第39話 もっと。
⚠︎
私の魔力を吸った魔道具を飲み込んだリンネ伯爵は、体を覆うように翡翠色の魔力を纏い、淡く光り輝いた。だが、その瞬間──
「ぐっ……!?」
短く呻いた彼の体が、まるで糸が切れたかのようにピタリと動きを止めた。
「ど、どういうこと……?」
信じられない光景に、私は呆然とつぶやく。
「耐えられなかったんだろうな……ミラの魔力量に」
ジルが静かに言う。
確かに私は魔力が多い方だとは思っている……それでも、普通に魔術扱う程度には制御できるはずなのに。
まるで、器に入りきらなかった水が溢れてしまったような……。
──それほどまでに、私は強大な魔力を持っているということなのだろうか
「この人、どうなるの?」
目の前で倒れたまま動かないリンネ伯爵を見ながら、私はぽつりと尋ねる。
「さあな。もうこのまま死ぬか、禁忌魔道具の使用と侯爵令嬢誘拐の罪で処刑されるか……どっちにしろ、助かる道はないだろう」
ジルの声は冷ややかだった。
「禁忌魔道具……?」
「ミラは詳しくないか。魔力を他人から吸い取る魔道具は、この国では禁忌とされている。そもそも、出回らないよう厳重に管理されているものなんだ」
「そうなの……」
禁忌魔道具──つまり、彼は禁じられた手段を使ってまで私を手に入れようとした。
けれど、それに手を伸ばしたがゆえに、破滅したのだ。
……どのみち、この人は死ぬ。
彼が最期に何を思ったのか、私は知りたくもなかった。
──まさか、前世の私を殺した人物と出会うことになるなんて。
ずっと、通り魔に殺されたのだと思っていた。
でも、違った。
これは呪いのような愛の果てに──私は殺されたのだ。
思い出すと、喉が焼けるように熱くなる。
そして、もうひとつ──耐えられないほどの嫌悪が押し寄せた。
ジル以外の男性に、唇を触れられてしまった。
冷たくて、最低で、押しつけられた感触を思い出すたび、体の奥が震える。
「……っ」
私は堪えきれずに唇を擦った。
強く、何度も何度も──あの感触を、皮ごと削ぎ落とすように。
「ミラ……!やめろ、血が出てる!」
ジルの声に、はっとする。
自分の指先を見て、僅かに滲む赤を確認すると、少しだけ安心した。
……これで、あの唇の感触が少しでも消えてくれれば。
全部、違うものに変えられたらいいのに──。
「……ミラ───」
ジルが私を呼んだ、その時だった。
「王国憲兵団だ! 全員その場を動くな! 」
鋭い声が響く。
憲兵団の到着を告げるその声に、ジルの言葉はかき消された。
◆◆◆
憲兵団に状況を説明する間、ジルとは離され、別々に話を聞かれた。
全ての処理が終わったのは、夜もすっかり更けた頃だった。
リンネ伯爵は拘束され、あとは彼の罪が裁かれるのを待つだけだった。
ようやく解放され、私たちは帰りの馬車に乗り込んだ。
窓の外を見ると、空が仄かに明るくなり始めていた。
……もう朝が近い。
攫われたこと、魔力を奪われたこと、そして極度の緊張のせいか、私は異様に体が重かった。
何も考えたくない。
静かに目を閉じると、横に座るジルの肩が目に入る。
──私は、無言で彼に寄りかかった。
「ミラ、大丈夫か……?」
ジルがそっと腕を回し、支えてくれる。
「うん……ただ、魔力がほぼないせいで、いつもより体が重くて……眠い……」
「……」
魔力の量は人によって適正値があり、それを超えれば暴走を起こし、最悪死に至る。
逆に、一定以下に減ると極度の倦怠感に襲われ、まるで病人のように動くのが辛くなる。
……今の私は、その限界を超えてしまっていた。
「もう少し頑張ってくれ」
ジルの優しい声に包まれながら、私はふっと力を抜いた。
その言葉だけで、なぜか安心してしまった。
気が張り詰めていたのだろうか。
瞼を閉じると、心地よい温もりの中で、私は静かに眠りへと落ちていった。
◇◇◇
まどろみの中で、私は微かな寝息を聞いた。
穏やかで、規則正しいその呼吸音は、どこか心を落ち着かせる。
ゆっくりと目を開くと、目の前にあるのはジルの顔だった。
(……ジルの居室ね)
柔らかな陽射しが窓から差し込み、淡く彼の輪郭を縁取っている。
彼は珍しく、まるで安心しきった子供のように、静かに眠っていた。
ジルがこんなにも穏やかに眠る姿を見るのは、初めてかもしれない。
彼は普段から眠る時間が短いと聞いていた。
それでも、こうして私を抱きしめたまま深く眠っているのなら、少しは安心できる。
(疲れていたのね……)
私はそっと、ジルの髪を撫でた。
夜空のような髪はさらさらと指の間をすり抜ける。
すると、その指の感触に気づいたのか、ジルがゆっくりとまぶたを開けた。
「……ミラ」
低く甘い声で名前を呼ばれた瞬間、強く抱きしめられる。
「ジル……ちょっと苦しいっ」
胸の奥まで響くほどの抱擁に、私は少しもがいた。
「ん~……」
ジルは小さく唸りながら、まるで眠る前よりも甘えてくるように、ぎゅうっと力を込める。
「ジルってば! 起きてるでしょ……」
私は彼の腕を無理やり剥がそうとするが、まるで大きな猫が甘えてくるかのように絡みついてくる。
やっとの思いで引き剥がすと、彼は少しぼんやりとした表情を浮かべ、それからふっと悪戯っぽく微笑んだ。
「バレたか……」
「かわいっ……」
思わず心の声が漏れてしまう。
言ってしまった瞬間、私ははっと口を押さえた。
しかし、ジルの表情が変わるよりも先に、彼の身体が素早く動いた。
「これでもかわいいか……?」
ジルは私の腕をベッドに押さえつけ、しなやかな動きで私の上に覆いかぶさる。
「っ……」
目の前にある彼の顔は、先ほどまでの無邪気なものとは違った。
少し伸びた髪を邪魔そうに首を振って退かす仕草すら、どこか色っぽく見える。
けれど、その瞳には真剣さというよりも、どこか不安を隠すような色が滲んでいた。
(ジルがこんな冗談をするなんて、珍しい……)
もしかして──
「こわくないよ」
私は、そっと囁いた。
「え?」
ジルは、一瞬きょとんとした顔をする。
「ジルは、私が伯爵に乱暴されそうになったから……自分のことも怖いんじゃないかって不安なんじゃない?」
彼の手が、ぴたりと止まる。
私の腕を押さえていた力が抜け、代わりに顎を撫でながら考え込むような仕草を見せた。
「……そうか。そうかもしれないな」
その声には、どこか自分の気持ちを自覚したばかりの戸惑いが混じっている。
気づいていなかったのだろうか、この不安の正体に。
少し苦笑いをしながら、彼は切なげな表情を浮かべる。
(……愛おしい)
どうしてこんなにも、彼は私を大切に想ってくれるのだろう。
「キスして……?」
私は寝そべったまま、ジルに向かって両手を広げた。
「いや、お前……唇を怪我しているだろ」
「あっ……」
言われて、ようやく思い出す。
けれど、すでに魔力は少し戻ってきているはずだ。
私はそっと目を閉じ、唇に手を当て、治癒魔法をかけた。
魔力の流れとともに、じわじわと傷が塞がっていくのがわかる。
「はい、これでキスしてくれる?」
私はいたずらっぽく微笑みながら、ジルに促す。
すると、彼の表情が優しく緩み、思わず笑い声を漏らした。
「ははっ……ミラは本当に甘え上手で困るな」
そう言いながら、ジルは私の頭を撫で、そっと唇を重ねた。
その温もりが愛しくて、心の底から安心する。
しかし、ジルはすぐに唇を離し、少し表情を曇らせた。
「……あいつにキス、されたんだよな?」
その問いに、私は声には出さず、小さく頷いた。
(そりゃ……隠せないよね)
すると、ジルは再び私の唇を塞ぐ。
先ほどとは違い、深く、激しく。
舌が絡み合い、息をするのもやっとなほどの濃密な口づけ。
その瞬間には、もうリンネ伯爵のことなど頭から消えていた。
考えられるのは、ジルのことだけ。
「……ミラ、愛してる」
私のことを誰よりも大切に思い、真っ直ぐに「愛してる」と告げてくれるジル。
その言葉が、どれほど私の心を満たしてくれるのか──。
胸の奥が熱くなる。
幸せすぎて、涙が出そうだった。
けれど、同時に湧き上がるのは、それだけではない。
ジルの体温をもっと感じたい。
彼の指先のひとつひとつまで、私に触れていてほしい。
唇を重ねるだけでは足りないくらいに、もっと……。
そんな思いが込み上げてくる。
(これって……ちょっと痴女っぽい?)
一瞬だけ頭をよぎるが、理性よりも感情が勝った。
我慢なんてできそうにない。
ジルがそっと唇を離そうとした瞬間、私はその後頭部に両手を回し、力強く引き寄せた。
「ミ──!?」
驚いたような声が唇越しに漏れるが、もう止めるつもりはない。
私はそのまま、さらに深くジルに口づける。
熱を帯びた欲望が、そのまま形になったようなキスだった。
お互いの呼吸が乱れ、唇が重なるたびに湿った音が響く。
(もっと……)
絡み合う舌、熱を帯びた吐息。
どちらのものか分からない唾液が口の端から零れ落ちる。
キスだけでこんなにも溺れてしまいそうになるなんて──。
そんな私の変化を、ジルはすぐに察したのだろう。
「……ミラ、もう止まれなくなってもいいのか?」
低く、掠れた声が私の耳に落とされる。
ぞくり、と背中を震わせるような甘い響き。
理性を試すようなその言葉に、私は軽く瞬きをする。
(……どうしよう)
このまま進んでしまってもいいのかもしれない。
けれど、心のどこかに微かなためらいがある。
ジルの瞳を覗き込むと、彼もまたじっと私を見つめていた。
その瞳の奥には、私を求める強い情熱と──それ以上に、私の意思を尊重しようとする優しさがある。
(……ほんと、ずるい)
そんな風に見つめられたら、余計に愛しくなってしまうじゃない。
私はジルの首に腕を回し、小さく囁いた。
「……もうちょっとだけ、キスして?」
すると、ジルは微かに笑い、そっと私の髪を撫でると、また唇を重ねた。
舌を絡めながら、じっくりと味わうようなキス。
まるで確かめるように、私の下唇を甘く噛み、舌でなぞる。
(……っ、こんなの、ずるい……)
痺れるような快感に、思わず指先が震えた。
そして、ジルの手がゆっくりとネグリジェの裾へと伸び、そっと足をなぞる──。
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