第52話 目覚めの冬
──ぼんやりと、意識が浮上する。
まぶたの裏に広がるのは、ぼやけた光。
静かで、どこか懐かしい温もりに包まれている気がした。
(ここは……)
ゆっくりと目を開く。
すると、視界に映ったのは、酷く疲れた顔をした ユリスお兄様 だった。
「ミラリス!ああ、良かった……!」
お兄様は深い安堵の表情を浮かべると、私の手を握りしめた。
その手は、少しだけ震えている。
「お兄様……私……」
言葉を紡ごうとした瞬間、彼は私を見つめ、少しだけ怒ったような口調で言った。
「お前は、本当にバカな妹だ」
「え……」
「ジルベールくんを追いかけて、古代魔竜のところまで行くなんて!」
そう言って、お兄様は私の手を握ったまま、その手に額を押し当てる。
ふっと息を吐くように、掠れた声が耳に届いた。
「本当に心配したんだ……」
その声が、微かに震えているのに気づいた瞬間、胸の奥が締めつけられる。
お兄様は、どれほど私のことを案じてくれていたのだろう。
「ごめんなさい……」
私は小さくそう呟き、強く手を握り返す。
すると、お兄様はゆっくりと顔を上げ、私の目をじっと見つめた。
「……お前が生きていてくれて、本当に良かった」
優しい微笑みを浮かべながら、そう言ってくれる。
私は一度まばたきし、ふと、気になっていたことを思い出す。
「お兄様……あの……」
そこまで言っただけで、お兄様はすぐに察してくれた。
「ジルベールくんのことだろう?」
私は小さく頷く。
「彼も無事だよ。ただ……怪我が酷くて、ここには来られない」
やっぱり……。
あの時、私は彼の傷を少しでも癒そうとしたけれど、それだけでどうにかなるほど軽いものではなかった。
彼は大量の血を流していた。
──私たちは、どうやってここまで運ばれてきたのだろう?
そんな疑問が頭をよぎる。
私は何気なく窓の外へ視線を移す。
そして、目を見開いた。
「……雪?」
白い結晶が、静かに降り積もっている。
けれど、確か今は──
「夏のはずじゃ……?」
驚きとともに言葉を失っていると、背後から声が聞こえた。
「……あとは俺から説明するよ、ユリス」
「殿下……」
「酷い顔だな。少し休め」
──アラン殿下。
お兄様は少し躊躇うように殿下を見た後、そっと私の手を握りしめた。
「お兄様、ありがとう。私はもう大丈夫だから……」
「……ああ」
彼は静かに頷くと、殿下に視線を向ける。
「では、あとは頼みます」
そう言い残し、部屋を後にした。
殿下は扉が閉まるのを確認すると、私の方を見て微笑む。
「ミラリス、目覚めたばかりで悪いが、少し話せるか?」
「……はい」
私は小さく頷く。
「アラン殿下……あの時は、勝手にジルのところへ行ってしまい申し訳ありませんでした」
すると、殿下は軽く眉を上げ、首を振った。
「なぜ謝るんだ? 君とジルのおかげで、たくさんの命が救われたんだ。この時代の人間だけじゃない。未来の人間も、大勢な」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥からふっと力が抜けるような感覚に包まれた。
──本当に、古代魔竜は死んだんだ。
けれど、まだ一つ気になることがある。
「それで……なぜ今は冬なのでしょうか? 私、そんなに長く眠ってしまっていましたか?」
殿下は一瞬だけ口をつぐみ、やがてゆっくりと言った。
「ああ……それは、俺たちも洞窟に入って初めてわかったことなんだが……」
殿下は少し間を置き、真剣な表情で続ける。
「あの洞窟は、時間の流れが早い」
「時間の流れが……?」
「正確なことはまだ調査が必要だが、あの洞窟では、内部の一時間が外の数日分に相当する らしい」
「そんな……」
驚きに息を呑む。
「俺たち討伐隊が洞窟に潜ったのは、君がジルを追いかけた 二ヶ月以上後 のことだった」
「二ヶ月……!?」
「なのに、君たちは生きていた。重傷を負いながらも、な」
「……それじゃ、外に出たときには、さらに時間が経っていたということ?」
殿下は頷く。
だから、私がジルを追ったのは、彼が洞窟に潜って 五日以上後 のはずなのに……。
それでも彼は、生きていたのね。
──今は、とにかくジルに会いたい。
「私、ジルに会いたいです……!」
「……ああ、そう言うと思った」
殿下は小さくため息をつくと、私をじっと見つめた。
「だが、ミラリス。君も怪我が酷いんだろう?」
「え……?」
自分の体を見渡すと、異様な違和感があった。
布団の中で肌に触れるものが、普段とまるで違う。
(何……?)
胸の奥で小さな不安が膨らむ。
ゆっくりと布団をめくり、視線を落とすと──そこには 包帯に覆われた自分の体 があった。
腕も、足も、ぐるぐると白い布で巻かれている。まるで自分の皮膚の色がどこにも見えないほどに。
その異様な光景に、思わず息をのんだ。
「ミラリスは足の傷が酷かったんだ。特に靴を履いていなかっただろう……皮膚はほとんど剥がれていて、魔物の血肉を踏んでいたからか、酷い熱を出していたんだ……まだ歩けないと思う」
アラン殿下の冷静な声が聞こえる。
(靴……履いてなかった……?)
そういえば、ジルを追いかけたとき、私は……
──何も考えずに走り出していた。
洞窟の中を駆け抜け、荒い岩肌を踏みしめ、気づけば魔物の残骸の上を……。
(そんな状態で……私は……)
思い出した途端、足の感覚が消えるような気がした。
「そうだったんですね……」
自分の声が、やけに遠く感じる。
でも、今はそんなことより……。
「では、ジルの怪我の具合だけでも教えてください!」
勢いよく顔を上げ、殿下を見つめた。
すると、殿下は小さく息をつき、額に手を当てながら、少し難しい顔をする。
「ミラリス……言葉で聞くと酷い怪我に聞こえるが、アイツは元気だ。それだけはわかってくれ」
「はい……?」
今、“酷い怪我” って言いましたよね?
「ジルは、何十本もの骨が折れ、失血状態だった。ミラリスのおかげで内蔵の損傷は激しくなかったが……かなり危険な状態だったんだ」
──何十本もの骨が折れ、失血状態だった。
その言葉が頭の中で反響する。
胸の奥に冷たい何かが落ちたような気がした。
「────ミラリス!?」
殿下の驚いた声が響いた瞬間、私はベッドから身を投げ出していた。
足を床につける。
───っ!
痛みが、全身に電撃のように走る。
足の裏が焼けるように熱く、立っていられないほどだった。
でも、それでも──。
「ミラリス、ジルは元気だから戻れ」
アラン殿下の声が、冷静に響く。
「それでも会いたいんです……!」
震える足に力を込め、私は壁を伝いながら一歩、また一歩と進む。
痛みなんて関係ない。
確かに生きていると聞いた。でも、私は 自分の目で見なければ安心できない。
「はぁ……わかった」
殿下が深く息をついた。
「では、触れる許可をくれ」
「え……?」
思いもよらない言葉に、足を引きずりながら殿下を見上げる。
「ジルに恨まれないようにだ。無許可では触れられない」
「……あ、はい。どうぞ……」
私が頷いた瞬間── ふわりと体が浮いた。
「えっ!?」
目の前で視界が揺れ、自分の体が宙に持ち上げられていることに気づく。
──お姫様抱っこ!?
「ジルの元へ連れていけばいいんだろう」
「あ、あの……こういうのは侍従に頼めば……」
「その侍従がジルに殺されるだろう」
……。
アラン殿下は、ひどく呆れた顔でそう言い放った。
(ジル……本当にそんなに怒るの?)
唖然としながらも、私はその腕に抱かれたまま、ジルがいるという城の客室へと運ばれていった。
ノックの音が静寂を破る。
「俺だ。入るぞ」
殿下が短くそう告げ、扉を押し開ける。
私は殿下の腕の中で、小さく息をのんだ。
──すぐに目が合った。
ベッドの上。
ジルは、枕に頭を預けながらも、はっきりとこちらを見つめていた。
その顔に生気があって、私は心底、ほっとした。
「ジル……!」
思わず名前を呼ぶ。
「ミラ……よかった。目が覚めたんだな……」
ジルの表情が柔らぎ、ほっとしたような微笑みが浮かんだ。
けれど、次の瞬間──。
「それでアランは、誰の許可でミラに触れているんだ?」
「……」
ジルの目が 鋭く なる。
まるで獲物を狙う猛獣のように。
私はギクッとした。
そして、抱えたままの殿下が 盛大にため息をつく。
「ミラリスの許可だ!ここまで連れてきてやったのになぜ俺が恨まれる!」
そう言いながら、殿下は私をジルのベッドの上に降ろした。
柔らかい布団の感触が、熱を帯びた体を優しく受け止める。
「そうなの!私、この足でジルの元まで無理に行こうとしたから……でも、ジルが元気そうでよかった」
「ミラ……そばにいられなくてごめん……」
ジルが静かに呟く。
「何度か様子を見に行ったんだけど、その度に戻されてしまって……」
「え、だって……たくさん骨折しているのでしょう?」
「骨が折れていたって歩けるよ、医者が無駄に心配するんだ」
(……えぇ……?)
私はゆっくりと殿下の方を向いた。
「だから言っただろう、元気だと……元気過ぎて困るくらいだ」
殿下は呆れた顔でそう言い捨てると、 「あとは二人で」 と言って部屋を出て行った。
扉が静かに閉まる。
部屋には私と、ジルだけが残された。
ジルは私をじっと見つめている。
そして、私は……彼の手をそっと握る。
「……無事で、よかった」
ただ、それだけを伝えたかった。




