第36話 社交界デビュー
夜の王城は、思っていたよりもずっと煌びやかで、まるで宝石箱の中に入り込んだようだった。
「わぁ〜! きれい!」
思わず歓声を上げると、ジルが小さく肩をすくめて隣で言った。
「まあ、王城主催だからな」
どこかぶっきらぼうな言い方だったが、私はすぐにジルの様子がおかしいことに気がついた。馬車を降りてからずっと周囲を警戒するように視線を巡らせ、私と歩くペースもいつもより早い。
「ジル、ちょっと歩くの早い……!」
裾を少し持ち上げて小走りになりながら、私は彼の腕を軽く引いた。
「あ……ミラ、ごめん。早く人の少ないところに移動したくて、焦りすぎたよ」
申し訳なさそうに足を緩めるジル。その表情からは、何かしらの不安が見え隠れしているように思えた。
「去年、何かあったの?」
「……いや、時期にわかるよ……」
歯切れの悪い返事に、私は少し眉をひそめた。ジルの表情は曇ったままだったが、それ以上は語ろうとしなかった。
◆◆◆
王城の案内人に控え室へと案内され、少し休んでいると、入場順が爵位順であることを伝えられた。エルヴァン公爵家は最も早い部類に入るため、私たちはすぐに会場へ向かうことになった。
扉の前に立つと、奥からかすかに華やかな音楽とざわめきが聞こえる。
(どんな景色が広がっているんだろう……?)
心臓が高鳴る。けれど、ジルがそっと腕を差し出してくれたことで、不思議と落ち着くことができた。
彼の腕にそっと手を添え、ゆっくりと扉が開く。
そして、広がるのは──
想像よりもずっと広く、そしてまだ人の少ない、大理石の広間だった。
階段を降りる途中で、すでに視線が一斉にこちらへ向けられているのがわかる。そこにいるのは、王族と、公爵家以上の貴族たち。彼らの冷静な眼差しに、私は思わず背筋を正した。
(これが、公の場……)
高位貴族の女性たちは微笑みを絶やさず、男性たちは静かに佇んでいる。その中で、一際堂々とした存在感を放っているのが、玉座に座る国王陛下と王妃陛下だった。
ジルとともに礼を尽くし、挨拶を交わすと、ようやく緊張が和らぐ。
(……よし、これで一番緊張する入場は終わった!)
あとは、ご挨拶をして、ジルとファーストダンスを踊るだけ。
少し安心したところで、突然、耳元で甘い声が囁かれた。
「ミーラちゃんっ」
「……リアちゃん!」
振り向けば、ワインレッドのドレスに身を包んだリアちゃんが立っていた。黒髪とのコントラストが美しく、まるで一輪の薔薇のようだった。
(さすがヒロイン……この世で一番美しいのでは……?)
「リア様……とっても美しいです」
「え、なんか急に『様』呼びに戻ってるよ?」
「これは、わざとです! 今日のリア様は、まさに『リア様』がふさわしいくらい美しいんです!」
「ふふっ、それを言うならミラちゃんも……今日はまさに『ミラリス様』って感じよ。とっても麗しい。私の弟はちゃんと捕まえておけるのかしら?」
そう言いながら、リアちゃんの視線がジルへと向けられる。
私もつられて振り返ると──
「ジル、今日私と踊って?」
「待って、私の方が先よ」
「お姉様たちは旦那様がいるでしょ!?」
「何言ってるの、記念よ記念! ジルベールは義務じゃない限り踊らないんだから!」
ジルが女性たちに囲まれている……。しかも、彼女たちは全員、王女様たちだ。
「去年ね、ジルが社交界デビューしてからああやって囲まれててね……」
リアちゃんが私の耳元でそっと囁く。
「一人三曲は踊るっていう暗黙の了解があって、去年は第三王女のリリア様と、それから適当に子爵令嬢と伯爵令嬢を選んで踊ったのよ」
「へぇ……」
ジルが外で周りを警戒していた理由はこれだったわけだ……。
私は努めて平静を装ったけれど、胸の奥が少し重くなるのを感じた。
(……王女様はともかく、ジルが自分で選んで他の令嬢と踊ったのは、なんか嫌だな)
自分の感情の重さに、少し戸惑う。
まだ私と再会していない頃、むしろ私がジルを避けていた頃の話なのに、こんなふうに思ってしまうなんて。
そんなことを考えていたときだった。
「エルヴァン公爵令嬢殿、お久しぶりです。今夜もとても麗しくいらっしゃいますね」
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
この声……。
(誕生日の日に……!)
「リネス伯爵ではないですか。お久しぶりですわ」
「そちらの、美しいお嬢さんは?」
「こちらは、カルバン侯爵のご息女のミラリス様です。弟の大切な人ですの。リネス伯爵、この子だけは勘弁なさって?」
リアがさらりと告げた言葉にも、私はただ震えることしかできなかった。
(お願い、早く……立ち去って……)
「そうか、残念だ。では、次チャンスがあれば声をかけようかな」
「ふふっ、残念ながら、弟だけでなく私のお墨付きもありますのよ。諦めていただけると」
「ますます気になってしまうな……では、またお会いしましょう? 美しいお嬢さん」
男が去った瞬間、私は崩れるようにしゃがみ込んだ。
「……ミラ!」
ジルが駆け寄る。
「リンネ伯爵が声をかけてきてから、ミラちゃんの様子がおかしいのよ!」
「……あの日の男か?」
震える私を抱き寄せた。
ジルの腕の中で、私は震える指をぎゅっと握りしめた。
「……ごめん、ジル」
「謝らなくていい」
ジルの声はいつもより低く、けれど不思議と安心感を与えてくれるものだった。そのまま彼は私の肩をしっかりと抱き寄せると、鋭い視線を向けながら周囲を見渡した。
「ジルベール様?」
「ジルベール、どうかしましたの?」
王女殿下をはじめ、貴族令嬢たちが次々と声をかけてくる。しかし、ジルは一切振り向くことなく、冷ややかな声で告げた。
「申し訳ありませんが、本日はどなたとも踊るつもりはありません」
「えっ……?」
「それは、どういう――」
言葉を続けようとした令嬢たちを完全に無視し、ジルは私を優しく抱き上げた。
(え……?)
ふわりと身体が浮く。周囲がどよめき、誰かの驚いた声が聞こえた。
「きゃっ……!」
「ジル……!?」
私は思わずジルの首にしがみつく。彼の腕は力強く、そして確かな温もりを持って私を支えていた。
「……失礼」
ジルはそれだけ言い残すと、そのまま堂々と歩き出した。
「ちょ、ちょっとジルベール様!?」
「ま、待ってください!」
令嬢たちの声が背後で響くが、ジルは一切足を止めなかった。むしろ、まっすぐに会場を後にしようとしている。
「ジル……みんな見てる……!」
「だから?」
淡々とした返答に、私は言葉を失う。こんなに大勢の貴族たちが見守る中、社交界の場で公然とお姫様抱っこをして去るなんて――常識的に考えてありえない。
だけど、ジルはまるで気にする素振りもなく、堂々と王城の廊下へ踏み出した。
「お前が嫌がる相手に囲まれて、それをただ見てるほど、俺はできた人間じゃない」
「……!」
彼の言葉が胸に響く。
「……ありがとう」
「礼はいい。ただ、お前を守るのは俺の役目だからな」
彼の横顔はどこまでも真剣で、そして――優しかった。
ジルの足は私たちが元いた控え室へ向かおうとしていた。
けれど、私の中にはざわつくような不安が渦巻いていた。さっきまでの喧騒、見慣れぬ人々の視線、そして――あの男の声。胸の奥に重く沈む何かがある。
(……人も多くなってきていたし)
「ジル……私、外の空気が吸いたい」
少しでも息苦しさを和らげたくて、そう頼むと、ジルは私の顔を覗き込んで小さく頷いた。
「わかった。庭園に行こう」
彼は私の肩を支えながら、夜の空気が広がる王城の庭へと歩き出した。
庭園に着くと、星の光に照らされた花々が風に揺れ、甘く穏やかな香りが漂っていた。整えられた花壇の間を石段でできた小道が走り、その途中、ポツンと置かれたベンチが私たちを迎えた。
「ここに座ろうか」
ジルが私をそっと降ろす。まだ少し足元がふらつくけれど、冷たい石の感触が逆に心地よく、思わず小さく息を吐いた。
「ありがとう……少し……凄く怖く感じてしまって」
胸に手を当てると、鼓動がまだ速い。何がこんなに怖いのかわからないのに、体だけが怯えているようだった。
「リンネ伯爵。会ったことは?」
ジルの低く落ち着いた声が耳をくすぐる。
「ないはず……」
(……ない、わよね?)
でも、なぜだろう。あの声を聞いた瞬間、全身が凍りついた。まるで、過去の何かが私の中で目覚めるように。
ぼんやりとした違和感。昔どこかで会ったことがある気がする――子供の頃?
(記憶が薄れている時期……?)
彼は私よりも十歳近く年上に見えた。そして「伯爵」だ。爵位を重んじる父が、わざわざ侯爵家に呼ぶ相手とは思えない。
頭の奥を探るように記憶を辿る。けれど、それ以上考え込もうとすると、また視界がぐらりと揺れた。
「ミラ……やっぱり部屋に戻ろう」
ジルの手が私の肩に触れる。温かくて安心する――けれど、私は首を振った。
「いや、外の空気を吸っていたいの……それに、お花たちも綺麗で心が癒されるわ」
満開の花々が静かに揺れ、夜風が髪をそっと撫でる。
私は花が好きだった。
侯爵邸の庭で見つけたユラギス草――それが、ジルと再び出会うきっかけになったように。
あと一年もないかもしれない命への焦り、誰かもわからない男への恐怖、家族との不快な関係。
ここにいると、そんなものが少しだけ遠のく気がした。
「では、水だけでも持ってこさせよう。城の使用人に頼んでくる」
「ありがとう」
ジルは小さく私の頬に触れ、名残惜しそうにその場を離れた。
夜の庭園に一人残される。
「私は昔、彼と会ったことがあるのかもしれない……」
独り言のように呟いて、頭の中を整理する。
いつ?どこで?なぜ?
考え込むほど、なにか私が一番恐怖に感じているような存在が思い出せる気がする。でも、決定的な何かが思い出せない。
――だからこそ、気づくのが遅れた。
背後に忍び寄る影の存在に。
「そうだよ。やっと会えたね、美蘭ちゃん」
耳元で、囁くような声。
その瞬間、全身に鳥肌が立った。
次の瞬間、視界が真っ暗になる。
布――いや、手袋をはめた手。鼻と口を塞がれ、もがき苦しんでいると、強い薬品の匂いが鼻を突いた。
(ダメ……!)
抗おうとする意識は、あっという間に霞んでいく。
(ジル……)
名前を呼ぼうとしたけれど、声にならなかった。
そうして私は、闇の中へと落ちていった。
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