第38話 あなたとは違う
「ミラリス・カルバン侯爵令嬢ね……もしかしたら君もこの世界に生まれ変わっているのかもと思ってはいたけど」
リンネ伯爵は私の名前を口にすると、少し感慨深げな表情を見せた。
「まさか、侯爵令嬢だなんてな……そりゃ見つからないわけだ。高位貴族なんか調べさせてるなんて命が足りない……」
大きくため息をつくその男の顔が、恐ろしく歪んで見えた。
私はただ、ぞわりとした寒気に背中をこわばらせる。
「今度こそはと思ったけど、しっかり年の差も同じだなんてショックだなぁ。それに……」
リンネ伯爵は急に私の顎を掴み、ぐいと持ち上げた。
驚きに息を飲む間もなく、顔がぐっと近づき、私の瞳を覗き込む。
「美蘭ちゃん、ジルベール・エルヴァンなんかの恋人だなんて……何かの間違いだよね?」
ギロリと睨みつける闇のような瞳。そこに映る感情は──純粋な狂気だった。
心臓がひやりと冷える。
これは……冗談でも戯れでもない。
この人は、本気でジルを殺すつもりだ。
「公爵の息子なんて、殺すには厄介すぎるよ〜」
ふざけたような口調で笑いながら、彼は軽く肩をすくめる。
まるで、邪魔な虫でも処理するかのように。
ジルが死ぬことはないとしても、もし戦いになれば怪我をするかもしれない。
そんなのは絶対に嫌──早くここを抜け出して、ジルに知らせないと……!
私は手のひらに魔力を込めようとした。
(あれ……っ、なんで?)
「──あ、魔術?残念、美蘭ちゃんの魔術学園に通ってるのはちゃんと知ってるからね!」
リンネ伯爵は、ポケットから小さな石を取り出し、私に見せつけるように掲げた。
それは、私の瞳と同じ翡翠色に鈍く光っていた。
「この特殊な魔道具で、美蘭ちゃんの魔力はほとんど抜いておいたんだ」
……そんなの、あり得ない。
体がずしりと重く、体内を流れるはずの魔力がほとんど感じられない。
このままでは、魔術や魔法は一切使えない……!
「俺はね、後悔してたんだ」
リンネ伯爵の声が、ぞっとするほど穏やかに響いた。
「美蘭ちゃんに触れずに死んだことを……」
「──っ!」
「どうせ死ぬなら、愛し合ってから死ぬべきだった。僕だけのものじゃなかったとしても……」
何を言っているのか、理解したくなかった。
いや、理解したくない。
彼はゆっくりと歩み寄りながら、まるで獲物を逃がさぬように、私を見つめている。
「来ないで……!」
震える声で叫ぶが、無駄だった。
背中がひやりとベッドの側面にぶつかる。
もう、逃げ場はない──。
腕を伸ばし、必死で抵抗しようとするが、その手をあっさりと押さえ込まれる。
足をばたつかせても、体の自由は奪われたまま。
「やだ!やだ!」
叫ぶことしかできない。
そして、次の瞬間──。
頬をぐいと掴まれ、無理やり顔を固定されると、冷たい唇が押し当てられた。
(やだ!汚い!ジル以外なんかと……したくない!!)
必死に口を噤む。
「ほら、口開けて、美蘭ちゃん」
いやだ……いやだ……!!
「……まあ、いいや」
彼はそう言うと、今度は首筋に顔を埋めた。
ぞくり、とする悪寒。
舌が肌を撫で、吸い付く感触が走る──その瞬間だった。
──ドオオオンッ!!
地響きのような轟音と共に、天井から砂のような瓦礫が降り注ぐ。
「……ちっ、早かったな」
リンネ伯爵が舌打ちした、その直後──。
二発目の爆発音。
その衝撃で壁の一部が崩れ、煙の中から、ゆっくりと足音が響く。
コツ、コツ、コツ──。
「……ジル……っ!」
煙の向こうに、夜空色の髪が揺れる。
冷徹な眼差しが、私と──私にのしかかるリンネ伯爵を見つめていた。
ジルの表情が、見る見るうちに変わる。
次の瞬間、強烈な風魔術が発動し、リンネ伯爵の体が吹き飛ばされた。
彼は壁に叩きつけられ、呻きながら崩れ落ちる。
「っ……!」
ジルは私に駆け寄ると、持っていた剣で鎖を断ち切った。
枷は残るが、自由になった手足で、私は思わずジルにしがみつく。
「ジル……怖かった……」
「遅くなってごめ──」
ジルは言葉を途中で止めた。
その様子に違和感を覚え、私はジルの胸に埋めていた顔を上げる。
「ジル……?」
彼は何かを見つめるように、私の首元に視線を落としていた。鋭く、静かな怒りを秘めた瞳が、そこにあるものを正確に捉えている。
「その首は……こいつにやられたものか……?」
(首……?さっきなにかされていたかも……)
そう思いながら、自分の首筋をそっと手で触れる。そこには、じんわりとした熱と、痛みが残っていた。
「た、多分……」
ジルの瞳がさらに暗く深く沈む。
「そうか、わかった。下がってろ」
静かに、しかし確実に告げられた言葉。
次の瞬間、ジルの足元に強烈な雷の魔法陣が展開された。
紫電が迸り、空気がピリピリと痺れる。
モタモタと痛そうに立ち上がろうとしていたリンネ伯爵が、魔力の奔流に気付き、表情を引きつらせた。
「こんな強力な魔術を……本気で殺すつもりかよ……っ!」
(ジル……そんなの、だめ!)
「ジル……!だめ!死んじゃうわ!」
「死んで当然だろ」
ジルは静かに言い放った。
その声音には迷いがなかった。
雷の魔法陣はどんどん大きくなり、魔力の圧が部屋全体を包み込む。入学したばかりの頃に見た彼の魔術陣の数倍……いや、数百倍以上の力を秘めている。
このままでは、本当にリンネ伯爵は消滅する。
人の形すら残らない――燃え殻さえも、跡形もなく。
「ジル……!お願い、やめて!」
私の声も、雷鳴のような魔力のうねりに掻き消されそうになる。
この男のことは確かに憎い。
私の手で殺してやりたいほどに憎い。
だけど、そうもいかない。
私たちは人間同士。殺してしまったら、この男と同じになってしまう……
(ジル、ごめん)
私は心の中でそう叫びながら、ジルの魔術陣の前に立ちはだかった。
「ミラ、そこを退け」
「やっぱり殺してはダメ……憲兵団に引き渡そう」
「嫌だ、俺がここで殺す」
「ジル!ジルがここで人を殺してしまったら、私はジルと一緒にいられなくなる……お願い……」
強く、強く、彼を見つめる。
ジルの魔術陣がみるみる縮小していく。
「……それは、いやだ」
悔しそうに、ジルはゆっくりと手を下ろした。
その瞬間、ずっと脅え震えていたリンネ伯爵が、急に調子よく口を開いた。
「美蘭ちゃんは俺を守ってくれたんだな……!美蘭ちゃんはその男に脅されているだけなんだろ……?」
「リンネ伯爵……」
「その男が強いからって、魔力量を盾に脅されているんだ!絶対そうだろ……!」
「伯爵……!」
「美蘭ちゃん!俺と生きよう!ずっと君を愛し抜くよ……!ずっとずっとだ……!」
「――柳田さん!!!」
その瞬間、彼の口がピタリと止まった。
ずっと、この男の耳には届かなかった私の声。
ようやく届いたのか、彼は信じられないものを見るような目で私を見つめた。
「私は彼のことを愛しています」
私の声は震えていなかった。
「私にとって、柳田さんは憎いです。気持ちが悪い……それが私の本音です」
リンネ伯爵の顔が歪む。
「は……?その男と俺なにが違うんだよ!!!美蘭ちゃんのために人を殺そうとするのは同じじゃねえか!!!俺と同じなのになんでそいつなんだよ!!!」
怒号が、地下室に響き渡る。
ジルが剣を抜こうとしたが、私はそれを手で制止した。
「ジルは、あなたとは違う。絶対に私を傷付けない……」
「……意味わかんねぇ……」
そう呟いたリンネ伯爵は、突然、懐から魔道具の石を取り出した。
――私の瞳と同じ色をした石。
(な、なに……?)
彼は迷いなく、その石を飲み込んだ。
「まさか……!」
次の瞬間、彼の全身が翡翠色に輝き出す。
「ぐっ……!!!」
苦しそうに身をよじり、喉を押さえるリンネ伯爵。
だが、同時に――部屋中を圧倒するような魔力の奔流が溢れ出した。
「まさか……私の魔力を……!?」
彼が飲み込んだのは、私の魔力を吸収した魔道具。
それを体内に取り込んだということは……
私の全魔力が、彼のものになってしまう――!?
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