第47話 確かめないと……
──意味がわからない。
私の耳に届くアラン殿下の言葉が、まるで異国の言語のように理解できない。
脳が現実を拒絶する。
心が、言葉を拒む。
「アラン……? 一人でって、なに……?」
隣にいるリアちゃんが、私よりも先に声をあげた。
その表情は、私と同じように困惑に染まっている。
アラン殿下は、下唇を噛みしめると、胸に手を当てて深呼吸をする。
自分を落ち着かせるための仕草なのだと、わかる。
──なにを言うつもりなの?
悪い予感が、背筋を冷たく撫でていく。
「一週間前、ジルが陛下に提案しに来たんだ。ミラリスを抱くことで微量ながら魔力量が増えていて、古代魔竜に近い魔力量になってきている。だから、魔竜が寝ている間に一人で討伐に行かせてほしいと……」
……なにを言っているの?
「魔竜が目覚めて被害が出る前に討伐……無理でも弱らせることができれば、被害を最小限に防げると」
言葉の意味は理解できた。
けれど、理解したくない。
「そんなの、犠牲になりに行くようなものじゃない……!」
私は、拳を握りしめた。
ドレスの裾がくしゃりと歪むほどに、強く。
怖い。
この先の話を聞くのが、怖くてたまらない。
「そうだな……でも、父上……陛下は了承した」
──了承?
「ジルはもう成人だ。本人の希望で、家族にも、ミラリスにも、誰にも伝えないでほしいと言われたんだ」
「……」
私の喉が、ひゅっと音を立てた。
息ができない。
「城から魔竜の眠る森の洞窟まで、二日はかかる。一週間帰らなかったら……」
アラン殿下は、口を噤む。
その先の言葉を、どうしても言いたくないのが伝わってくる。
でも、リアちゃんは泣きながら叫んだ。
「帰らなかったら、なんなのよ……!」
震える声。
落ちる涙。
そして──
「…………死んだと伝えてくれと……っ」
──その言葉が、私の胸を貫いた。
ジルが、死んだ?
耳鳴りがする。
心臓が、痛い。
「いや……嘘よ! アラン……なにかの冗談よね?」
リアちゃんがアラン殿下の元へ駆け寄り、胸を叩く。
信じたくない。
信じられるはずがない。
だって、ジルは──
あの強く私を抱きしめた腕も、
夜空のようにさらさらと風になびく髪も、
サファイアのように輝き、私を愛おしそうに見つめる瞳も、
低く甘く、私に囁いた声も、
熱を帯びた唇も──
もう、ないと言うの?
──そんなのおかしい。
たった一週間前、ジルはここにいた。
私を抱いて、私の名を呼んで、生きていたのに。
絶対に違う。
ジルが、そんな簡単に死ぬわけがない。
私は信じない。
この目で見るまで、絶対に。
「遺体は見つかったんですか……?」
震える唇を抑えられないまま、私は尋ねた。
「……魔竜の洞窟だ。危険で探しに行くことはできない……探しに行っても、魔竜にとって人間は食糧だ。もしかしたらもう──」
──喰われている。
そう続くはずの言葉が、私の脳内でこだまする。
胃の奥がぎゅっと縮こまり、吐き気が込み上げる。
視界が歪む。
指先が冷たい。
だけど──
探しに行ってもいないのに、死んだなんて決めつけるのは間違いだ。
まだ可能性はある。
まだ、間に合うかもしれない。
「ミラリス。ジルが、約束は守れと言っていた……内容はわからないが、思い当たるなら守ってやってくれ」
──約束。
ジルは、私に言った。
もし自分が死んだら、前を向いて生きろと。
そして、なにがあってもジルのそばに行くなと。
ジル……
あなたは、こんな状況を想定していたから、あの約束をしたのね。
でも、もし逆の立場だったらどうするの?
──あなたは、私を見捨てられる?
──私のために、何もしないでいられる?
私は、無理よ。
「ごめん、ジル」
私は、小さく呟いた。
そして──
自分に転移魔法をかける。
“古代魔竜の眠る洞窟まで連れて行って”と、強く願う。
「ミラリス……どこに!」
アラン殿下の焦った声。
伸ばされた手。
リアちゃんの、ぐしゃぐしゃの泣き顔。
それらすべてを残して、私は光の中へ消えた。
◇◇◇
洞窟の奥へ───
気づくと、私は深い森の中にそびえる巨大な洞窟の前に立っていた。
入り口はぽっかりと口を開けた闇そのもので、どこまでも続く深淵に引きずり込まれるような錯覚を覚える。冷たい風が洞窟の奥から吹き出し、背筋を撫でた。
ここが、古代魔竜が眠る洞窟……。
中は奥深く、どこまでも続く闇に包まれている。一歩足を踏み入れたら、戻れないかもしれない──そんな不吉な直感が脳裏をよぎる。
「ジルはこの奥にいるかもしれないのね……」
不安と焦燥を押し殺し、私は魔力を節約するために魔術で小さく火を灯す。
「ルーチェ」
そっと手を翳し、小さな魔術陣を張ると詠唱を紡ぐ。淡く揺らめく小さな炎が掌の上に灯り、仄かに周囲を照らした。
足元を確かめながら、私はゆっくりと洞窟へと踏み入る。
───そして、すぐに目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
「……少し歩いただけなのに、もうこんなに……!」
洞窟の地面には、無数の魔物の死体が転がっていた。
黒く焦げたもの、鋭利な刃物で断ち切られたようなもの、内臓をぶちまけたもの……。あまりに凄惨な光景に思わず喉の奥が詰まりそうになる。
この洞窟には、魔竜の強大な魔力に引き寄せられるように中級から上級の魔物が巣食っていると聞いた。それでも、これだけの数をたった一人で倒しながら進んだのだとしたら───
「ジル……魔竜の元に着くまでにどれほど傷を負ったの……?」
まるで血の匂いが染みついた空気を吸い込むように、胸が苦しくなる。
──私は、考えるよりも先に走っていた。
焦燥に駆られた足が止まらない。
だが、ふと気づく。
「……これじゃあ、自分の身も守れないわね」
魔物の血が染み込んだドレスの裾が、足元に絡みつく。今のままでは動きづらくて仕方がない。
「ヴェントラシエラ」
詠唱と共に、風が鋭い刃となって吹き抜ける。
シュンッ……!
ドレスの裾が宙を舞い、膝上まで切り裂かれた。
しかし──鋭すぎる風刃は、私の肌も容赦なく切り裂いた。
薄く走る痛みと共に、手足や頬に細かな切り傷が浮かぶ。ジルならもっと精密に操れたのだろうけど、私はまだ未熟だ。
でも、痛みなんてどうでもいい。
こんなものよりも、胸を締めつける不安のほうが何倍も苦しい。
魔力を無駄遣いしたくない。だから、治癒魔法も使わずに、踵の高いヒールを脱ぎ捨て、裸足のまま走る。
冷たい魔物の血が、足にまとわりつく。
ぬるりとした感触が肌を伝い、ぞっとする。それでも、私は立ち止まらない。
「……ジル……」
どこにいるの。お願い、答えて……。
──その時だった。
グルルルルル……
低く唸るような音が洞窟に響いた。
同時に、凄まじい魔力の波動が空気を震わせる。
「魔竜……!」
息を呑む間もなく、強い風が吹きつけ、洞窟内の空気がざわめく。
感じる……この魔力の強さ。間違いない、すぐ近くにいる。
私は、一目散に気配のする方へ走った。
そして──洞窟の最奥に、淡い青の光が揺らめいているのが見えた。
「あそこだわ……!」
足を止めずに駆け抜ける。
最奥の空間は広大で、天井は遥か彼方にそびえている。壁に埋め込まれたクリスタルのような魔石が、薄暗い光を放ち、ほのかに空間を照らしていた。
火を灯さなくても、視界ははっきりとしている。
私は、そっと身を隠しながら覗いた。
──そこには、巨大な魔竜がいた。
だが、その魔竜は深い傷を負い、弱々しく身を横たえていた。
その姿を見た瞬間、希望が胸を打つ。
魔竜がまだ完全に健在ではないのなら、ジルも……!
「ジル……どこ……?」
辺りを見回す。
洞窟の岩壁は所々崩れ、戦闘の激しさを物語っていた。だが、どこを見てもジルの姿がない。
私は、さらに身を乗り出して目を凝らした。
───そして。
見えた。
崩れた岩のそばに、壁にもたれかかる夜空色の髪。
傷だらけの体からは、血が流れ続けている。
「ジル……!!!」
その瞬間、身を隠すことすら忘れ、私はジルの元へ駆け寄った。
魔竜は、私の存在に気づいているのかいないのか、動こうとしない。
そんなことはどうでもいい。
私はジルの肩に触れた。
ひどい……
傷が多すぎる。どこが致命傷なのか、もはや判別できないほどに。
「血の量が……すごい……」
震える手でジルの頬に触れる。
生きているのかどうかも、一目ではわからない。
「ジル……お願い、目を開けて……」
声が震える。喉が詰まりそうになる。
私は、息を呑みながらジルの名を呼び続けた。
───お願い、まだ死なないで。