第46話 帰ってこない
夜が明け、窓の外からうっすらと朝日が顔を出し始める頃。
私はベッドの上で、シーツに包まれたままぐったりと横たわっていた。
肌にはまだ昨夜の余韻が色濃く残り、指先まで微かに痺れるような感覚が続いている。
──全身が、ジルの熱で蕩けそう。
荒い呼吸を整えながら、私は微かに身じろぎする。
「ミラ、無理をさせたな」
低く優しい声が耳元で囁かれる。
横を見ると、ジルが私の頬をそっと撫でながら、申し訳なさそうに微笑んでいた。
──本当に鬼畜。
「……ジルの昨日の宣言通り、クタクタになるまで抱き潰されるとは思わなかったわ」
私は恨めしげに彼を見上げる。
それでも、睨むような力すら入らず、ジルの腕の中で甘えるような格好になってしまう。
鍛錬を積み重ねた強靭な肉体を持つ男の体力に付き合わされるのが、どれほど無謀なことだったか……
痛感している。
「そんなに酷かった?」
ジルが喉の奥でくすりと笑いながら、私の額に軽く唇を落とした。
「……とんでもなく濃厚だった、という話をしているのよ」
目を逸らしながら呟く。
──思い出すだけで、顔が熱くなる。
ゆっくりと全身を愛おしそうに撫でられたかと思えば、次の瞬間には激しく求められた。
けれど、そのすべてが痛みを伴うことなく、私の身体を丁寧に悦楽へと導いていく。
指先も、唇も、舌の先までもが、私の肌の隅々にまで愛を刻み込んだ。
気がつけば、全身に薔薇の花びらのような紅い印を散りばめられ、彼の所有を刻まれたかのようだった。
何度も何度も、身体の奥から震えが溢れ、私は果てるたびに彼の腕の中へ崩れ落ちた。
それでもジルは止まらなかった。
幾度も幾度も愛を注ぎ、私がどれだけ限界に達しても、彼はただ愛し続けた。
まるで、この世のすべてを私に捧げるかのように。
「……」
私はシーツを引き寄せ、身体を丸める。
──蕩けてしまいそうな夜だった。
「……いたた」
ほんの少し動いただけで、腰に鈍い痛みが走る。
思わず呻くように声を漏らし、ジルが気遣わしげに覗き込んだ。
「腰が痛いか?」
「……ええ、もう慣れたけれど」
私は呆れながら、手を腰へと添える。
淡い光が指先に集まり、治癒魔法が発動する。
やわらかい光に包まれた途端、痛みがじんわりと消えていくのがわかった。
「ミラ、眠いだろ? 眠っていいぞ」
ジルが私の髪を撫でながら、そっと囁く。
「……ジルは?」
私が問いかけると、彼は一瞬だけ視線を彷徨わせた後、微笑んだ。
「俺は、しばらく帰れないかもしれない。ミラと少し眠ったら、すぐに出る」
──なぜだろう。
その微笑みの奥に、寂しさが滲んでいるような気がした。
(……気のせい?)
ほんの一瞬、胸に不安がよぎる。
けれど、それを口にする前に、ジルの手が私の頬に触れた。
「ミラ、あまり無理をしないでくれよ」
「……ジルもよ?」
私は彼の手の温もりを感じながら、そっと言葉を返す。
治癒魔法は、傷や痛みは癒せても、疲れまでは癒せない。
ジルだって、きっと疲れているはずなのに。
──だんだん瞼が重くなっていく。
意識が、深く深く沈んでいくような感覚に襲われる。
「ミラ、おやすみ」
最後に聞こえたのは、ジルの優しい声。
そして、額に落とされたキスの感触を最後に、私はゆっくりと夢の中へと落ちていった。
◇◇◇
──温もりが、消えている。
目を覚ました瞬間、腕を伸ばして隣の空間を探った。
けれど、そこにいるはずの人の気配はもうない。
ジルはすでにいなかった。
彼がいたはずの場所──まだ微かに彼の体温が残るシーツの上を、そっと手のひらで撫でる。
「寂しいわね……」
ぽつりと零れた言葉が、静まり返った部屋の中に溶けて消えた。
昨夜の余韻がまだ肌に残っている。
ジルの指先が、唇が、どれほど私を求めたか──
思い出すだけで、胸が熱くなる。
愛し合ったあとの心地よい疲れと幸福感。
そして、一緒に眠りにつき、目覚めた時に優しく見つめてくれる彼の瞳。
──それが、今日はない。
彼は、いつの間にか行ってしまったのだろう。
「次は、いつ帰ってくるの……?」
ジルは、しばらく帰れないと言っていた。
きっと討伐の鍛錬や作戦会議、そしてこの国を守るための責務に追われているのだろう。
でも、それでも。
私は彼に会いたかった。
彼が私を抱くことで、魔力量が増加することは、すでにアラン殿下を経由して陛下にも伝えられている。
本当なら、未婚の女が純潔を捧げているなんて、知られるわけにはいかなかった。
──けれど。
古代魔竜の目覚めが予測されてからは、そうはいかなくなってしまったのだ。
王命として、週に三度以上ジルと交わることが義務となった。
「討伐のため」──その一言ですべてが正当化される。
でも、私は別にそれが嫌なわけじゃない。
私は彼と愛し合える。
どんな理由であろうと、どんな背景があろうと、彼が私を求めてくれているのは伝わっている。
ジルがどんな風に言おうとも、私に触れるときの優しさも、熱も、すべてが彼の本音を語っている。
──それで、充分だった。
それなのに、どうして。
「ジルが言っていた“道具のように扱う”って、きっとこういうことも含まれているのよね……」
ふと、彼の言葉を思い出して、私は小さく息を吐く。
だけど、私にとっては何の問題もない。
だって、私はジルが好きだから。
どんな理由であれ、彼の腕の中にいられるのなら、それでいい。
──それだけで、幸せだった。
「最近、ジルのことばかり考えてしまうわ……」
隙あらば、彼のことを考えている。
彼がいない夜の寂しさ、触れ合う温もりの幸福、ふとした仕草に感じる愛おしさ。
頭の中が、ジルでいっぱいになる。
「私、本当に彼のことが大好きなのね……」
思わず、くすりと笑ってしまう。
こんなにも彼を愛してしまっている。
こんなにも、彼のことばかり。
──学園に入る前の私が聞いたら、きっと信じられないわね。
あの頃の私は、こんな風に誰かを心から想い、愛し、求める日が来るなんて思っていなかった。
だけど、今の私は違う。
ジルを愛している。
彼のことが、どうしようもなく愛おしい。
「幸せだわ……」
静かに目を閉じ、頬を紅潮させながら、私は自分の恋心を噛みしめる。
まさか、このあと自分が絶望することになるなんて──
微塵も、思わずに。
◇◇◇
不穏な空気と告げられた衝撃
「ジル、最近帰ってこないわね……」
リアちゃんの何気ない呟きに、私は手にしていたティーカップをそっとソーサーに置いた。
窓の外では、乾いた風が庭の木々を静かに揺らしている。
「そうだね……」
薄く返事をしながらも、胸の奥がざわつく。
ジルがいなくなってから、もう一週間が経つ。
「忙しいのかな……」
リアちゃんが少し視線を落とし、考え込むように指先でカップの縁をなぞった。
「討伐の鍛錬や作戦会議に加えて、物流や食料の問題まで出ているし……アラン殿下や陛下たちも、やることが山積みだものね」
「アランも、次期国王だものね。実際に魔竜が目覚めた時、ジルと一緒に前線に立つのかしら……」
リアちゃんの言葉に、私はそっと唇を噛んだ。
アラン殿下は王太子だけれど、まだ魔術学園の生徒で制服も赤色だ。
けれど、彼が最も危険とされる前線の攻撃チームに加わる可能性は十分にある。
なぜなら、どこに逃げても死んでしまう可能性が高いから。護られるべき王族なら前線に出て討伐チームに守られながら戦いに加わる方が安全かもしれない。
──もし、本当に古代魔竜が目覚めたら。
アラン殿下も、そしてジルと一緒に戦場へ向かうことになるのだろうか。
そう考えると、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
リアちゃんはまた、どこか遠くを見つめていた。
まるで、何かを見つけようとしているかのように。
リアちゃんは、あの日から変わった。
古代魔竜の目覚めの可能性を知らされて以来、彼女はまるで別人のようになってしまった。
それは、まるで小説の中のリアラ・エルヴァンそのもののように──。
彼女はよく窓の外をじっと見つめるようになった。
どこか遠くに答えを求めるように。
何を考えているのか、何を感じているのか、言葉にしない彼女を見ていると、私の胸がざわつく。
「リアちゃん、隣に行ってもいい?」
「……うん」
静かな返事。
私はリアちゃんの隣にそっと座り、彼女の手を握る。
最近、こうして手を握ることで、少しでもリアちゃんの気持ちに寄り添おうとしていた。
すると、彼女はふっと小さく笑った。
けれど、それはどこか寂しそうな笑みだった。
「私はダメね……」
ぽつりとこぼれた言葉。
「弱いわ……ミラちゃん、私より三つも歳が下なのに、これじゃあ、どちらが年下か分からないわ。妹のように可愛いって思っているのに、全然姉らしくできない」
リアちゃんの顔は、疲れ切っていた。
目の下には薄く影が落ち、頬も心なしか痩せたように見える。
「ちゃんと眠れてる? 眠らないと、心も弱ってきちゃうよ……私も経験あるから、わかる」
──あの夜、悪夢にうなされて、眠れなかった日々。
眠れないことで心がすり減り、次第に弱っていくあの感覚。
リアちゃんが今、まさにその状態なのだとしたら……。
「そうね……」
弱々しく返事をするリアちゃんに、私はそっと彼女の頭を肩へと誘導した。
「少し寝て。もちろん、ベッドで眠れるならそれが一番だけど……」
「ううん、ありがとうミラちゃん。この方が安心する」
そう言って、リアちゃんは静かに目を閉じた。
そして、すぐに小さく寝息を立て始める。
──寝顔が綺麗。
やっぱり、リアちゃんはヒロインなんだなと思う。
でも……。
彼女の夢を聞いたあのとき、私は驚いた。
リアちゃんは、こんなにも強く、周囲に流されずに夢を抱いていたなんて。
だからこそ、彼女はヒロインにふさわしい器を持っていたのかもしれない。
静寂の中、時計の秒針だけが淡々と時を刻む。
──ジルは今、どこで何をしているの?
なぜ、帰ってこないの……?
王命であるはずの行為なら、無条件で私の元に帰らせてもらえるはずなのに。
早く会いたい、触れたい、触れられたい、キスしたい、強く抱き締めたい。
──破廉恥なことばかり考えてしまう。
はやく……帰ってきて。
頭の中がジルのことで埋め尽くされる。
そんなことを考えていると、あっという間に時間が過ぎ、気づけば一時間ほど経っていた。
──突然。
バンッ!!!
扉がなんの前触れもなしに勢いよく開かれる。
私は驚いて肩を震わせ、リアちゃんも目を覚ました。
「2人とも、一緒だったか……!」
そこに立っていたのは、息を切らしたアラン殿下だった。
「ん……アラン?」
リアちゃんが寝ぼけたように目を擦る。
だけど、私は彼の表情を見て、何かがただならぬことを察した。
彼の拳は固く握られ、その手が震えている。
「アラン殿下……どうかなさったのですか?」
恐る恐る問いかけると、彼は俯いたまま、絞り出すような声で言った。
「エルヴァン公爵には王城で知らせたが……君たちには、俺から直接伝えなくてはならない」
「なに……?」
リアちゃんがまだ眠たそうな目を擦りながら、アラン殿下の様子をじっと伺う。
「ジルが……古代魔竜の討伐に一人で向かい、帰ってこない……!」
「え?」
思考が止まる。
──古代魔竜に、一人で?
まだ目覚めてもいないのに、なぜ?
そもそも、ジルが一人で行動するなんておかしい。
絶対に、何かの間違い──。
「……嘘」
声が震える。
全身から血の気が引いていく。
心臓が、強く、強く鳴る。
ジルが、帰ってこない……?




