第41話 家族
「お初にお目にかかります。ミラリス・カルバンと申します」
私は、できる限り丁寧にカーテシーをし、公爵夫妻へと向き直った。
── そ、そういえば、社交界でお会いする話になっていたような……。
リンネ伯爵の一件で慌ただしくしていたせいで、すっかり忘れていた。正式な場で挨拶するつもりだったのに、まさかこんな不意打ちのような形で対面することになるなんて。それも、ジルがいないこのタイミングで……! それに、息子と同衾した直後なんて、気まずいにもほどがある!
15年間、貴族の淑女としての仮面を被って生きてきたのだ。今こそ、それを最大限に活かさなくては。
私は精一杯の優雅な微笑みを浮かべ、心を落ち着かせるように息を整えた。
すると、リアちゃんが私の様子を察したように、柔らかい声で言った。
「ミラちゃん、両親とも公爵夫妻ではあるけど、堅苦しいのはあまり好きじゃないの。楽にしていいのよ」
リアちゃんはそう言いながら、公爵夫妻の方をちらりと見た。
「実はね、公爵らしからないと言われてしまうかもしれんが……高圧的な貴族にはなりたくなくてね」
「そうね、だから娘もあまり淑女らしく育てられなかったのかもしれないわ」
「ちょっと! お母様……それは余計!」
三人のやり取りは、まるで普通の温かい家庭のようで、私は無意識のうちに微笑んでいた。
── 我が家とはまるで違う。
厳格で傲慢な両親に囲まれ、冷え切った空気が当たり前だった私の家とは、正反対だった。
そんな思いに浸っていると、公爵様が穏やかな表情で言った。
「それに、ジルベールが……いや、家族全員だな。本当に君には世話になった。感謝している」
そう言うと、夫妻は揃って私に頭を下げた。
「お顔を上げてください! 私は、たまたまユラギス草を見つけたただの小娘です!」
私は慌てて言葉を返したが、公爵夫妻は顔を上げ、お互いに目を合わせながら、まるで親の顔をしている。
「だとしても、ジルベールの心を救ってくれたのはミラリスさんだと聞いているわ。あの子の今があるのはあなたのおかげよ……」
夫人の言葉は、どこか切なげだった。
ジルは「血の繋がりはない」と言っていたけれど、そんなことは関係なく、公爵夫妻は息子を本当に大切に思っている。ジルには、この気持ちがちゃんと伝わっているのだろうか……。
「ほらほら、お父様もお母様もミラちゃんも、ここで立って話すのではなくて、早く席に着いて夕餉にしましょう!」
リアちゃんが場を和ませるように明るく言い、私たちは席へと向かった。
◇◇◇
食卓を囲む時間は、本当に有意義なものだった。
公爵夫妻は、ジルの幼い頃の話をたくさんしてくれた。やんちゃだった子ども時代、初めて剣を握った日のこと、リアちゃんに負けたくなくて必死に努力していたこと。
そして、リアちゃんやジルが、家督を継ぐ前から領民のためにどれほど真剣に働きかけてきたのかも知った。学園での送り迎えや、授業以外の時間はほとんどジルと一緒に過ごしていた私だったけれど、公爵家に戻った後、彼がどんなことをしているのかは何も知らなかった。
(そりゃあ、寝る時間も削るわけだわ……)
ただでさえ忙しいのに、さらに討伐要請があれば駆けつけなくてはならない。普段から鍛錬も欠かしていないだろう。
(なんだって、ジルの肉体はあんなに……)
そこまで考えて、私はふいに赤くなった。今はそういうことを考える場面じゃないのに!
◇◇◇
夕餉を終え、私はジルの居室へと戻ってきた。
もっと話を聞きたかったけれど、治癒魔法が使えない今、ジルとの初めての行為のせいで腰が痛む。何気なく腰をさすりながら、ベッドに倒れ込んだ。
(それにしても……)
私はふと、部屋を見回した。
ここに案内されたから当然のように戻ってきたけれど、客室ではなくていいのかしら? 公爵夫妻も、私がここに泊まることを知っているようだったし、なんとなく賛成している雰囲気ではあったけれど……。
「はぁ……疲れた……」
ぽつりと呟き、天蓋を見上げる。
その時だった。
コンコンッ
静かな夜の空気を切り裂くように、控えめなノックの音が響いた。
「ミラちゃん」
顔を覗かせたのはリアちゃんだった。
私は慌てて上半身を起こそうとしたものの──
「……いたたっ」
腰に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめる。
「大丈夫!?」
リアちゃんは驚いた様子で駆け寄り、そっと私の身体を支えた。
「リンネ伯爵のこと、聞いてるわ……その時に痛めたの?」
真剣に心配してくれる彼女の瞳に、私は一瞬、言葉を詰まらせた。
「怪我なく帰ってきたけど、そのあとジルと抱き合って腰を痛めました」
なんて、はしたないことは言えない。貴族の令嬢としての矜持があるし、それ以前に、そんなことをジルの姉に言うなんて正気の沙汰じゃない。
「ま、まぁ……」
私は曖昧に笑って誤魔化した。
── しかし、リアちゃんは私の表情を見逃さなかったらしい。
「……まさか、そういうこと?」
リアちゃんは目を丸くしたかと思うと、ハッとした表情を浮かべた。
「とうとう手を……」
途中まで言いかけたところで、急に口を閉ざし、眉をひそめる。
「ごめんね、やめておくわ……弟のそういう話はちょっと想像すると鳥肌立ちそう」
そう言って、リアちゃんは心底嫌そうに肩をすくめた。
── この世界でも、家族の性の話はやっぱり気持ちのいいものではないのね。
たしかに、私もユリスお兄様のことは大好きだけど、そんな話を聞かされたらいたたまれなくなるかもしれない。
リアちゃんは気を取り直したように、柔らかく微笑んだ。
「でも、おめでとう。事情を知っているからこそ、婚前でも愛し合うことができたなら、それは素敵なことよ」
「……っ」
思わず頬が熱くなる。
「……あとは次の秋を越えて婚約するだけね。あなたたちは、婚約期間をあまり挟まずに結婚しそう」
「そんな、まだ学園生だもの。結婚なんてまだ……」
「なに言ってるの? 貴族の結婚は早いわよ。魔力量が多い者が在学中に子を成したら、むしろ褒められるわ」
「そういうものなの?」
私は目を瞬かせた。
── もうこの世界で生きて十六年も経つのに、前世の価値観に引っ張られてしまう。
日本では、結婚は早くても二十代。学業を終え、自立してからというのが一般的だった。
だけど、この世界では違う。貴族であれば、家同士の結びつきを重視するし、魔力量の多い者同士の結婚は推奨される。
リアちゃんは、私の手をそっと握り、真剣な眼差しで言った。
「だから、ミラちゃんたちは好きに生きていいのよ。好きな時に結婚して、好きな時に子を産めばいい。産まなくてもいい……」
その声色には、どこか自嘲の響きが混じっていた。
「……私も、好きに生きたいんだけれど」
リアちゃんは小さく呟いた。
「リアちゃんは……どう生きたいのか、聞いてもいい?」
なんとなく、そう聞いてほしそうな気がした。
それに、大切な友達だからこそ、私は彼女の本音を知りたかった。
リアちゃんは、ベッドに寝そべると、目を瞑ったまま、ぽつりぽつりと語り始めた。
「私はね、一人で生きていきたいの」
「……」
「結婚して幸せになるっていう想像が、私にはできないのよ。でも、貴族の女は結婚しないと、生きていくのが難しいでしょう?」
リアちゃんの表情には、僅かな寂しさが滲んでいた。
「もし、叶うのなら──」
彼女は夢を見るように語る。
「領地に移り住んで、自分が建てた孤児院の子どもたちを見守って生きていきたい」
「領民と力を合わせて、領地をもっと豊かにしたい」
「重たいドレスや、歩きにくいヒールを履かずに、汚れてもいい適当な服や靴で、一日中働きたい」
どれも、貴族令嬢の「常識」からは外れたものだった。
── でも、それは決して間違ってなんかいない。
前世の記憶がある私から見れば、それはごくまっとうな「女性の権利の主張」だった。
リアちゃんは、やっぱり素敵だ。
「素敵……きっと、できるわ」
私は、心からそう言った。
その時だった。
「ああ、やればいい」
低く、落ち着いた声が響く。
ふと目を向けると──
「ジル!? 早い……まだ四時間ほどしか経ってないのに!」
「こいつ、今日は力が漲ってたから一瞬で終わったんだよ」
アラン殿下が苦笑しながら言い、ジルは静かに私たちへと歩み寄る。
「リアラ、そんな願いなら叶えられるだろう」
ジルは、夜空のような髪を揺らしながら、真っ直ぐリアちゃんを見つめた。
「リアラ、そんな願いなら叶えられるだろう。父上や母上は反対するような人間ではないし、時期公爵は俺だ。リアラが領地で好き勝手することくらい見逃してやるよ」
ジルの言葉は、まるで何でもないことのように軽やかだった。
けれど、それがどれほど彼女の心を救うものだったのか、リアちゃんの反応が物語っていた。
「……なにそれ、弟のくせして生意気」
リアちゃんはそう言いながらも、視線を伏せ、唇を噛みしめる。
「今度こそ急所刺してやる……」
その声は震えていた。
肩が小刻みに揺れ、こぼれた涙が彼女の頬を伝っていく。
「リアちゃん……」
思わず名前を呼ぶと、彼女は袖でごしごしと涙を拭った。
「バカみたい。泣くつもりなんてなかったのに……」
そう呟く彼女の顔は、いつもより幼く見えた。
ジルはそんな姉を見つめ、静かに言葉を紡ぐ。
「好きなように生きろよ、リアラ」
優しく、けれど力強い言葉だった。
リアちゃんはもう一度、袖で涙を拭き、ジルを睨みつけるように見上げる。
「……偉そうに。でも、まあ……たまには弟を頼るのも悪くないかもね」
彼女はそう言って、ふっと微笑んだ。
その笑顔は、ほんの少しだけ吹っ切れたように見えた。




