第35話 嫌な気配
誕生日から、四ヶ月が経った。
願いの魔女の手がかりも、悪夢を見せてきた魔女も、いまだに正体がわからないまま。
ただ時間だけが過ぎていく。
──私の命が尽きるまで、もう一年もないというのに。
そんな不安が心の片隅に澱のように沈んでいるはずなのに……今は、それよりも。
◇◇◇
学園の敷地内を移動しているときのことだった。
ふと、背後に何かの気配を感じ、私は勢いよく振り向く。
(まただ……最近、誰かに見られている気がする)
背筋が薄く粟立つ。
誰かの視線が、遠くから私に注がれているような、そんな感覚。
それは、四ヶ月前に見知らぬ男とすれ違ったときに感じたものと、どこか似ていた。
「ミラ? どうした?」
隣にいたジルが、不思議そうに私の顔を覗き込む。
彼の夜空色の瞳が、まっすぐ私を見つめていた。
「ううん……最近、なんだか誰かに見られているような感じがするの」
「そうか、心当たりは……?」
「うーん、心当たりというか……」
私は少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。
「四ヶ月前の誕生日の日の夜、見知らない男性とすれ違ったときに、すごく嫌な予感がしたって話したじゃない?」
「ああ、すぐに消えてしまった……」
「うん。そのときの気配に似ている気がするの」
──あの日の夜。
私は、ただのすれ違っただけであるはずのその男から、説明のつかないほどの恐怖を感じた。
けれど、私が怖くて足を竦ませている間に、彼は人混みに紛れて消えてしまった。
何がそんなに怖かったのか。
彼がなぜ、あの言葉を口にしたのか。
今もわからないまま。
「俺もミラのそばをなるべく離れないようにするから、ミラも一人で出歩いたりしないで」
ジルの言葉は、私の不安を少しだけ和らげる。
彼の隣にいると、守られているような気がして……。
「ふふっ、ジルは今だって私のそばを全く離れないじゃない。次期公爵様なんだから、そんなに暇じゃないでしょ?」
「あのなぁ……俺はその辺の勉強はほとんど終わらせてるんだ。ミラと出会った後にはな」
そう言ってジルは、少し恥ずかしそうに自分の頭をかいた。
リアちゃんから聞いたことだけど、ジルは毎日ほとんど眠らないらしい。
寝ても一、二時間なのだとか。
十一歳から六年間、この生活を続けているのに、どうしてこんなに長身で逞しく育つのか……。
私は数ヶ月前に、なぞったジルの胸筋や腹筋を思い出す。
あれから、ジルとはあんな風に肉体関係を持ちそうになることはなかった。
というか、それまであれだけ二人きりでいたがっていたジルが、自室にカーラを呼ぶようになった。
カーラの前でも抱きしめてきたり、キスをしたり……最初は恥ずかしくて仕方がなかったけれど、最近はもう慣れてきてしまった。
この四ヶ月間、本当の意味で何もなかった。
(はぁ、つまんないの)
それにしても、時間が残されていないのに、ジルがあまり焦らなくなっているのが気になる。
まるで、すべてわかっているような……そんな余裕を感じる。
「そういえば、ミラはもうすぐ社交界デビューだろ? もし良ければ、その時にでも父と母に会ってくれないか?」
社交界デビュー。
この国では、成人年齢とされる十六歳から始まる。
私は次の社交界シーズンで、いよいよ正式にデビューを迎えるのだ。
「うん、ぜひ! 何度も公爵家に行っているのに、ご挨拶したことがないわ」
「ああ、父は執務が忙しいようでね。母は領地によく顔を出す人でね。リアラが孤児院を作ったあと、実技の授業で顔を出せなくなったから、母が代わりに領地に留まっていたんだ」
「そう……優しい人たちなのね」
侯爵令嬢という立場もあって、今までいろんなご令嬢たちからお茶会の招待状をいただいていたけれど、私が人と関わらなさすぎて、名前を見ても誰が誰なのかまったくわからない。
だから、すべてお断りしてきた。
社交界に出れば、少しは名前と顔が一致するかしら……。
高位貴族であることに感謝ね。
絶対に間違いが許されない自分より上の立場の人間が少ないのだから。
「不安なこともあるだろうが、俺がエスコートするから」
「ジルが……?」
「ん? 何か問題でも?」
「いや、普通は婚約者……婚約者がいなければ家族がエスコートするのが普通なんでしょ?」
「そうだったか?」
ジル……絶対に私が何も知らないと思って、騙せると思ったわね。
いくら私とジルが愛し合っていても、社交界の常識を考えたら醜聞になりかねない問題よ。
そんな簡単に了承は───
「なら、ミラは誰にエスコートを?」
「そりゃ、ユリスお兄様でしょ?」
「君の兄は、自分の婚約者をエスコートしないのか?」
──忘れていた。
私は、お兄様の婚約者と会ったことがないから、すっかり抜け落ちていた。
「だったら、さすがに社交界だし父──」
「君が父と歩きたいとはな……」
「そういうわけじゃ……」
「俺より、自分の父を選ぶんだろ?」
そう言って、ジルはわざとらしく目頭を摘み、私を横目で見る。
(もう! ジルってば絶対に煽ってる!)
「わかった! わかったわよ! 何言われても、ほんっとに知らないからね……!」
折れた私の横で、その言葉を待っていたかのように、ジルが小さくガッツポーズをしていたのを……私は見なかったことにしてあげた。
◇◇◇
そして、一ヶ月後の王家主催の社交界。
「いいか、人から渡された酒は飲むなよ。強いのを渡してくる輩だっているんだ。それから、一人にもなるな。ジルベールくんがいるから心配はしてないが、もしも一人になりそうな時は僕か……最悪、父上に声をかけるんだぞ。それから知らない奴に───」
「あぁぁ〜わかったわかった!」
私は大げさに手をひらひらと振り、兄の言葉を遮った。
「子どもじゃないんだから、大丈夫だって! ほら、婚約者さんを待たせてるんでしょ? シスコンって言われてしまいますから、そろそろ行きなさーい」
そう言いながら、お兄様の背中をぐいぐい押し、侯爵邸の外へと追い出すように促す。
社交界へ向かう準備を整えた侯爵邸のフォワイエ。
磨き抜かれた大理石の床にはシャンデリアの光が映り込み、煌びやかな輝きを放っている。私の侍女であるアンや数人の使用人たちが控えている中、お兄様は何度も何度も私に注意事項を確認してきていたのだ。
まるで心配性な母親のように。
確かに、この国は前世の日本より平和ではない。
女性ならば、夜道を一人で歩けば襲われる可能性が高い。私自身、比較的平和であった日本で襲われて一度命を落としているのだから運もあるのだろうが……
この国では、襲われなかったら運が良かった。襲われたり、誘拐されてしまうのが普通くらいの認識だった。(感覚麻痺って怖い)
「なんだ、お前まだいたのか」
低い声が響き、思わず背筋がピンと伸びる。
声のする方を振り返ると、父がいつの間にか私室を出て、大理石の階段を降りてくるところだった。
「はい」
すかさず、私はお人形モードに切り替える。
微笑みを浮かべ、ただ「はい」か「いいえ」でしか答えない。
「社交界へ行くようだが、カルバン家に恥をかかせるようなことはするなよ」
「はい」
「婚約もしていないのに男といるのを許しているのは、相手がエルヴァン公爵家のご子息だからだ。わかっているな?」
「はい」
淡々としたやり取り。
父は最初から私に期待などしていない。ただ、問題を起こすなと念を押しているだけ。
そこへ、母が現れる。
年齢のわりに煌びやかなドレスをまとい、品のある笑みを浮かべながら階段を降りてきた。
「あなた、そろそろ行きましょう」
母は、父とは違う。
私が見えていない。
正確には、見えないふりをしている。
いつものこと。だから、もう慣れた。
やがて両親は王城へ向かい、フォワイエにいた使用人たちもそれぞれの持ち場へと戻っていく。
だが、私の侍女であるアンだけは違った。
最後までそこに残り、私を見つめてくれている。
「お嬢様、本当にお美しいです。ご立派にご成人なされたのですから。胸を張って、楽しんできてください!」
彼女の明るい声と、優しい微笑み。
── それだけで、私はこの家にまだ居場所があるのだと思える。
「ミラリス様、ジルベール・エルヴァン様がいらっしゃられました」
扉を開け、使用人がそう告げる。
「アン、ありがとう。行ってきます」
そう伝え、私は胸を張って侯爵邸を出た。
◇◇◇
夜の闇に包まれた庭園を抜け、ジルが待つ馬車へと向かう。
使用人の後ろを歩きながら、視線を前へ向けると──
馬車の外で待っているジルの姿が目に入った。
黒のフラックスコートに身を包み、背筋を伸ばして立つ彼の姿は、まるで夜空を背負った王子のようだった。
── どうしてこんなに、格好いいの。
思わず息を呑む。
ジルは元々端正な顔立ちをしているが、こうしてフォーマルな装いをしていると、さらに洗練された美しさが際立つ。
その姿が、昔憧れた”私だけの王子様”に重なって見えてしまうのは……錯覚じゃないはず。
「ミラ、待たせたね」
ジルは私に手を差し出した。
「ほんとよ」
私は微笑みながら、その手を取る。
「……ミラが元々美しいのは知っていたが、こうも……本気を出されてしまうと、どこを見ていいか分からないな」
「ん?どういうこと?このドレス?」
私は首を傾げる。
「誕生日にジルから貰ったドレスにしたの! 綺麗だし、この少し派手な感じが社交界にもピッタリかなって」
そう言うと、ジルはなぜか少し顔を逸らした。
「それは嬉しいんだが……俺の瞳の色のドレスだけではきっと牽制できないくらい、ミラの破壊力が凄まじい……」
「……?」
「指輪は?つけているか?」
「え?あ、うん……」
「よし、少し待ってろ」
そう言うと、ジルはくるりと背を向け、"バチン!"と大きな音を立てて両手で自分の頬を叩いた。
「っ……!」
思わず驚く。
再び振り向いた彼の顔は、さっきとは違い、しっかりと私を見据えていた。
「それでは、行こうか」
先ほどまでの動揺を押し殺し、今度は凛とした表情で手を差し出してくる。
「変なジル……」
私は小さく呟きながら、その手を取るのだった。




