るものなら──」

「いや、もういい。ストップ。ほんとに」


聞いてはいけない何かを聞きそうになって、私は慌ててジルの話を遮った。


(……うん、やっぱりジルって本当にどうかしてる。でも、こういうところ、嫌いになれない)


「悪いな……ミラにばかり負担をかけて」

「そんな。これは私にしかできない大仕事なのよ。ジルは十分すぎるほど支えてくれてる。悪く思う必要なんてないわ」

「……そう言ってくれるのは嬉しい。でもやっぱり、心配だ」

「大丈夫よ。好きな人との子供を、私が産みたいだけ。だから」

「そんな寂しいこと言うな。俺にできることは何でもする。遠慮せずに言ってくれ」


そう言ってジルは私の頭に手を伸ばしかけたけれど、私に気を使ってか、寸前でその手を引っ込めようとした。


その手が触れてくれないことが、何よりも寂しいと思ってしまった私は──


彼の手をそっと取り、自分の頬にあてた。


「……ミラ、大丈夫か? その、匂いとか……また気分が悪くなるんじゃ……」


「大丈夫。ジル、ちゃんと洗い流してきてくれたじゃない。それに、この手に触れてもらえない方が、よっぽど具合が悪くなりそうだわ」


驚いたように目を見開くジルの表情が、優しく緩んだ。


私たちはきっと、まだ戸惑うことだらけだ。初めてのことばかりで、すれ違うこともあるだろう。でもそれでも──


この人と一緒なら、きっと乗り越えていける。


ジルと私の血を引いたお腹の子が、どんな子であっても。


私たちはその命を、全力で守り、育てていくのだ。


今はただ、この子が無事に産まれてきてくれること──それだけを、心から願っている。



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